2017年04月29日

雌伏 三十一

小説「新・人間革命」〉 雌伏 三十一

 山本伸一は、言葉をついだ。
 「意見というのは、人の数だけあるといっても過言ではない。ましてや世代などが違えば、意見は異なって当然です。
 座談会のもち方一つでも、平日の夜がいいという人もいれば、土曜や日曜の夜がいいという人もいる。日曜の昼がいいという人も、平日の昼がいいという人もいる。でも、どれかに決めなければならないので、より多くの人が都合のよい日を選ぶことになる。
 そして、皆で協議して決まったことに対しては、自分の希望通りではなくとも、心を合わせ、成功するように最大の努力を払っていくことが大事です。
 また、座談会を運営していく側の人は、参加できないメンバーのことを考慮して、別の日に、小さな単位での語らいの場をもつとか、たまには曜日を変えてみるとか、皆が平等に、喜々として信心に励めるように工夫をしていくことが必要です。
 そのほかの活動の進め方や運動の在り方についても、いろいろな意見があるでしょう。活動の方法に、“絶対”や“完璧”ということはありません。メリットもあれば、なんらかのデメリットもあるものです。したがって、問題点があったら、皆で知恵を出し合って、それをフォローする方法を考えていくんです。柔軟に、大きな心で、互いに力を合わせていくことが大切です」
 青年たちは、大きく頷きながら話を聞いていた。伸一は、一人ひとりに視線を注ぎ、力を込めて語っていった。
 「活動を進めるうえで、いちばん心しなければならないのは、自分の意見が受け入れられないことで、失望感をいだいたり、感情的になって人を恨んだりしてしまうことです。それは、自分の信心を破るだけでなく、広宣流布を破壊する働きになっていく。
 どの団体や宗教も、多くは運動上の意見、方法論の違いから対立や憎悪を生み、分裂しています。学会は、断じて、そんな轍を踏むようなことがあってはならない!」
posted by ハジャケン at 08:40| 山梨 ☀| 新・人間革命30-2雌伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月27日

雌伏 二十九

小説「新・人間革命」〉 雌伏 二十九

 山本伸一は、来る日も来る日も、神奈川研修道場や新宿文化会館などで、各地や各部の代表らと懇談し、指導・激励を続けた。
 一部の週刊誌などは、相変わらず学会批判を続け、捏造、歪曲した報道も盛んであった。しかし、伸一は、悠然と、太陽が己の軌道を黙々と進むように、個人指導を重ねていった。励ました同志が、信心に奮い立ち、宿業の障壁に挑み、乗り越え、人生の凱歌を響かせる姿を見ることに勝る感動はない。
 伸一は、青年たちとも好んで懇談した。神奈川文化会館で数人の男子部、学生部の幹部らと語り合った折、彼は尋ねた。
 「学会は新出発して半年以上が経過したが、青年は元気かね」
 男子部の幹部が答えた。
 「はい。頑張っています。ただ、先生が会合で指導されることがなくなってしまい、皆、寂しい思いをしています」
 伸一は、すかさず言った。
 「そう感じたならば、青年が立ち上がるんです。そうでなければ、傍観者であり、主体者ではない。自分が一切を担おうと決めて、前進の原動力となっていくのが青年です」
 男子部の幹部が、困惑した顔で語った。
 「新しい活動などを提案しても、壮年の先輩たちは、なかなか賛成してくれません」
 伸一は、笑みを浮かべた。
 「青年が新しいものを企画し、先輩である壮年たちが反対する――多かれ、少なかれ、どの団体や社会でもあるものだ。
 年配者には、何事にせよ、豊富な経験がある。そこから導き出された経験的法則というものがあり、その尺度で物事を判断する。
 この経験則という裏づけがあるだけに、年配者の判断には間違いは少ない。しかし、自分が経験していない物事には否定的になりやすい。また、時代が大きく変化している場合には、経験則が役に立たなくなる。それが認識できないと、判断を誤ってしまう。
 壮年幹部の側は、その点を心して、青年の意見に、積極的に耳を傾けていくべきです」
posted by ハジャケン at 09:55| 山梨 ☔| 新・人間革命30-2雌伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

雌伏 二十九

小説「新・人間革命」〉 雌伏 二十九

 山本伸一は、来る日も来る日も、神奈川研修道場や新宿文化会館などで、各地や各部の代表らと懇談し、指導・激励を続けた。
 一部の週刊誌などは、相変わらず学会批判を続け、捏造、歪曲した報道も盛んであった。しかし、伸一は、悠然と、太陽が己の軌道を黙々と進むように、個人指導を重ねていった。励ました同志が、信心に奮い立ち、宿業の障壁に挑み、乗り越え、人生の凱歌を響かせる姿を見ることに勝る感動はない。
 伸一は、青年たちとも好んで懇談した。神奈川文化会館で数人の男子部、学生部の幹部らと語り合った折、彼は尋ねた。
 「学会は新出発して半年以上が経過したが、青年は元気かね」
 男子部の幹部が答えた。
 「はい。頑張っています。ただ、先生が会合で指導されることがなくなってしまい、皆、寂しい思いをしています」
 伸一は、すかさず言った。
 「そう感じたならば、青年が立ち上がるんです。そうでなければ、傍観者であり、主体者ではない。自分が一切を担おうと決めて、前進の原動力となっていくのが青年です」
 男子部の幹部が、困惑した顔で語った。
 「新しい活動などを提案しても、壮年の先輩たちは、なかなか賛成してくれません」
 伸一は、笑みを浮かべた。
 「青年が新しいものを企画し、先輩である壮年たちが反対する――多かれ、少なかれ、どの団体や社会でもあるものだ。
 年配者には、何事にせよ、豊富な経験がある。そこから導き出された経験的法則というものがあり、その尺度で物事を判断する。
 この経験則という裏づけがあるだけに、年配者の判断には間違いは少ない。しかし、自分が経験していない物事には否定的になりやすい。また、時代が大きく変化している場合には、経験則が役に立たなくなる。それが認識できないと、判断を誤ってしまう。
 壮年幹部の側は、その点を心して、青年の意見に、積極的に耳を傾けていくべきです」
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2017年04月26日

雌伏 二十八

小説「新・人間革命」〉 雌伏 二十八

 山本伸一は、十一月十六日の本部幹部会は学会創立四十九周年を記念する式典であるだけに、わずかな時間でも出席し、同志と共に新しい広宣流布のスタートを切りたかった。
 彼は、会合の途中で入場した。大多数の参加者が、久しぶりに伸一の姿を目にした。揺るがさんばかりの大拍手が場内を圧した。
 彼は、長い話をすることは自粛し、上着を脱ぎ、扇を手に壇上の中央に立った。
 「今日は、学会歌の指揮を執ります。『威風堂々の歌』にしよう!」
 会長辞任後、初めての伸一の指揮である。
 再び、雷鳴を思わせる大拍手がうねった。
 講演ばかりが指導・激励ではない。戦いは智慧である。工夫である。創造である。どんなに動きを封じられようが、広宣流布への不屈の一念があれば、前進の道が断たれることはない。伸一は、一曲の指揮で、皆の魂を奮い立たせようと、決意したのである。
 高らかに勇壮な調べが流れ、喜びに満ちあふれた躍動の手拍子がこだました。

 〽濁悪の此の世行く 学会の……

 彼は、まさに威風堂々と、大鷲のごとく、力強く舞った。
 “大東京よ、立ち上がれ! 全同志よ、立ち上がれ!”と心で叫びながら。
 頰を紅潮させ、大きく腕を広げ、力いっぱい手拍子を打つ壮年もいた。目を潤ませながら、声を限りに歌う婦人もいた。凜々しき瞳に闘魂をたぎらせる男子部も、歓喜に顔をほころばせて熱唱する女子部もいた。
 皆の息はピタリと合い、生命は一つにとけ合った。吹き荒れる嵐のなかで、この日、東京から、再び凱歌の行進が開始されたのだ。
 「仏法は勝負」である。ゆえに、広宣流布の戦いは、いかなる逆境が打ち続こうが、断固として勝つことを宿命づけられているのだ。
 広布の勝利王は、即人生の勝利王となり、幸せの勝利王となる。広布の峰を一つ一つ越えるたびに、幸の太陽は燦然と輝きを増す。
posted by ハジャケン at 09:16| 山梨 ☀| 新・人間革命30-2雌伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月25日

雌伏 二十七

小説「新・人間革命」〉 雌伏 二十七

 十一月十六日、創価学会創立四十九周年を記念する本部幹部会が、東京・巣鴨の東京戸田記念講堂で開催された。
 講堂の立つ豊島区には、初代会長・牧口常三郎と第二代会長・戸田城聖が軍部政府の弾圧によって投獄された東京拘置所があった。牧口は、ここで殉難の生涯を終えたのだ。
 戸田記念講堂は、その場所にも近く、両先生の死身弘法の精神をとどめる創価の新法城として工事が進められ、この年の六月に完成したのである。しかし、山本伸一が会合に出て指導することは制約されており、彼は落成式への出席を控えた。
 そうしたなかでも、講堂のオープンに尽力してくれている方々を讃え、御礼を述べようと、式典の前日に講堂を訪れ、同志と語らい、励ましたのである。以来、折々に、ここに足を運んでは、地元・豊島区や隣接する北区の同志、全国各地から集って来たメンバーと懇談を重ねたのだ。
 伸一は、先師の殉難の地である豊島区から、東京勝利の広布の大波を起こそうと決意していた。戦い抜こうという一念があれば、いかなる状況にあろうが、戦うことはできる。鉄格子の中でさえ闘争の道はある。投獄された牧口は、取り調べの場にあっても、堂々と創価の正義を語り説いている。
 御聖訓には「大悪を(起)これば大善きたる」(御書一三〇〇ページ)と仰せである。初代会長の殉教という「大悪」が起こったがゆえに、広宣流布の大勝利という「大善」が必ず実現できる道が開かれたのだ。
 しかし、ただ傍観しているだけでは、事態を転じていくことはできない。断じて、「大悪」を「大善」に変えてみせるという、決意と確信と勇猛果敢なる実践が不可欠となる。まさに、人の一念、人の行動こそが、御書の仰せを現実のものとしていくのである。
 伸一は今、彼を封じ込め、仏意仏勅の広宣流布の団体である学会を崩壊させようとする策謀のなかで、必ず突破口を開こうと、懸命な戦いを開始していた。
posted by ハジャケン at 08:57| 山梨 ☀| 新・人間革命30-2雌伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月24日

雌伏 二十六

小説「新・人間革命」〉 雌伏 二十六

 若い力が育てば、未来は希望に光り輝く。
 九月の創価大学の訪問で山本伸一は、試合を控えたラグビー部のメンバーや、野球部、卓球部の代表とも記念のカメラに納まった。
 十月には、創価大学の体育大会に臨み、閉会式であいさつした。社会にあって、あらゆることに対応していくために、学生時代に基本を徹して身につけていくよう、力を込めて訴えたのである。
 人生の価値創造のためには、崇高な使命を自覚することが大切である。そして、その使命を果たしていくには、基本をしっかりと修得していくことが不可欠であるからだ。
 さらに、東京創価小学校の運動会や、いもほり大会にも参加した。
 創価学園の寮を訪ね、寮生、下宿生との懇談も行った。ここでは、一人ひとりが「光る存在」になってほしいと語った。「光る存在」とは、人びとを励まし、希望、勇気を与える人のことである。
 また、十一月の二日には、創価大学の「創大祭」に、三日には、創価大学の卒業生の集いである「創友会」の総会に出席した。
 伸一には、“創価大学、創価学園の出身者は、民衆の幸福、世界の平和の実現のために、必ず二十一世紀の大空に羽ばたいてくれるにちがいない”との大きな期待と強い確信があった。そのメンバーが、自らを磨き鍛え、大成長している姿を見ると、元気が出た。勇気が湧いた。
 「創友会」総会に集った一人が、声を弾ませて報告した。
 「先生。私たちは、確認し合いました。
 『もう創立者に決意を述べている時代は終わった。これからは、“実際に、こうしました。こうなりました”と、結果をもって集う実証の時代である。それが、弟子が立つということである』と」
 伸一の顔に笑みが浮かんだ。
 「そうか。嬉しいね。みんなが創立者の自覚で道を開いていくんだ。それが、わが創価教育の栄えある伝統なんだから」
posted by ハジャケン at 08:39| 山梨 ☀| 新・人間革命30-2雌伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月22日

雌伏 二十五

小説「新・人間革命」〉 雌伏 二十五

 山本伸一は、創立者として創価大学、創価高校・中学、東京創価小学校の諸行事等にも、極力、出席するように努めた。彼は、人生の最後の事業と定めた教育に、今こそ、最大の力を注ごうと決意していたのである。
 九月には、創大生や学園生の代表と一緒に、国立市の梨園へ梨狩りにも行った。
 創価大学では、秋期スクーリングに参加していた通信教育部の学生たちと記念撮影もした。彼は、働き学ぶ通教生の大変さを痛感していた。自身も勤労学生であったからだ。
 伸一は、戦後、東洋商業(後の東洋高校)の夜学を出て、大世学院の夜学に進んだ。入学した翌年の一九四九年(昭和二十四年)一月から、戸田城聖が経営する出版社に勤務した。この年の秋、不況の煽りを受け、会社の経営が行き詰まり、残務整理に追われる日が続き、やがて夜学を断念する。戸田は伸一に万般の学問を授けるため、全精魂を注いで個人教授を行う。いわゆる「戸田大学」である。
 そして、伸一が会長に就任して六年ほど過ぎたころ、大世学院の後身となる富士短期大学(後の東京富士大学)から、卒業のためのリポートを提出してはどうかとの強い勧めがあった。彼は、教えを受けた大世学院の高田勇道院長に報いる意味からも、学校側の厚意に応えることにした。
 当時、伸一は、日本国内はもとより、欧米訪問など、東奔西走の日々であり、小説『人間革命』の執筆もあった。そのなかでリポート提出のための関係書籍を買い求め、移動の車中や、会合と会合のわずかな時間を縫うようにして学習に励み、「日本における産業資本の確立とその特質」(経済史)など、十のリポートを書き上げていった。
 したがって伸一には、通教生たちの苦闘が痛いほどわかるのである。それだけに断じて負けないでほしかった。最後まで挫けずに、卒業の栄冠を手にしてほしかったのである。
 「鉄は炎の中で鍛えられ、人は困難の中で鍛えられる」(注)とは、中央アジアの誇り高きカザフ民族の箴言である。
 小説『新・人間革命』の引用文献
 注 『カザフ民族の諺と慣用句』V・B・ザハーロフ、A・T・スマイロワ編訳、カチェヴニキ出版所(ロシア語)
posted by ハジャケン at 10:53| 山梨 ☁| 新・人間革命30-2雌伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

雌伏 二十四

小説「新・人間革命」〉 雌伏 二十四

 山本伸一の功労者宅を中心とした家庭訪問は続いた。「敬老の日」である九月十五日には、東京・狛江の草創の同志の家を訪ね、家族と和やかに懇談し、皆で記念のカメラに納まった。五月以来、既に三十軒目の家庭訪問となっていた。さらに、狛江文化会館を訪れ、居合わせた同志を激励した。
 狛江市では、五年前の九月、台風十六号によって多摩川の堤防が決壊し、民家十九棟が流されるという事故が起こった。伸一は、そのニュースが流れるや東京の幹部らと連絡を取るとともに、犠牲者がないよう懸命に祈りを捧げたことが忘れられなかった。
 狛江市も、隣接する調布市も、住宅地として開発が進み、人口は増加の一途をたどっているという。
 田園と新しい住宅が広がる風景を見ながら、伸一は、同行していたメンバーに語った。
 「第二東京は広宣流布の新舞台だ。ここも未来が楽しみだ。皆で力を合わせて、新しい歴史を創ってほしいね」
 広宣流布は前代未聞の大業であり、道なき道を開き進む労作業である。その道を切り開くには、人を頼むのではなく、皆が自発・能動の信心で、一人立つことである。自らが目標を定め、主体者となって取り組む活動には歓喜がある。
 また、日々、勇気を奮い起こして自分の殻を破り、新しい挑戦を重ねていくことだ。挑戦こそが、前進と成長の原動力となる。
 武蔵野を愛し、調布で晩年を過ごした文豪・武者小路実篤は、次の言葉を残している。
 「いかなる時でも自分は思ふ、
 もう一歩
 今が実に大事な時だ。
 もう一歩」(注)
 もう一歩――その粘り強い歩みの積み重ねが、自分を変え、地域を変え、社会を変える。
 伸一は、念願であった個人指導に、多くの時間を割き、同志と語り合えることが何よりも嬉しかった。その堅実な行動のなかにこそ、学会活動の最大の醍醐味があるからだ。

 小説『新・人間革命』の引用文献
 注 「もう一歩」(『武者小路實篤全集11』所収)小学館
posted by ハジャケン at 10:44| 山梨 ☁| 新・人間革命30-2雌伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月21日

雌伏 二十四

小説「新・人間革命」〉 雌伏 二十四

 山本伸一の功労者宅を中心とした家庭訪問は続いた。「敬老の日」である九月十五日には、東京・狛江の草創の同志の家を訪ね、家族と和やかに懇談し、皆で記念のカメラに納まった。五月以来、既に三十軒目の家庭訪問となっていた。さらに、狛江文化会館を訪れ、居合わせた同志を激励した。
 狛江市では、五年前の九月、台風十六号によって多摩川の堤防が決壊し、民家十九棟が流されるという事故が起こった。伸一は、そのニュースが流れるや東京の幹部らと連絡を取るとともに、犠牲者がないよう懸命に祈りを捧げたことが忘れられなかった。
 狛江市も、隣接する調布市も、住宅地として開発が進み、人口は増加の一途をたどっているという。
 田園と新しい住宅が広がる風景を見ながら、伸一は、同行していたメンバーに語った。
 「第二東京は広宣流布の新舞台だ。ここも未来が楽しみだ。皆で力を合わせて、新しい歴史を創ってほしいね」
 広宣流布は前代未聞の大業であり、道なき道を開き進む労作業である。その道を切り開くには、人を頼むのではなく、皆が自発・能動の信心で、一人立つことである。自らが目標を定め、主体者となって取り組む活動には歓喜がある。
 また、日々、勇気を奮い起こして自分の殻を破り、新しい挑戦を重ねていくことだ。挑戦こそが、前進と成長の原動力となる。
 武蔵野を愛し、調布で晩年を過ごした文豪・武者小路実篤は、次の言葉を残している。
 「いかなる時でも自分は思ふ、
 もう一歩
 今が実に大事な時だ。
 もう一歩」(注)
 もう一歩――その粘り強い歩みの積み重ねが、自分を変え、地域を変え、社会を変える。
 伸一は、念願であった個人指導に、多くの時間を割き、同志と語り合えることが何よりも嬉しかった。その堅実な行動のなかにこそ、学会活動の最大の醍醐味があるからだ。

 小説『新・人間革命』の引用文献
 注 「もう一歩」(『武者小路實篤全集11』所収)小学館
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2017年04月20日

雌伏 二十三

小説「新・人間革命」〉 雌伏 二十三

 山本伸一は、長野の同志に対して、全精魂を注いで激励に次ぐ激励を重ね、八月二十八日、敢闘の九日間を過ごして東京へ戻った。
 この長野訪問は、長野広布の歩みのうえでも、創価学会の歴史のうえでも、時代を画する新しいスタートとなった。しかし、それが「聖教新聞」に大きく報道されることはなかった。功労者宅への訪問が、二面などに、わずかな行数で報じられたにすぎなかった。
 伸一は、翌年も、翌々年も長野研修道場を訪問し、ここから清新なる広布の波動を起こしていくことになる。
 同研修道場での研修は、年ごとに規模を大きくし、充実したものになっていった。
 中心幹部が集っての全国最高協議会をはじめ、各方面、各部の研修会、世界のメンバーの研修会などが活発に開催された。
 伸一も、メンバーの要請を受けて出席し、共に錬磨の汗を流した。そして、この研修会は、学会の新しき伝統行事となり、広布伸展の原動力となっていくのである。
 また、ここには、キルギスの著名な作家チンギス・アイトマートフや、米デラウェア大学のデイビッド・ノートン教授、米インタナショナル大学のデイル・ベセル教授、米ジョン・デューイ協会のジム・ガリソン会長とラリー・ヒックマン前会長、中国・華南師範大学の顔沢賢学長、インドのガンジー記念館のラダクリシュナン館長など、世界の識者も多数訪れ、平和・教育・文化交流の舞台となっていった。
 伸一が戸田城聖の精神と偉業を永遠に記し伝えることを誓った後継の天地・軽井沢は、新しき前進と創造の電源の地となったのだ。
 彼が一九九三年(平成五年)八月六日、小説『新・人間革命』を起稿したのも、長野研修道場であった。
 長野の同志は、この研修道場での伸一との出会いと共戦を、最高、最大の誇りとし、果敢に地域広布の大道を開いてきた。師子の誇りこそ、不撓不屈の闘魂となり、勇気の光源となる。そして、勝利の大力となる。
posted by ハジャケン at 10:24| 山梨 ☀| 新・人間革命30-2雌伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月19日

雌伏 二十二

小説「新・人間革命」〉 雌伏 二十二

 八月二十七日、山本伸一は、長野研修道場から小諸文化会館を訪れた。ここでも三回にわたって、三百人ほどの人たちと記念撮影をし、さらに代表と勤行し、懇談した。
 伸一は、どこまでも題目第一に、「勇敢なる信心を! 地道なる信心を!」と訴えた。
 研修道場に帰ったのは、夜九時近かった。
 二十八日は、長野滞在の最終日である。この日も研修道場を見学に来た人たちと十数回にわたって記念撮影し、懇談や家庭訪問を重ねた。その語らいのなかで、県長の斉田高志に語った。
 「長野研修道場は、地の利も良いし、夏は涼しく、美しい自然に恵まれている。これからは、全国、全世界の同志がここに集い、研修会も盛んに行われ、世界の人びとの憧れの地となるでしょう。
 したがって、その研修道場のある長野県創価学会もまた、世界一の人材山脈がそびえ、世界一の人間共和の模範となる組織をめざしてほしい。世界の同志から、『信心は長野に学べ!』と言われるようになってもらいたいというのが、私の願いなんです。
 それには団結しかない。それぞれの地域の特色を最大限に生かしながら、広宣流布のために、皆が心を一つにしていくことです。そうしていくには、県長が同志のために必死に尽くすことです。皆が、“あの県長は、私たちのために、ここまで気を配ってくれるのか”“ここまで献身してくれるのか”と思ってこそ、心を合わせ、協力してくれる。そこに団結が生まれるんです。
 リーダーが怠惰でいいかげんな姿勢であれば、人はついてこないし、団結もできない。そうなれば会員がかわいそうです。真剣で、誠実であることが、人びとの信頼につながっていきます。懸命に走り抜くんだよ」
 人材の育成は、来る日も来る日も、一人ひとりの心田に発心の種子を植える作業から始まる。伸一は、長野滞在中、身をもってそれを教えようとしてきたのである。行動に勝る、人を育むための教科書はない。
posted by ハジャケン at 08:45| 山梨 ☀| 新・人間革命30-2雌伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月18日

雌伏 二十一

小説「新・人間革命」〉 雌伏 二十一

 山本伸一が激励した人のなかに、佐久から来た柳坂亘・志津夫妻がいた。二人は、研修道場の庭の整備のために、伸一の滞在中も、連日のように通って来ていたのである。
 亘は、六十歳前後の造園業を営む壮年であった。伸一は夫妻に言った。
 「研修道場を大切にしてくださる柳坂さんの思いは、私の心でもあります。
 私は、ここを訪れた方々が、英気を養い、信心を錬磨し、最高の思い出をつくり、決意を新たにして、各地の広宣流布に邁進していっていただきたいと念願しています。
 そのためには、整備された、すがすがしい環境が大事です。お二人は、その重責を担ってくださっている。尊いことです。
 その労苦は、仏法の因果の理法に照らして、無量の功徳、大福運になっていくことは間違いありません。どうか、いつまでもお元気で、研修道場を守ってください」
 記念撮影が終わったのは、午後四時近かった。撮影回数は三十回ほどになり、一緒にカメラに納まった人は三千人を超えた。
 伸一は、記念撮影の準備・運営にあたった役員の青年たちに語りかけた。
 「ありがとう! 参加者は皆、喜んでいたよ。皆さんのおかげです」
 そして、駐車場の草刈りなど、陣頭指揮を執っていた長野県の男子部長に言った。
 「雨の中、泥まみれになって草刈りをしていた姿を、私は永遠に忘れません。学会員に尽くし抜いていく。それが私との共戦です。
 長い人生には、失敗も、挫折もあるかもしれない。しかし、それでも前へ進むんです。いちばん大事なことは、何があろうが、生涯、学会から離れず、同志のため、広布のために、献身していくことです。
 自分が脚光を浴びようとするのではなく、冥の照覧を信じて、広宣流布に生き抜くんです。それこそが本当の勇気です。
 その時に、自身が最も輝くし、その人こそが、人生の最高の勝利者です。私は、みんなのことを、じっと見続けていきます」

 小説『新・人間革命』語句の解説
 ◎冥の照覧/「冥」とは、奥深く、目に見えないことで、ここでは凡夫には見えない仏神をいう。仏や諸天善神が、人びとの一念や行動をことごとく知っていること。
posted by ハジャケン at 09:00| 山梨 | 新・人間革命30-2雌伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月17日

雌伏 二十

小説「新・人間革命」〉 雌伏 二十

 三台の撮影台を使って写真撮影が行われたが、長野研修道場は長蛇の列が途切れることはなかった。飯山、長野、上田から、穂高、松本から、塩尻、諏訪から、飯田、伊那から、続々と同志は集って来た。
 山本伸一は、記念撮影が終わるたび、皆に声をかけ、語り合い、何十人、何百人もの人と握手を交わした。
 記念撮影も終盤に入った時、日焼けした精悍な顔の青年が、感極まった声で語った。
 「先生! ありがとうございます! 私たち男子部は、断じて戦い、勝って、先生にお応えしていきます」
 伸一は、にっこり微笑むと、力を込めて語り始めた。
 「そうだ。師匠が表に出て動けないならば、師に代わって立ち上がるのが弟子です。私と会えなければ元気が出ない、勇気も湧かないというのであれば、真の師弟ではない。師をしのぐ果敢な実践をもって、広宣流布の未曾有の上げ潮をつくっていくんです。
 私が君たちを指導・激励し、全力を注いで育成してきたのは、こうした時のためです。
 今こそ、『私たちに任せてください! 弟子の戦いを見てください!』と胸を張り、私に代わって同志を励まし、元気づけていくのが師弟だ! 君たち一人ひとりが山本伸一なんだよ! 私は、肝心な時に力を発揮できないような弱虫を育ててきた覚えはありません。今こそ君たちが、学会を、それぞれの地域を担っていくんだ。その重要な時に感傷的になって、力を出せないことほど、情けない話はありません。
 それが、今の私の思いだ。魂の叫びです。頼んだよ!」
 そこにいた青年たちの瞳が、決意に燃え輝いた。唇を嚙み締める人もいた。拳を握り締める人もいた。
 戸田城聖は、一九五四年(昭和二十九年)十月、彼のもとに集った一万人の青年に訴えた。
 「吾人は、前途多難に対して奮起を望むものである」(注)と。

 小説『新・人間革命』の引用文献
 注 「青年諸君に告ぐ」(『戸田城聖全集4』所収)聖教新聞社 
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2017年04月15日

雌伏 十九

小説「新・人間革命」〉 雌伏 十九

 長野研修道場には、三台の撮影台が設置されていた。
 午後一時前、山本伸一は、「さあ、戦いの開始だ!」と峯子に言うと、ポロシャツ姿で皆の待っている研修道場の前庭に飛び出していった。
 「お待ちしていました。ようこそおいでくださいました。二十一世紀への新しい出発をしましょう!」
 参加者から歓声があがった。額に深い皺が刻まれた老婦人が、目を潤ませて語った。
 「先生! 新聞でも先生のお姿を拝見できないものですから、心配で、心配で、寂しくて、ずーっと祈ってきました。でも、お元気なので安心しました。嬉しいです」
 伸一は、この老婦人を抱きかかえるようにして、励ましの言葉をかけた。
 「おばあちゃん、ありがとう! 
 私は、この通り元気ですよ。おばあちゃんがお元気ならば、私も元気です。私も、おばあちゃんのお顔を心に焼き付けて、毎日、お題目を送ります。だから、私たちは、いつも一緒ですよ。来世も一緒です。
 うんと長生きしてください。ますます元気で、もっと、もっと幸せになってください。それ自体が、広宣流布の力になります。同志の希望になります」
 八十代半ばだという、別の老婦人には、力強く、こう語った。
 「百歳まで生き抜いてください。いや、二十一世紀まで生きて、広宣流布の未来を見届けてください。学会は、さらに大発展します。世界に大きく広がります。私は今、そのための戦いを開始したんです」
 また、壮年には断固たる口調で宣言した。
 「学会の正義は、必ずや明確になります。まだ、宗門僧による理不尽な攻撃や、一部の週刊誌による無責任な批判が続いていますが、そんなことで心が揺らげば、必ず後悔します。日蓮大聖人の仰せのままに広宣流布してきたのは学会しかありません。この厳たる事実を絶対に見失わないことです。戦おう!」
posted by ハジャケン at 13:43| 山梨 ☀| 新・人間革命30-2雌伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

雌伏 十九

小説「新・人間革命」〉 雌伏 十九

 長野研修道場には、三台の撮影台が設置されていた。
 午後一時前、山本伸一は、「さあ、戦いの開始だ!」と峯子に言うと、ポロシャツ姿で皆の待っている研修道場の前庭に飛び出していった。
 「お待ちしていました。ようこそおいでくださいました。二十一世紀への新しい出発をしましょう!」
 参加者から歓声があがった。額に深い皺が刻まれた老婦人が、目を潤ませて語った。
 「先生! 新聞でも先生のお姿を拝見できないものですから、心配で、心配で、寂しくて、ずーっと祈ってきました。でも、お元気なので安心しました。嬉しいです」
 伸一は、この老婦人を抱きかかえるようにして、励ましの言葉をかけた。
 「おばあちゃん、ありがとう! 
 私は、この通り元気ですよ。おばあちゃんがお元気ならば、私も元気です。私も、おばあちゃんのお顔を心に焼き付けて、毎日、お題目を送ります。だから、私たちは、いつも一緒ですよ。来世も一緒です。
 うんと長生きしてください。ますます元気で、もっと、もっと幸せになってください。それ自体が、広宣流布の力になります。同志の希望になります」
 八十代半ばだという、別の老婦人には、力強く、こう語った。
 「百歳まで生き抜いてください。いや、二十一世紀まで生きて、広宣流布の未来を見届けてください。学会は、さらに大発展します。世界に大きく広がります。私は今、そのための戦いを開始したんです」
 また、壮年には断固たる口調で宣言した。
 「学会の正義は、必ずや明確になります。まだ、宗門僧による理不尽な攻撃や、一部の週刊誌による無責任な批判が続いていますが、そんなことで心が揺らげば、必ず後悔します。日蓮大聖人の仰せのままに広宣流布してきたのは学会しかありません。この厳たる事実を絶対に見失わないことです。戦おう!」
posted by ハジャケン at 09:20| 山梨 ☀| 新・人間革命30-2雌伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月14日

雌伏 十八

小説「新・人間革命」〉 雌伏 十八

 蔵林家では、主の龍臣と妻の芳乃の孫たち十人が、琴やハーモニカ、横笛の演奏、合唱などで、山本伸一たちを歓迎した。
 子どもから孫へと信心が受け継がれ、すくすくと育っている未来っ子の姿が微笑ましかった。仏法が、地域へ、社会へと広まり、そして子どもたちへ、未来へと継承されていってこそ、広宣流布の流れが創られていく。
 やがて雨も小降りになった。伸一は、蔵林龍臣と腕を組みながら庭を散策した。少し、はにかみながら、「ありがたい。人生の最高の思い出です」と繰り返す蔵林に言った。
 「お父さんの人生は大勝利です。子どもさんも、お孫さんも、皆、立派に育っている。しかし、信心には終わりはありません。命ある限り、同志のため、地域のため、広布のために戦い抜いてください。大事なのは、総仕上げの時を迎えるこれからです。明日へ、未来へ、意気盛んに前進していってください」
 蔵林は、伸一の顔をのぞき込むように見ては、何度も、何度も頷くのであった。
 後に、伸一は、深い感謝の思いを託して、一家に句を贈っている。
 「なつかしき 佐久に家あり 銀の城」
  
 二十六日は、長野研修道場での記念撮影の日である。「希望する方は、全員、参加してください」との連絡を聞いて、長野全県から同志が研修道場に集って来た。
 前日の雨は上がり、木々を吹き渡る風がさわやかであった。メンバーは、昼前から続々と研修道場に到着した。伸一が、ほとんど「聖教新聞」にも登場しなくなってから四カ月近くになっていた。皆、ひと目でも伸一と会いたかった。そして、広宣流布への誓いを新たにしたかったのである。
 学会の強さは、伸一が会員一人ひとりと結んできた師弟の糸と、同志の糸によって縒り上げられた、団結の絆にこそある。
 「力は、健全な人格と強固な団結から生まれる」(注)とは、韓民族独立の父・安昌浩の言葉である。

 小説『新・人間革命』の引用文献
 注 安昌浩著『島山安昌浩論説集』乙酉文化社(ハングル)
posted by ハジャケン at 09:09| 山梨 ☀| 新・人間革命30-2雌伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月13日

雌伏 十七

小説「新・人間革命」〉 雌伏 十七

 蔵林龍臣は七十一歳であり、五人の子どもたちも、広宣流布の庭で活躍していた。この日も、アメリカに永住している四男以外は元気に集い、孫も含め、賑やかに山本伸一と峯子を迎えてくれた。
 蔵林は、伸一を床の間の前に案内した。
 「こちらにどうぞ!」
 「それはいけません。人生の大先輩である蔵林さんが、お座りになってください」
 一瞬、蔵林は、メガネの奥の目に困惑の色を浮かべた。しかし、伸一の強い勧めに、床の間を背にして座った。
 部屋にある衝立の書も見事であった。黒光りした柱や意匠を凝らした欄間が、風格を感じさせた。
 伸一が、家の歴史について尋ねると、「実は、わが家にはこんな言い伝えがありまして」と言いながら、伝承を語り始めた。
 ――昔、ある冬の夜のことである。庄屋の彦左衛門が、ため池に落ちて凍えるキツネを助け上げ、体を湯で拭いて乾かし、山へ帰した。キツネは、嬉しそうに「コン、コン」と鳴きながら消えていった。翌朝、家に二羽のキジが置いてあった。雪の上には、点々とキツネの足跡が続いていた。
 「恩返しにやってきたというわけです」
 伸一が、「人間も見習わなければいけませんね」と応えると、側にいた人たちは、真剣な顔で頷いた。忘恩の徒が暗躍し、学会員をいじめ、苦しめている時だけに、皆、恩に報いることの大切さを、強く感じていたのであろう。
 戸田城聖の事業が破綻した時にも、それまで、さんざん戸田の世話になり、大恩を受けながら、手のひらを返すように、悪口し、恨み、憎んで、去っていった者もいた。
 「忘恩は明瞭この上もない不正」(注=2面)とは、哲人ソクラテスの箴言である。
 日蓮大聖人は、老狐や白亀が恩に報いた故事をあげ、「畜生すらかくのごとしいわうや人倫をや」(御書二九三ページ)と、人として報恩の誠に生きることの大切さを強調されている。報恩は人間の生き方の基である。

 小説『新・人間革命』の引用文献
 注 クセノフォーン著『ソークラテースの思い出』佐々木理訳、岩波書店
posted by ハジャケン at 08:44| 山梨 ☁| 新・人間革命30-2雌伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月12日

雌伏 十六

小説「新・人間革命」〉 雌伏 十六

 山本伸一は、石塚勝夫に言った。
 「お父さん、お母さんを、生涯、大切にするんですよ。父母の恩に報いることから、人間の道は始まります。報恩の心を忘れない人が、真の仏法者なんです」
 さらに、個人会館を提供してくれていることへの感謝を伝えながら、日ごろ、心すべき点についても語っていった。
 「ともかく近隣に迷惑をかけないよう、会合の中心者ともよく連携し、駐車、駐輪、話し声など、細かく気を配っていくことが大事です。大変でしょうが、周囲のお宅には足しげくあいさつに伺い、『何かあったら、すぐにおっしゃってください』と、意思の疎通を図っていくことが大切です。
 近隣の方々が、快く協力し、応援してくださるようになれば、それ自体が広宣流布の姿なんです。個人会場は、広布の民衆城です。そこに、堅固な信頼の石垣を築くことが、学会を盤石にしていくことにつながります」
 伸一は、それから、自宅の隣にある個人会館を訪問した。一階は、石塚の営む建築電気工事会社の事務所になっており、二階が三十畳ほどの会場であった。
 そこには、佐久本部の支部幹部ら地元の代表が集っていた。伸一は、一緒に勤行し、ここでも懇談のひとときをもった。
 彼は、佐久の同志に、句を詠んで贈った。
 「忘れまじ 佐久の幸ある 瞳かな」
 「佐久の友 今日はいかにと 祈る日日」
    
 石塚宅から伸一が向かったのは、蔵林龍臣の家であった。蔵林家は江戸初期から庄屋を務めた旧家であり、母屋は築三百五十年で、地元では「鶯館」と呼ばれているという。
 主の龍臣は、家の前で和傘を差して立ち、伸一と峯子を迎えた。
 「約束を果たしに来ましたよ」
 伸一は、こう言って笑顔を向けた。
 蔵林は、六年前に東京で行われた本部幹部会の折、自宅が江戸時代からの旧家であることを伝え、訪問を要請したのである。
posted by ハジャケン at 09:03| 山梨 ☁| 新・人間革命30-2雌伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月11日

雌伏 十五

小説「新・人間革命」〉 雌伏 十五

 昼前から降りだした雨は、次第に雨脚が強くなっていた。
 山本伸一は、佐久市の功労者宅を訪問するため、長野研修道場を出発した。
 雨のなか、翌日の記念撮影のために、青年たちが県道沿いの空き地で草刈りをしていた。
 伸一は、同行していた幹部に言った。
 「皆が風邪をひかないように、作業が終わったら、研修道場の風呂を使えるようにしてください。泥も汗も流して温まってもらおう」
 大事な“創価の宝”の青年たちである。泥まみれになって作業をしてもらっているだけでも申し訳ないのに、そのうえ風邪などひかせては絶対にならないとの強い思いがあった。
 研修道場を発って五十分ほどで、佐久市の石塚勝夫の家に着いた。石塚は四十過ぎの壮年で、佐久本部の本部長をしていた。
 彼は、感無量の面持ちで、「先生! わが家においでくださり、ありがとうございます」と言って、伸一の手を握り締めた。
 石塚の父親は背広を着て、母親は着物に羽織姿で、丁重に一行を迎えた。
 伸一は、研修道場に役員として来ていた石塚と語り合う機会があった。その時、彼が個人会館を提供してくれていると聞き、御礼に伺おうと思ったのである。
 広宣流布を進めるうえで、個人会場が担う役割は大きい。各地域に大きな会館が造られても、支部や地区の日常活動の拠点や座談会場等となるのは、個人会場をはじめ、会員の皆さんのお宅である。そこは、現代における荘厳なる仏法の会座となる。
 伸一たちは、石塚の自宅の居間に通された。懇談が始まった。彼の父親は、ちょうど、今日が八十歳の誕生日であるという。
 伸一は、「お祝いに一句、お贈りしましょう」と言うと、壁に掛けてあった日めくりカレンダーに視線を注いだ。
 「そこに、お書きしてよろしいでしょうか」
 カレンダーを外してもらい、老夫妻の健康と長寿を祈りつつ、日付の横にこう認めた。
 「あな嬉し 八十翁の 金の顔」
posted by ハジャケン at 09:08| 山梨 ☁| 新・人間革命30-2雌伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月08日

雌伏 十四

小説「新・人間革命」〉 雌伏 十四

 山本伸一は、入会三十二周年となる八月二十四日を、長野研修道場で迎えた。新しい決意で出発を誓い、真剣に勤行した。
 昼過ぎには、青年たちと自転車で周辺を回った。戸田城聖が最後の夏を過ごした地を巡ることで、在りし日の恩師を偲びたかったのである。
 伸一が研修道場に帰って来ると、ちょうど教育部(後の教育本部)の青年教育者の代表が、研修会に参加するため、バスで到着したところであった。
 メンバーは、バスの中で、「山本先生が研修道場に滞在中です」と聞かされ、喜びが弾けた。皆、研修道場の玄関前に並び、満面の笑みで伸一を迎えた。
 「皆さん、ありがとう! お会いできて嬉しい。では、一緒に記念撮影をしましょう!」
 彼は、メンバーと共にカメラに納まった。
 「私はこの通り元気です! 皆さんも創価の誇りを胸に、わが使命の道を、元気に勝ち進んでいってください。ともかく、何があっても、絶対に退転しないことです。この一点を深く心に刻んでください。広布の道を踏み外していく人を見るのが、私はいちばん辛いし、胸が痛むんです」
 この日の夕刻も、伸一は、地元の同志の家を訪問し、集った人たちと懇談した。
 翌二十五日午前、教育部のメンバーと研修道場の庭でテニスをし、激励を重ねた。
 コートは、研修会に来た人たちの思い出になるように、地元メンバーが急ごしらえしたものであった。
 このあと、伸一は、皆と一緒に勤行し、出発するメンバーを拍手で見送った。
 彼は、制約のあるなかで、どうすれば同志を励まし、勇気づけることができるか、祈りに祈り、智慧を絞った。御聖訓には「信心のこころ全ければ平等大慧の智水乾く事なし」(御書一〇七二ページ)と仰せである。
 広宣流布への強き一念と祈りがあるかぎり、いっさいの障壁を打ち砕き、必ず勝利の道を切り開いていくことができるのだ。
posted by ハジャケン at 09:07| 山梨 ☁| 新・人間革命30-2雌伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月06日

雌伏 十二

小説「新・人間革命」〉 雌伏 十二

 田森寅夫は、歯を食いしばりながら信心を続けていくと、学校に給食のパンを卸せるようになり、また、外国人客も増えていった。さらに、大手の洋菓子店へも卸すことになり、彼の店は、軽井沢を代表する老舗のベーカリーとして評判になっていった。
 彼は、商売で実証を示すだけでなく、町の発展にも力を尽くし、地域の人びとのために献身した。そうした姿に、学会への誤解や偏見は氷解し、多くの人たちが理解者となったのである。
 山本伸一は、長野研修道場で田森夫妻と話し合うなかで、翌日、田森の店の二階にある喫茶室で、地域のメンバーの代表を招いて懇談会を開くことにしたのである。
 その席で伸一は、一九五七年(昭和三十二年)の夏、軽井沢に滞在中の戸田城聖のもとへ駆けつけた折に、恩師が語っていた言葉を紹介した。
 「戸田先生は、山紫水明なこの地を愛され、『将来、ここで夏季研修会を開きたいな』としみじみと話しておられた。ここに研修道場ができ、恩師の構想実現へ、また一歩、前進することができました。
 やがて、長野研修道場には、全国、いや全世界の同志の代表が集うようになり、いわば、広宣流布の電源の地となっていくでしょう。それだけに、この長野県に、世界模範の創価学会を創り上げてください。私も、全力で応援します」
 この日の夜、研修道場では、地元の軽井沢・中軽井沢支部合同幹部会が行われていた。
 会合の終了間際、会場に姿を現した伸一は、共に勤行した。そして、ピアノに向かい、「うれしいひなまつり」や「月の沙漠」などを次々に演奏して励ました。皆の喜びは爆発し、会場は沸き返った。
 同志は、伸一の姿を瞼に焼きつけ、“創価の師弟の大道を誇らかに歩もう”と、決意を新たにするのであった。
 いかなる権威、権力をもってしても、師弟の心の絆を断つことなど断じてできない。
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2017年04月05日

雌伏 十一

小説「新・人間革命」〉 雌伏 十一

 二十一日夜の懇談の折、山本伸一は、軽井沢支部の初代支部長・婦人部長を務めた田森寅夫と妻のタミとも語り合った。
 寅夫は、一流ホテルで修業を積んだパン職人で、心臓病で苦しんでいたタミが信心し、元気になっていく姿を目の当たりにして、一九五五年(昭和三十年)に子どもたちと一緒に入会した。念願であった店舗を購入できたことなどから、信心への確信を強くし、歓喜を胸に弘教に励んでいった。
 しかし、周囲には、学会に偏見をいだき、彼が信心することを快く思わぬ人たちが多くいた。客足も遠のいていった。
 頭を抱え込む田森たちに、学会の先輩は、確信をもって訴え、指導した。
 「日蓮大聖人は、『此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず』(御書一〇八七ページ)と断言されている。あなたたちが、敢然と広宣流布に立ち上がったから、障魔が競い起こったんです。御書に仰せの通りではないですか。
 したがって、このまま、果敢に信心を貫いていくならば、幸福境涯を築けることは間違いない。だから決して退いてはいけません」
 当時の学会員は、大なり小なり、こうした事態に直面した。そのなかで同志は、ますます学会活動に闘魂を燃やしていった。そして、御書を拝しては、互いに励まし合ってきたのである。田森は思った。
 「大聖人は『大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし』(同一四四八ページ)と言われている。大変な事態になればなるほど、強盛な信心を奮い起こして、ますます喜び勇んで前進していこう。今が正念場だ!」
 学会活動は御書と共にあり、生活のなかに教学があった。そこに学会の崩れぬ強さがある。思えば、それは、第二代会長の戸田城聖が、『日蓮大聖人御書全集』の刊行を成し遂げたからこそ可能となったのである。さらに、これによって、日蓮仏法の正しい法理が、広く人びとの生き方の規範として確立されるという、未曾有の歴史が開かれたのである。
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2017年04月04日

雌伏 十

小説「新・人間革命」〉 雌伏 十

 残暑の東京を発って二時間半、夜霧に包まれた軽井沢は肌寒かった。
 山本伸一が長野研修道場に到着すると、地元の幹部や役員など、数人が出迎えた。会長を辞任したあと、「聖教新聞」などの機関紙誌で、彼の行動が報じられることは、ほとんどなかったためか、皆、笑顔ではあったが、どことなく不安な表情をしていた。
 伸一は、同志のそんな気持ちを吹き飛ばすように、力強い声で言った。
 「私は元気だよ! さあ、出発だ!」
 師弟の天地に、師子吼が響き渡った。
 彼は、長野県長の斉田高志と握手を交わしながら語っていった。斉田は、三十七歳の青年県長であった。
 「私は、名誉会長になったということで、広布の活動を休むことも、やめてしまうこともできる。そうすれば楽になるだろう。しかし、一歩でも退く心をもつならば、もはや広宣流布に生きる創価の師弟ではない。戸田先生は、激怒されるだろう。
 地涌の菩薩の使命を自覚するならば、どんなに動きを拘束され、封じ込められようが、戦いの道はある。智慧と勇気の闘争だ。大聖人は『いまだこりず候』(御書一〇五六ページ)と言われ、いかなる迫害にも屈せず、戦い抜かれたじゃないか! みんなも、生涯、何があっても、いかなる立場、状況に追い込まれようとも、広宣流布の戦いを、信心の戦いを、決してやめてはいけないよ。私は、会員の皆さんのために戦い続けます」
 伸一の長野訪問は九日間の予定であった。
 到着翌日の二十一日は、朝から役員の青年らを激励し、昼食も草創の同志ら十人ほどと共にしながら語り合い、引き続き、小諸本部の副本部長である木林隆の家を訪問した。十一年前に出会った折に、「ぜひ、わが家へ」と言われ、そこで交わした約束を果たしたのである。
 夜もまた、地元の会員の代表と次々と会っては懇談した。対話を重ねることが、生命の大地を耕し、幸の花園をつくりだしていく。
posted by ハジャケン at 09:26| 山梨 ☁| 新・人間革命30-2雌伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月03日

雌伏 九

小説「新・人間革命」〉 雌伏 九

 山本伸一は戸田城聖から軽井沢に招かれ、戸田の小説『人間革命』の感動を語りながら、深く心に期すことがあった。
 ――戸田の『人間革命』は、彼の分身ともいうべき「巌さん」が、獄中で、生涯を広宣流布に生き抜く決意をしたところで終わる。
 一九四五年(昭和二十年)七月三日、戸田は、獄死した師の牧口常三郎の遺志を受け継ぎ、生きて獄門を出る。その後、戸田が現実に何を成し遂げ、いかにして日本の広宣流布の基盤を築き上げたか――伸一は、それを書き残さなければ、師の偉業を宣揚することも、牧口と戸田を貫く創価の師弟の精神を後世に伝えることもできないと思った。
 そして伸一は、こう自覚したのである。
 “先生の真実を記すことができるのは、私しかいない。また、それが先生の私への期待であり、弟子としての私の使命であろう”
 この時、彼は、これまでに何度か考えてきた、戸田の『人間革命』の続編ともいうべき伝記小説の執筆を、確固不動の決意としたのだ。長野県は、創価の師弟の精神を永遠ならしめる誓いの天地となったのである。
   
 長野研修道場がオープンしたのは、一年前の一九七八年(昭和五十三年)八月である。伸一にとっては今回が初訪問となる。彼は、戸田が最後の夏に滞在した地を、世界広宣流布への新たな幕を開く最初の夏に訪れたのである。この宿縁の地から、家庭訪問、個人指導の流れを起こし、新しい創価学会の建設に着手しようと心に決めていたのだ。
 世界広布といっても、一人への励ましから、身近な一歩から始まるからだ。
 伸一の決意は、研修道場に向かうために乗車した列車の中から、行動に移された。
 彼の姿を見て、あいさつに来た青年に対して、「ふと会いし 君もわが弟子 幸の旅」と句を認めて贈った。さらに、列車を降りる時には、「ご両親によろしく。立派な人になるんだよ」と言って握手を交わした。
 「決意即行動」である。
posted by ハジャケン at 08:51| 山梨 ☀| 新・人間革命30-2雌伏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする