2015年10月03日

勝利島63 完

勝利島63

 紅染まる 海原に

 船出の銅鑼は 轟きぬ

 波浪を越えて いざや征け

 世界広布の 先駆けと 

   

 海鳥の島 椰子の島

 燃える火の島 巌島

 いずこも使命の 天地なり

 常寂光の 都なり

    

 無情仕打ちの 烈風猛る

 悔し涙の 日々ありき

 われは祈らむ ひたすらに

 嵐に向かい 師子立てと

    

 開拓の鍬 銀の汗

 慈悲の種蒔き 幾歳か

 地涌の誇りを 胸に抱き

 微笑み包む 対話行

   

 同志は勝ちたり 勝ちにけり

 ああ満天の 星清か

 座談の園に 歓喜燃え

 人生凱歌の 笑顔皺

    

 海は母なり 恵みあり

 海は父なり 鍛えあり

 見よ後継の 若鷲は

 勇み羽ばたき 父子の舞

   

 君よ叡智の 光たれ

 信頼厚き 柱たれ

 一家和楽の 模範たれ

 幸の航路の 灯台たれ

    

 百花繚乱 この道に

 仰ぐ功徳樹 虹懸かる

 響け希望の 交響曲

 栄光燦たれ 勝利島

    

 敬愛する離島の同志の、師子奮迅の敢闘と大勝利を讃えつつ。(第二十八巻終了)
posted by ハジャケン at 09:53| 山梨 ☀| 新・人間革命 勝利島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月02日

勝利島62

勝利島62

 初の離島本部総会に集った人びとは、第二回の総会を目標に、意気軒昂に各島々へ帰っていった。

 第二回総会は、一九七九年(昭和五十四年)十月、前回を上回る百三十五島から八百人の代表が喜々として東京戸田記念講堂に集い、盛大に開催された。しかし、会場に山本伸一の姿はなかった。彼は、同年四月に会長を辞任し、名誉会長となっていたのである。

 創価の師弟を離間させようとした第一次宗門事件によって、伸一は会合に参加することもままならぬ状況にあった。彼は、個人的に離島のメンバーを励ましながら、総会の成功を見守るのであった。

 島の同志は、決然と戦いを開始した。

 “今こそ、弟子が立ち上がる時だ! 学会の真実と、山本先生の正義を叫び抜こう!”

 伸一のもとには、各島から、「先生、わが島は揺らぎません。いよいよ“まことの時”が来たと、決意も新たに頑張ってまいります」等の手紙が、多数寄せられた。

 離島本部の総会は、回を重ねるごとに、充実の度を増していった。地域に友好の輪を広げ、信心の実証を示し、戦い切った姿で集い合うことが、皆の目標となっていった。

 ハワイで総会が行われたこともあった。

 八八年(同六十三年)までに十回の総会を開き、翌年からは、全国離島青年部総会を六年連続で開催している。

 九九年(平成十一年)七月、地域社会に信頼と友情を広げる創価の民衆運動の柱として「地域本部」が設置される。離島本部は「離島部」となり、地域部、団地部、農村部(後の農漁光部)とともに、地域本部四本柱の一つとして輝きを放っていくのである。

 離島――創価の同志にとって、それは離れ島などではなく、久遠の使命を果たす天地であり、幸福島であり、勝利島となった。

 「宗教は、われわれが、この巨大で不確かな宇宙の中で孤独なのではないという確信を与える」(注)とは、アメリカの公民権運動の指導者キング博士の言葉である。

■引用文献

 注 M・L・キング著『汝の敵を愛せよ』蓮見博昭訳、新教出版社
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2015年10月01日

勝利島60

勝利島61

 「開目抄」の一節を拝した山本伸一は、力を込めて語った。

 「どうか、この御文を、直接、御本仏・日蓮大聖人から自分に賜ったものと受けとめていただきたい。

 どんな大難があったとしても、疑ったり、嘆いたりすることなく信心を貫いていけば、必ず成仏できることを断言された御文です。たとえ、島の同志の数は少なくとも、励ましてくれる幹部はいなくとも、“私は立つ!”と決めて、広宣流布という久遠のわが使命を果たし抜いていただきたい。

 そして、今再び、この信心の極理を説かれた一節を深く生命に刻み、一家一族が、未来永遠に栄えゆくための福運の根っことなって活躍されるよう、念願しております。

 島の皆さんに、くれぐれもよろしくお伝えください。お体を大切に!」

 伸一の話が終わると、万雷の拍手が起こり、いつまでも鳴りやまなかった。

 感激の怒濤が、同志の胸中に激しくうねった。誰もが、伸一の思いをかみ締めていた。誰もが、決意を新たにしていた。

 大感動のなか、歴史的な第一回離島本部総会は幕を閉じたのである。

 伸一の離島本部総会参加者への激励は、翌八日も続いた。この日、彼は聖教新聞社前で、島へ帰るメンバー約百七十人と、三グループに分かれ、記念撮影をした。

 皆に次々と声をかけていった。

 「よく眠れましたか。東京は島と気候も違うし、騒がしいでしょう」

 「風邪をひいたりしませんでしたか」

 すると、一人の壮年が弾んだ声で言った。

 「先生は、私たちのことを最高に気遣ってくださいました。人間性の輝きというのは、人への気遣いに表れることを知りました。私も島にあって、周囲の人たちを心から気遣える自分になろうと思います」

 伸一の力強い声が響いた。

 「ありがとう! すばらしいことです。皆さんの手で勝利島を築いてください」
posted by ハジャケン at 10:00| 山梨 ☁| 新・人間革命 勝利島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月30日

勝利島60

勝利島60

参加者は皆、真剣な表情で、山本伸一の話に耳をそばだてていた。

 「太陽は一つであっても、ひとたび天空に躍り出れば、すべて明々と照らし出されていきます。同様に、信心強盛な一人の学会員がいれば、島全体が希望に包まれ、歓喜に満たされていきます。どうか皆さんは、一人ひとりが、その太陽の存在になっていただきたいのであります。どこまでも信心は強盛に、強い確信をもってください。そして、決して焦らず、あくまでも堅実に、広宣流布の歩みを運んでいってください。

 島というのは狭い社会であり、昔からの慣習等も息づいている。そのなかで信頼を勝ち得ていくには、賢明な日常の振る舞いが大事になります。誰人に対しても、仲良く協調し、義理を重んじ、大きく包容しながら、人間性豊かに進んでいかれるよう、願ってやみません。

 島のなかで、ささいなことで人びとと争ったり、反目し合ったり、排他的になるようなことがあっては絶対にならないし、孤立してしまうようなことがあってもなりません。仏法即社会です。世間の目から見ても、立派だ。さすがだ!≠ニ言われるような、聡明な活躍をお願いしたい。

 それが、広宣流布への第一歩であると確信し、身近なところから、着実に信心の根を張っていっていただきたいのであります」

 伸一は、長旅で疲れているであろう離島の同志の体調を思い、話は短時間で切り上げようと思った。最後に、「ただ一つ心肝に染めてほしい御文があります」と強調し、日蓮大聖人が佐渡で認められた「開目抄」の一節を拝読していった。

 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたな(拙)き者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(御書二三四n)
posted by ハジャケン at 10:20| 山梨 ☀| 新・人間革命 勝利島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月29日

勝利島59

勝利島59

 山本伸一は、離島の同志に寄せる自らの思いを語っていった。

 「皆さん方の愛する島へ、勇んで馳せ参じ、共に島の発展のために、福運の歴史を築きたい――それが、かねてからの私の願いであり、その気持ちは、今なお、いささかたりとも変わっていないことを知っていただきたいのであります」

 伸一の言葉に、皆、感動で胸が詰まった。

 「すべての人々とともに、そしてすべての人々のために=\―これが私の生涯の指針である」(注)とは、キューバ独立の英雄ホセ・マルティの言葉である。

 それは、伸一の真情でもあった。

 彼は、話を続けた。

 「本日の力強い第一回総会を起点として、気候的にも恵まれたこの十月ごろに、来年は第二回総会を、再来年には第三回総会を開催し、これを離島本部の楽しい伝統にしてはどうかと提案申し上げたい。賛成の方?」

 全員が賛同の挙手をした。

 「それでは、正式に決定させていただきます。当面は、この総会をめざして、前進の節を刻んでいきましょう!」

 喜びの拍手が高鳴った。

 「皆さん方は、第一期の島の広宣流布を推進し、見事な勝利を収められた。その実証が本日の晴れがましい姿です。

 そこで、本日の第一回総会をもって、いよいよ第二期の各島の広宣流布をめざし、勇躍、出発していっていただきたい!」

 ここに、離島の新章節の幕が開いたのだ。

 伸一は、未来のために、島の広布推進の要諦を語ろうと思った。

 「一つの島というのは、見方によれば、国と同じであるといえます。

 したがって皆さんは、一国を支えるような大きな心をもって、自分が、この島の柱となり、眼目となり、大船となるのだとの決意に立つことが大切です。そして、常に島の繁栄を願って、島民のために活躍していっていただきたいのであります」
posted by ハジャケン at 10:17| 山梨 ☀| 新・人間革命 勝利島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月28日

勝利島58

勝利島58

 山本伸一は、言葉をついだ。

 「広宣流布の旅路が、険難であるのは当然です。しかし、何があろうが、紛動されないで、退転しないで、どこまでも、私と一緒に、使命の大道を歩み通してください!

 では、全員で万歳を三唱しましょう。

 離島本部の万歳であり、各島々の万歳であり、皆さんご自身の万歳です」

 はつらつとした「万歳!」の声が、怒濤のように轟いた。

 それから、伸一の導師で、厳粛に勤行が始まった。皆の声が一つになり、歓喜に弾む軽快な読経・唱題が響いた。

 副会長ら幹部のあいさつなどに続いて、伸一のスピーチとなった。

 「もっと近くにおいでください。形式的になる必要は一切ありません。久遠の昔からの仏法家族が語り合うんですから」

 促されて、皆が伸一を囲むように座った。

 「今日は、どの島から来られているの?」

 彼の言葉を受けて、離島本部の幹部が、それぞれの島の名を読み上げていった。メンバーは自分の島が呼ばれると、誇らしげに返事をし、立ち上がった。

 沖縄の西表島で介輔として医療に従事し、島民の生命を守ってきた島盛長英もいた。香川の小豆島で最初に信心を始め、地道に島の広布を推進してきた道畑ハナノの姿もあった。伊豆大島や新島、三宅島、八丈島の初代支部長たちもいた。

 瀬戸内海に浮かぶ直島の友も元気に立ち上がった。直島にも支部があった。伸一は、この年三月、皆の活躍を聞き、歌を贈った。

 「直島の 友の幸をば 祈りつつ

   地図を開げて いづこの島かと」

 皆、“先生が、地図を見て探してくれたのか!”と喜び、奮い立った。弘教も、座談会等の結集も、圏を牽引する支部になった。

 多くの島々に、伸一の人知れぬ励ましの手が差し伸べられていた。それが、同志の信心の命脈をつなぐ力となってきたのだ。

 激励を通して、強き人間の絆が結ばれる。

■語句の解説

 ◎介輔/医介輔。戦後、米国の施政権下にあった沖縄県や鹿児島県奄美群島で、医師不足を補うために設けられた特例資格。医師に準じた治療行為を行った。
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2015年09月26日

勝利島57

勝利島57

 一九七八年(昭和五十三年)十月七日、山本伸一は、離島の婦人部の代表らと懇談したあと、第一回離島本部総会の会場である創価文化会館五階の広宣会館へ向かった。

 会場は、全国百二十の島々から集った代表で埋まり、求道の熱気に包まれていた。皆、固唾をのんで開会を待った。

 午後六時前、会場横の扉が開いた。皆の目が一斉に注がれた。伸一の姿があった。参加者の大拍手と大歓声が轟いた。広島の江田島、能美島、倉橋島の同志が立ち上がり、島をアピールする五メートルほどの横幕を広げ、喜びを表現した。

 「ようこそ! ようこそ!」

 伸一は、こう言いながら、参加者の中を進み、後方へ向かった。旧習の深い島々で戦い抜いてきた同志を、少しでも間近で激励したかったのである。

 声をかけ、握手を交わし、場内を進んだ。

 「遠いところありがとう! よくいらっしゃいました。お会いしたかった」

 黒潮に磨かれた精悍な顔、風雪に鍛え抜かれ、深い年輪を刻んだ顔、笑みを浮かべた柔和な顔――どの顔も、見る見る歓喜に紅潮していった。

 伸一と初めて会う人が、ほとんどであった。立ち上がり、手を振る人もいる。

 労苦の波浪を乗り越えてきた勇者の心意気と、仏子を讃え励まそうとする伸一の思いが熱く解け合い、会場は感動の坩堝となった。

 彼は、場内を一巡し、前方に来ると、マイクを手にした。

 「離島本部の第一回総会、おめでとう! 日々、苦闘を重ね、勝利の旗を打ち立ててこられた皆さんと、お会いできて本当に嬉しい。

 学会本部は、皆さんの家です。今日は、信心のわが家に帰って来たんです。堅苦しいことは抜きにしましょう。ゆっくりして英気を養い、ああ、本部に来てよかったな≠ニ心から満足して、若返って、お帰りになっていただきたい。それが、私の思いのすべてなんです。戦い抜いてこられた皆さんですもの」
posted by ハジャケン at 10:07| 山梨 ☔| 新・人間革命 勝利島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月25日

勝利島56

勝利島56

 山本伸一は、「龍郷支部歌」をもう一度聴いた。それから、「では、今度は、ぼくの作った歌を聴いてよ」と言って、東京、関西などの方面歌のテープをかけた。

 その音楽の流れるなか、伸一は奄美の同志に贈るために、激励の色紙を書いた。

 「友よ起て 此の世の歴史と 龍郷城」

 「勝ちいくさ さらに上潮 たのむらん

   因果の理法 強く信じて」

 伸一は、最後に、「皆さんに、くれぐれもよろしく!」と言って参加者を送った。

   

 この九州研修道場滞在中、伸一は、離島本部の幹部から相談を受けた。

 「可能ならば、学会本部で離島の代表者会議を行いたいと思っております。

 実は、各島々を回らせていただいて感じましたのは、島と島とのつながりが、あまりないということでした。

 一部の方面では、各島の代表が集って懇談会などを行ってきたところもありますが、全体的に見ますと、孤立したなかで必死に信心に励み、健闘しているというのが実情です。

 したがって、全国の代表が一堂に会し、それぞれの島の同志が広布のモデル≠めざして、奮闘している模様を語り合えれば、皆が元気になり、学会活動の勢いも出るのではないかと思います」

 一人立つことから、広宣流布の闘争は始まる。そして、一人立つ勇者の連帯がつくられる時、幸と希望の大潮流が広がる。

 伸一は、即座に言った。

 「大賛成です。各島々の同志は、孤軍奮闘している。それだけに、ほかの島の人たちも懸命に戦っている様子を知れば、勇気が湧くでしょう。しかし、どうせやるなら、極めて限られた代表が集う会議でなく、全国から大勢の人が参加できる総会にしてはどうだろうか。私が応援します。いつにするかは、よく検討し、一番良い季節を考えてください」

 早速、離島本部で協議し、総会の開催は、十月七日の土曜日と決まったのである。
posted by ハジャケン at 10:04| 山梨 ☔| 新・人間革命 勝利島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月24日

勝利島55

勝利島55

 カセットデッキから、「龍郷支部歌」が流れた。勇壮で力強い調べであった。臥龍が時を待って、天空高く昇りゆく姿に、同志の心意気を託した歌となっていた。

 山本伸一は、調べに合わせて、拳を振りながら、歌を聴いていた。

 聴き終わると、彼は言った。

 「いい曲だね。龍郷の新しい出発だね。

 支部の皆さんは、元気かな」

 すぐに、奄美の婦人の幹部が答えた。

 「はい。今は、地域の人たちも、心から学会を理解してくれています。また、多くの同志が、各集落の信頼の柱になっています」

 「それは、よかった。何よりも嬉しいね。日蓮大聖人の仏法というのは、最も苦しんできた人が、最も幸せになれるという教えなんです。また、最も激しい迫害が起こったところこそ、学会員が信頼の根を張り、広宣流布の模範の地域にしていく使命があるんです。

 大聖人は、一生のうちに自身の一切の謗法を消滅できるのは、法華経のゆえに数々の大難に遭ったからであると言われている。

 そして、『願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん』(御書五〇九n)と仰せです。その原理のうえから、弾圧の嵐が吹き荒れた地で戦ってこられた奄美の皆さんは、地域広布の先駆となって、人びとを幸せにしていってほしいんです。

 龍郷をはじめ、奄美の皆さんは勝った! 仏法は勝負です。十年、二十年、三十年、いや五十年とたった時に、すべては、ますます明らかになる。勝負は一生です。より根本的には、三世という尺度で見なければならない場合もありますが、最後の大勝利を確信し、不退の勇者として生き抜いてください。

 それには、心が強くなければならない。臆病では信心を全うすることはできません。大試練に耐えるとともに、自分の慢心や名聞名利への執着などに打ち勝つ強さが必要です。

 学会を離れれば、最後は後悔します。孤独です。広宣流布の陣列から離れることなく、はつらつと歓喜の大行進を続けてください」
posted by ハジャケン at 09:22| 山梨 ☁| 新・人間革命 勝利島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勝利島54

勝利島54

 山本伸一は、八丈島のメンバーに語った。

 「皆さんご自身が、本来、仏であり、皆さんは、自分の今いる場所を常寂光土としていくために出現したんです。どうか、力を合わせ、八丈島を広布模範の島にしてください。広布第二章の大潮流を八丈島から起こしてください。私は、じっと見守っています」

 また、彼は、八丈島の同志を代表して、菊田秀幸に歌を贈った。

   

 八丈に わが友君が ありつれば

   妙の薫風 幸とかおらむ

   

 伸一の激励は、菊田一家にとどまらず、島全体に大きく感動を広げていくことになる。

 この一九七八年(昭和五十三年)十一月、八丈本部が誕生するが、後年、菊田秀幸は本部長として活躍することになる。

 また、八丈島では、「聖教新聞」の購読推進に力を注ぎ、学会への理解を深め、二十一世紀へのスタートを切ろうと話し合った。そして、皆が友好の輪を着実に広げ、地域貢献に努めていくなか、島の購読世帯が三五パーセントを超える結果をもって、二〇〇一年(平成十三年)五月三日を飾ることになる。

   

 一九七八年(昭和五十三年)八月十三日、伸一は九州研修道場で行われた、佐賀、長崎、鹿児島の三県合同幹部会に出席した。

 その翌日、彼は、奄美へ帰る十数人のメンバーと会って懇談のひと時をもった。

 伸一は、皆の顔を見ると、笑みを浮かべた。

 「どうも、遠くからご苦労さまでした。一緒に、記念の写真を撮りましょう」

 懇談が始まった。参加者の一人が言った。

 「先生! 『龍郷支部歌』のテープを持参してきましたので、お聴きください」

 伸一の目が光った。

 「龍郷! 大変な迫害を勝ち越えてきた、あの龍郷ですね。聴かせていただきます」

 伸一は、最も苦闘してきた人たちのことを生命に焼きつけ、題目を送り続けてきたのだ。
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2015年09月22日

勝利島53

勝利島53

 八丈島は、伊豆七島の一つで、東京の南方海上約二百九十キロに位置している。

 学会の大田区の組織に伊豆七島本部があったことから、八丈島の同志は、大田区の会館に立ち寄ることが多かった。

 この日、大森文化会館に来たのは、草創の八丈支部の支部婦人部長を務めた菊田フジ子、そして、同じ姓の菊田秀幸・淳子夫妻と、その娘たちであった。高校二年、中学一年、小学五年生になる三姉妹である。

 菊田秀幸は、中学校の教員をしていた。

 山本伸一は、彼の娘たちに、パンを渡し、ジュースを勧めながら、今日は、どこに宿泊するのかを尋ねた。

 「おばちゃんの家です」

 末娘が答えると、母親の淳子が、「主人の姉の家です」と説明した。

 伸一は、末娘に聞いた。

 「おばちゃんに、お土産は?」

 娘は首を横に振った。伸一は、「それでは、これをおばちゃんに」と言って、会員への激励のために用意していた菓子折を渡した。

 秀幸は、宿泊場所や宿泊先への土産まで気遣ってくれる伸一の真心に、胸が熱くなった。

 伸一は、菊田フジ子に言った。

 「あなたが苦労して戦われてきたことは、よく知っています。八丈島は、今、三支部に発展した。見事な拡大です。鼓笛隊も誕生しましたね。本当にすごいことです」

 伸一は、機関紙誌に離島が取り上げられると、克明に目を通し、島の様子を心に刻んできた。八丈島についても、『聖教グラフ』三月一日号に掲載されたルポルタージュを見て、島の同志を励ましたいと思っていたのだ。

 彼の言葉に力がこもった。

 「組織が発展し、皆が功徳を受けていくならば、それは、草創期に道を切り開いてきた人に、全部、福運となって回向されます。大聖人は『功徳身にあつまらせ給うべし』(御書一二四一n)と仰せです。苦労を重ねて広布の大地を開墾し、妙法の種を蒔いた人を、諸天は永遠に大絶讃してくださるんです」
posted by ハジャケン at 10:00| 山梨 ☁| 新・人間革命 勝利島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月21日

勝利島52

勝利島52

 一九七八年(昭和五十三年)一月、「広布第二章」の支部制が発足し、離島にあっても清新の息吹で新たな前進が開始された。

 山本伸一は、各島々の飛躍のために、ますます力を尽くそうと心に決め、島にあって広宣流布を支え、推進してくれた同志を、讃え、励ますことから始めた。

 彼は、それぞれの島に生き、戦う、勇者たちの英姿を思い浮かべ、祈りを込め、代表に激励の和歌や言葉を、次々と贈っていった。

 「奥尻の 友はいかにと 今日も又

   幸の風吹け 祈る日々かな」

 「大聖に 南無し護らむ 佐渡の地で

   広布の友の いくさ讃えむ」

 「いつの日か 渡り語らむ 隠岐の島

   わが友思はば 心はずみて」

 「ふたたびの 友と会いたし 徳の島

   幸の唱題 おくる嬉しさ」

 「はるかなる 宮古の島に 君立ちて

   広布の楽土を 祈る日日かな」

 東京・伊豆大島の同志にも詠んだ。

 「いついかん 椿の花の その下で 

   広布に舞いゆく 君らいかにと」

 沖縄・久米島の同志には、こう記した。

 「どんなに辛くとも 団結第一で楽しい人生を 題目と共に 生きぬいて下さい」

 この励ましに、同志は燃えた。

 吹雪の暗夜を歩み続けてきた人には、一言の激励が勇気の火となり、温もりとなる。苦闘し抜いた人ほど、人の真心を感じ取る。

  

 山本伸一は、どこへ行っても、離島から来たメンバーがいると聞けば、全精魂を注いで励ましていった。

 三月三十一日、彼は、東京・大田区に新たに完成した大森文化会館を視察した。会館の和室で地元のメンバーと懇談していると、区の幹部が、八丈島から来たという数人の会員を連れてきた。伸一は、立ち上がって、皆を部屋に招き入れながら語った。

 「八丈島! 八丈島からですか! 遠いところ、ようこそおいでくださいました」
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2015年09月19日

勝利島51

勝利島51



 奄美の同志は、さまざまな圧迫に押しつぶされそうになりながらも、自らを鼓舞し、人びとの幸福と島の繁栄を願って広宣流布に生き抜いてきた。山本伸一は、その姿に仏を見る思いがしていた。その生き方のなかにこそ、現代における不軽菩薩の実践もあると、彼は強く確信していた。

 奄美からは、有志で制作したという「奄美広布の歌」のカセットテープと譜面も届けられていた。すぐに歌を聴いた。

 久遠の誓いを胸に、島の広布に生きる力強さがみなぎる歌であった。伸一の脳裏には、奄美の人びとの歓喜の笑みが、決意に燃える瞳が、精悍な顔が浮かんだ。

 また、奄美群島の徳之島では、「奄美の日」記念行事の一環として、創価学会青年部主催の文化祭が盛大に開催され、地域に大きな反響を広げたとの報告も届いていた。

 伸一は、すぐにペンを執った。

 「奄美の日、おめでとうございます。

 皆さんの『奄美広布決議』を拝見しました。二十日には徳之島での文化祭も見事な成果を収めたとのこと。はつらつとした皆さんの躍動の姿を嬉しく思います。

 決議文は御本尊様にお供えしました。それに対する私の気持ちを申し上げます。

 『ああ 雄々しき哉 奄美創価学会の友

  ああ 逞しき哉 奄美共戦の地涌の友

  ああ 奄美の同志の決議を 宝前に捧げ

  我もまた 君らと共に

  君らを守りながら 戦うを誓う』

 大切な、かわいい奄美のお友達のご健康と幸せを心から祈念して、私のメッセージといたします」

 彼は、同志の決意を大切にしていた。「意を決める」ことから、行動が生まれ、努力が生まれ、忍耐が生まれ、勝利が生まれる。決意は、大願成就への種子であるからだ。

 ゆえに彼は、皆の決意には、最大の真心と誠実をもって応えていったのである。

 師弟共戦がもたらす歓喜の発光は、広宣流布を阻む、いかなる暗雲をも打ち破る。
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勝利島50

勝利島50

 各島々では、地域の繁栄のために、さまざまな催しも行われた。

 長崎県・五島列島の福江島をはじめ、対馬や壱岐、鹿児島県の沖永良部島などでは、学会員が中心となって、島ぐるみのフェスティバル等が開催されていった。メンバーは、島に受け継がれてきた郷土の歌や踊り、伝統文化の保存、継承にも力を注いだ。

 また、学会員の多くが、島や集落のさまざまな仕事を積極的に引き受け、責任を担いながら、島民のために献身した。

 学会員が島に貢献する姿を通して、島民は創価学会の実像を知り、学会への理解を深めていったのである。法を体現するのは人であり、人の振る舞いが広布伸展のカギとなる。

 学会への偏見や誤解から、迫害の嵐が吹き荒れた地域でも、学会員への信頼は不動のものとなり、「非難」は「賞讃」へと変わっていった。各島の同志は、広宣流布への決意を、いよいよ燃え上がらせたのである。

 かつて学会員が村八分にされ、車やオートバイを連ねて「学会撲滅」を叫ぶデモが行われた奄美大島でも、学会理解は大きく進んでいた。

 一九七六年(昭和五十一年)六月二十一日、山本伸一のもとへ、「奄美広布決議」と題する一文が届けられた。奄美群島の同志は、伸一が奄美総支部結成大会に出席した六三年(同三十八年)六月二十二日を記念して、6・22を「奄美の日」とした。決議は、その新出発の総ブロック(後の支部)総会等を開催するにあたり、採択したものであるという。

 「一、奄美創価学会は、どこまでも異体同心にして朗々たる勤行と唱題を実践し、宿命的惰弱な生命を打ち破り、奄美の島々から苦悩の二字を抹消していく。

 一、奄美創価学会は、利他の実践に全魂を傾け、慈悲の雄弁をもって、力強く運動を展開する。

 一、奄美創価学会は、会長の数々の指針を胸奥にきざみ、御書運動と人間革命運動をもって、師弟共戦の戦いを固く誓う」
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2015年09月18日

勝利島49

勝利島49

 小笠原の同志の活躍は、東京に戻った離島本部の幹部から、詳細に、会長の山本伸一に伝えられた。伸一は、その様子を深く心に刻み、小笠原をはじめ、離島で奮闘する同志のために、ひたすら題目を送り続けた。

 大ブロック結成の翌一九七五年(昭和五十年)夏、伸一の三男で高校生の弘高が、星の観察などのために、友人と一緒に小笠原を訪れた。

 彼は、父島の学会員と交流し、以来、数年にわたって、小笠原へ足を運んだ。

 伸一は、弘高に言った。

 「小笠原は遠く離れているが、そこにも広宣流布のために必死になって活動している学会員がいる。尊いことだ。島の方々に、『くれぐれもよろしく』と、お伝えしてほしい」

 弘高は、伸一から託された記念の色紙などを携えて海を渡り、島の同志に届けたこともあった。大ブロック長・担当員の浅池隆夫・栄美夫妻の家で行われた座談会にも出席した。

 小笠原には、第一回離島本部総会直前の七八年(同五十三年)八月、支部が誕生する。

 また、後年、小笠原を含めた「伊豆諸島兄弟会」(当初は伊豆七島兄弟会)が結成される。弘高は、その名誉委員長として各島々の同志を励まし続けていくことになる。

  

 一九七四年(昭和四十九年)の離島本部の結成後、各島の学会員は、島の繁栄と人びとの幸福を願って広布の活動に励むとともに、地域貢献に一段と力を注いだ。

 伸一は、島での活動の在り方について、常々、こう訴えてきた。

 「学会員は、島の人びとと、どこまでも仲良く協力し合って進んでいくんです。また、島にとって何が必要かを考え、率先して島のために行動していくことが大事です。それぞれの島で、皆さんが人びとに心から信頼され、尊敬されていくことが、そのまま広宣流布の広がりになるんです」

 ”わが島に広布のモデルを””この島こそ常寂光土なり”と、同志は誓い合った。
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2015年09月16日

勝利島48

勝利島48
 やがて母島への本格的な帰還が始まり、旧島民や新しい人たちが島に移住してきた。そのなかに学会員もいた。

 勝田喜郎は、この島で広宣流布の大きな波を起こしていくには、皆が集う会場が必要だ≠ニ考えた。本土から大工を呼んで、家を新築することにした。ここを拠点に、母島広布は進んでいくことになる。

  

 青く澄み渡る珊瑚礁の海が光る。空も吸い込まれそうなほど青い。生い茂る椰子やパパイヤ、バナナの葉が風に揺れる……。

 一九七四年(昭和四十九年)五月四日――初めて小笠原の父島を訪れた離島本部の幹部らは、その南国情緒豊かな美しい景観に目を奪われた。とても、ここが日本の、しかも、東京都であるとは思えなかった。

 到着後、彼らは、島の主なメンバーと打ち合わせをし、夜には指導会を行った。

 会場は、浅池隆夫の家である。父島を中心に二十人余の参加者が集って来た。

 この指導会の席上、離島本部長の三津島誠司から、小笠原大ブロックの結成が発表された。大拍手が轟いた。大ブロック長・担当員には、浅池隆夫と妻の栄美が就いた。

 また、三津島から、会長・山本伸一の伝言が紹介された。

 「御本尊を通して、広宣流布に生きる私たちの心はつながっています」との、伸一の言葉を聞くと、参加者の目は涙に潤み、決意が光った。

 三津島は訴えた。

 「山本先生の心には、いつも、皆さん方がいます。皆さんの心に、先生がいるならば、師弟不二なんです。師弟の絆の強さというものは、地理的な距離や役職のいかんで決まるものではありません。先生に心を合わせ、胸中に師匠をいだいて、同じ決意で広宣流布に戦う人こそが、最も先生に近い人であり、それが本当の弟子であると思います。

 どうか、小笠原の皆さんは、師弟不二の大道を歩み抜いてください!」
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2015年09月15日

勝利島47

勝利島47

 一九六八年(昭和四十三年)六月、小笠原諸島は日本に返還される。しかし、翌年の春、勝田喜郎の父親は他界した。

 勝田は、大阪で会社勤めをしていたが、自分だけでも母島に帰って農業をし、父との約束を果たすべきではないか≠ニの思いが、日を追うごとに強くなっていった。

 勝田の先祖は一八七九年(明治十二年)に小笠原の母島に定住した最初期の一家であった。彼は、亡き父親が大事に持っていた、勝田家の「総括録」と題した綴りを目にしてきた。移住二代目にあたる祖父が記していたものだ。そこには、想像を絶する開拓の苦闘と気概が綴られていた。

 自分の体に、その開拓者の血が流れていることに、彼は誇りを感じた。

 よし、帰ろう! 先祖が心血を注いで開いた母島の土地を守ろう! そして、島の広宣流布に生き抜こう!

 彼には、農業の経験は全くなかった。しかし、信心で、どんな苦労も乗り越えてみせるぞ!≠ニいう意気込みがあった。

 勝田は、一年間、横浜で農業研修を受け、一九七一年(昭和四十六年)秋、農業移住者六世帯のうちの一人として母島に渡った。一般の人たちの本格的な母島帰還よりも、二年ほど早かった。

 二十七年間、無人島状態であった母島は、島全体がジャングルさながらであった。勝田は父島で材木を調達し、自分で家を建てることから始めた。出来上がった家は、六畳一間で、ランプ生活である。

 畑作りのため、開墾作業に励んだ。慣れぬ労作業に体は悲鳴をあげた。しかし、飢えに苛まれ、密林を切り開いてきた先祖の、厳しい開拓生活を思い起こしながら唱題した。

 これを乗り越えてこそ、母島広布の道が一歩開かれる! 負けるものか!

 勇気が湧いた。

 広宣流布の使命に立つ時、わが生命の大地から無限の力が湧き起こる。地涌の菩薩の大生命がほとばしるのだ。
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2015年09月12日

勝利島46

勝利島46

 小笠原へ旧島民が帰還してしばらくは、本土と父島を結ぶ船便は、月に一便であった。当然、生活物資が届くのも月に一度である。

 島に、住民が移って来るたびに、佐々本卓也や浅池隆夫は、学会員がいないかどうか聞いて回った。

 父島には、旧島民のほかに、新しい住民も増えていった。また、アメリカは、終戦の翌年には欧米系の旧住民の帰還を認めており、欧米系の人たちが暮らしていた。

 佐々本や浅池は、その人たちと融和を図りながら、島づくりに励んできた。

 彼らが父島に戻って二年がたった一九七〇年(昭和四十五年)ごろから、座談会も開かれるようになった。島での生活は、断水や停電も日常茶飯事であったが、そのなかで同志は、離島広布の先駆になろうと誓い合った。

 漁業調査船の船長である浅池は、海流やプランクトンの分布、魚群の種類の調査等のほか、父島と母島の物資の輸送や急病人への対応、海上遭難者の救出などにも奮闘した。

 地域への貢献を通して、信頼を勝ち取ることが、そのまま広宣流布の前進となった。

 「信心即生活」である。ゆえに学会員一人ひとりの生き方のなかに、仏法が表れる。

 彼は、船長を五年ほど務めたあと、小笠原支庁の職員となった。

 学会員のなかには、日本最南端の漁業無線局の局長もおり、多彩な人材がいた。

 島には、次第に観光客も増えていった。それにともない、ゴミが無造作に捨てられるなど、自然環境の破壊も進み始めた。

 島の未来を憂慮した学会員の有志が中心となって、「小笠原の自然を守る会」を結成。ゴミ拾いや自然保護のための運動を開始した。

 また、母島の広宣流布を担ってきた一人に勝田喜郎がいた。母島生まれの彼は、二歳の時、家族と共に強制疎開の船に乗る。移り住んだ八丈島で一家は入会。彼の父親は、母島に帰ることを夢見て生きてきた。喜郎は父と、「小笠原が返還されたら一緒に母島へ帰り、農業をしよう」と約束していた。
posted by ハジャケン at 09:25| 山梨 ☀| 新・人間革命 勝利島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月11日

勝利島45

勝利島45

 離島本部からの報告では、小笠原諸島には、三十世帯を超えるメンバーがいるとのことであった。

 山本伸一は、首脳幹部を通して、小笠原を訪問する離島本部の幹部に伝言した。

 「この機会に、小笠原に大ブロックを結成してはどうでしょうか。学会本部ともよく話し合って、人事なども、具体的に検討してください。

 また、島の皆さんに、こう伝えてください。

 『地理的には遠くとも、御本尊を通して、広宣流布に生きる私たちの心はつながっています。私は、日々、皆様の健康とご一家の繁栄を、真剣に祈り続けております』」

 そして、島の同志への記念品を託した。

 離島本部長の三津島誠司らが、小笠原諸島の父島に到着したのは、五月四日朝のことであった。船酔いの苦痛のなか、船を下りると、数人のメンバーが、こぼれるような笑みを浮かべて待っていた。そのなかに、母島から来たという、七十二歳の男性もいた。父島と母島とは、約五十キロ離れている。

 「本部から幹部の方が来られると聞いて、もう待ち遠しくて、二日前から父島へ来て待っとりました。山本先生はお元気ですか」

 彼は本土にいた時、ある会合で伸一が語った、「生涯、私と共に広宣流布に生き抜いてください」との言葉を胸に焼きつけ、母島で一心に信心に励んできたという。

 「師弟の誓い」に生き、「使命」を自覚した同志が、「広布の大道」を切り開いてきたのだ。

 三津島たちは、求道心にあふれた、その純粋な姿に、生命が洗われる思いがした。

 ――小笠原の広布は、一九六八年(昭和四十三年)に小笠原の島々が日本に返還され、本土などに強制疎開させられていた人たちが、父島に戻った時から始まっている。そのなかに佐々本卓也や浅池隆夫らの学会員がいたのである。

 佐々本は、漁業を行うために漁業協同組合をつくって組合長を務め、浅池は、東京都の小笠原の漁業調査船の船長となった。
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2015年09月10日

勝利島44

勝利島44

 離島本部の幹部は、四月には日本海に浮かぶ島のなかで最北に位置する北海道の礼文島や、利尻島にも足を運んだ。両島で映画「人間革命」の上映を行った。利尻島では百五十人を、礼文島では三百人を超える人びとが集って鑑賞した。

 その折、「聖教新聞」の創刊二十三周年記念事業の一環として、礼文町の礼文小学校に千冊余の図書贈呈が行われたのである。

 さらに五月、離島本部長らは、小笠原諸島の父島を訪問することになった。

 小笠原は、東京の南方千キロの太平洋上にあり、父島をはじめ、母島、硫黄島、南鳥島など、三十余の島々から成る。一九四四年(昭和十九年)、太平洋戦争の激化にともない、島々に住んでいた約七千人の住民が、本土などに強制疎開させられている。その島のなかで、硫黄島は米軍との激戦の舞台となった。守備隊の大多数の約二万二千人が戦死。米軍も七千人近い戦死者と約一万八千人の負傷者を出したといわれる。

 戦後、小笠原はアメリカの施政権下に置かれ、返還されたのは、強制疎開から二十四年後の六八年(同四十三年)六月のことであった。その後、かつての住民たちが帰還し、広宣流布の火がともされていった。そして、七四年(同四十九年)ごろには、弘教も活発に進められていたのである。

 小笠原の島々は、一年中、暖かく、梅雨もない。固有の進化を遂げた生物が多く、「東洋のガラパゴス」と呼ばれている。豊かで美しい自然が残されており、周辺の海には、クジラやイルカの姿も見られる。しかし、当時、小笠原に行くには、東京の竹芝桟橋から出る週一往復の船しかなかった。片道三十八時間、三日がかりの船旅となる。

 離島本部から上がってきた、小笠原指導の報告に対して山本伸一は言った。

 「私に代わって行ってきてください。会長ならどうするか≠ニ常に考え、大確信をもって激励を頼みます。師弟不二の心で行動してこそ、大いなる力が発揮できるからです」
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2015年09月09日

勝利島43

勝利島43

 離島本部の幹部らにとって、各島々の訪問は、すべてが驚きであり、感動であった。

 西表島では、訪問初日、島の東部の大原大ブロックで映写会などを行った。

 山本伸一の沖縄訪問の記録映画が上映された。石垣島で行われた「八重山祭」での「巻き踊り」のシーンとなった。これは、大原大ブロックのメンバーが演じたもので、ハッピ姿で鉢巻きを締めた伸一が、自分たちと手をつないで踊る様子が映し出されると、期せずして歓声と拍手が湧き起こった。

 映写終了後も、涙ぐみながら、あの日の感激と決意を語る人が後を絶たなかった。

 翌日は、島の西部にある西表大ブロックへ移動しなければならない。しかし、道路はつながっておらず、サバニと呼ばれる小舟を借りていくことになった。

 西表島長をしている島盛長英は言った。

 「私たちは、普段は東部の大原港から石垣島に出ます。そこで一泊し、翌日の船で、西部の船浦港へ渡ります。石垣島から船浦港の往復は、一日一便しかありません。今回は、時間を短縮するために舟にしました。少し揺れるかもしれません」

 この日は、海上風警報が出され、風が強く、波が高かった。皆、雨合羽を着て舟に乗り、その上から防水シートを被って、舟べりにしがみついた。

 それでも、激しい波にもまれ、衣服は飛沫で、びしょ濡れになった。しかし、映写機とフィルムだけは濡らすまいと、抱きかかえての一時間であった。船浦港からは、トラックをチャーターして会場に向かった。

 道はでこぼこで、車の揺れは激しく、体が飛び跳ねる。離島本部の幹部は思った。

 西表の人たちは、こうしたなかで活動しているのか! 十分も歩けば、大ブロックを通り越してしまう東京都区内とは大違いだ。東京にいて、活動が大変だなんて嘆いていたら、西表の人に笑われてしまう

 労苦は、仏道修行の最高の道場となる。大変な思いをした分だけ、功徳は大きい。
posted by ハジャケン at 09:49| 山梨 ☔| 新・人間革命 勝利島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月08日

勝利島42

勝利島42

 離島本部は、当初、本部長と二人の副本部長でスタートし、次いで九州と沖縄に方面離島長が誕生した。

 彼らが、離島の実態を調べて驚いたのは、約四百ある有人の島の多くに学会員がいるということであった。といっても、一世帯から数世帯しか会員がいない島も少なくなかった。島の同志は、まさに一人立って、創価の松明を掲げ、孤軍奮闘していたのである。

 離島本部の幹部たちは、励ましの手を差し伸べることの必要性を痛感した。

 彼らは、愛媛県の中島をはじめ、熊本県の御所浦島、鹿児島県の奄美群島、東京の伊豆大島、八丈島、三重県の菅島、答志島などを回り、力の限り激励を重ねた。

 島を訪ねる時は、各県の幹部にも同行してもらった。同じ県内であっても、初めて島に渡るという幹部もいた。日帰りができないケースや、海が荒れると、いつ帰れるかわからないこともあるため、島に行く機会を逸していたのである。

 しかし、離島本部の幹部が、島を駆け巡る姿を目の当たりにして、地元の県や本部の幹部の意識にも変化が起こった。厳しい条件のなかで活動している人にこそ光を当て、讃え、励まし、希望と確信を与えていくという幹部の基本姿勢を、再確認する契機となったのだ。そして、積極的に離島を訪れる流れが生まれていったのである。

 離島本部長の三津島誠司らは、山本伸一の沖縄指導があった翌月の三月、完成したばかりの、その記録映画のフィルムを持って、沖縄の久米島、宮古島、池間島、伊良部島、西表島、石垣島を回った。先生が石垣島や宮古島を訪問された様子を各島々に伝え、歓喜の波動を広げよう!≠ニ意気軒昂であった。

 各島で「映写会」や「講演と映画の夕べ」など、趣向を凝らした催しが行われた。友人も参加しての楽しく有意義なひと時となった。

 時を逃さずに、直ちに行動を起こす。その素早い反応と懸命な実践が、広宣流布の流れを大きく開く好機を創る。
posted by ハジャケン at 09:21| 山梨 ☁| 新・人間革命 勝利島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月07日

勝利島41

勝利島41

 離島本部の第一回代表者会議では、奄美大島、喜界島、屋久島に「地域長」が設けられたことが発表され、その人事も紹介された。

 各島の地域長は、その島ならではの特色を生かしながら、それぞれの島の発展、広宣流布の責任を担う中心者である。

 山本伸一は、代表者会議を終えて、帰途に就くメンバーの見送りにも立った。

 バスに乗り込む一人ひとりの魂を揺さぶる思いで、声をかけ、励ましていった。

 「島のことは、皆さんにお願いするしかありません。皆さんが動いた分だけ、語り合った分だけ、広宣流布の前進があります」

 「皆さんのご健康を、ご活躍を、島の繁栄を、懸命に祈ります。朝な夕な、題目を送り続けます。私たちの心は、いつも一緒です。じっと、皆さんを見守っていきます」 

 「島の人びとは、すべて自分が守るのだという思いで、仲良く、常識豊かに、大きな心で進んでいってください。信頼の大樹となって、全島民を包んでいただきたいんです」

 広布の一切は、一人立つことから始まる。この日、離島の同志たちは、広布第二章の新しい扉を開いたのである。

 参加者を見送った伸一は、三津島誠司ら離島本部の幹部に語った。

 「各島々の広布の基盤をつくるまでは、離島本部の幹部は、徹底して離島を回って激励に力を注ごう。私も、そうします。あらゆる機会に離島の方々を励ましていきます」

 その言葉通り、山本伸一は、香港から帰国した翌々日の二月二日には沖縄を訪問。石垣島、宮古島へも足を運んだのである。

 どちらの島でも、一緒に記念のカメラに納まった。地域の友人も参加しての「八重山祭」「宮古伝統文化祭」に出席し、共に踊りもした。「先祖代々追善法要」も、会館の起工式も行った。西表島の中学校、伊良部島の小学校への図書贈呈も行い、皆と懇談を重ねた。

 島民と融合した数々の行事は、まさに「仏法即社会」の在り方を示すモデルケースとなった。一つの範を示せば流れは開かれる。
posted by ハジャケン at 09:28| 山梨 ☔| 新・人間革命 勝利島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月05日

勝利島40

勝利島40
 仏法の世界で偉いのは誰か――御書に仰せの通り、迫害、弾圧と戦いながら、懸命に弘教に励み、人材を育て、地域に信頼を広げながら、広宣流布の道を黙々と切り開いてきた人である。人びとの幸せのために汗を流し、同苦し、共に涙しながら、祈り、行動してきた人である。僧侶だから偉いのではない。幹部だから偉いのでもない。

 山本伸一は、話を続けた。

 「学会のリーダーは、自分が偉いように錯覚し、会員の方々に横柄な態度で接したり、慇懃無礼な対応をしたりするようなことがあっては絶対にならない。健気に戦ってきた同志を、心から尊敬することができなくなれば、仏法者ではありません。

 もしも幹部が、苦労を避け、自分がいい思いをすることばかり考えるようになったら、それは、広宣流布を破壊する師子身中の虫です。そこから学会は崩れていってしまう。そのことを、深く、生命に刻んでいただきたい」

 伸一の眼光は鋭く、声は厳しかった。

  

 一月二十五日、霧島連山の中腹にある九州総合研修所には、肌を刺すような寒風が吹きつけていた。午前十一時前、離島本部の第一回代表者会議に参加するメンバーのバスが到着した。バスを降りると、そこに待っていたのは、伸一の笑顔であった。

 「ご苦労様です! よくいらっしゃいました! 広布の大英雄の皆さんを、心から讃嘆し、お迎えいたします」

 伸一は、手を差し出し、握手した。島の同志たちも、強く握り返した。彼らには、伸一の手が限りなく温かく感じられた。その目に、見る見る涙が滲んでいった。

 多くは語らずとも、皆、伸一の心を、魂の鼓動を感じた。勇気が湧いた。

 この日の代表者会議では、各島にあって、伝統文化を守り、島の発展に尽くすことを決議した。また、島の実情に応じ、社会性を大切にしながら、活動に取り組んでいくという基本方針を確認し合った。
posted by ハジャケン at 09:13| 山梨 ☁| 新・人間革命 勝利島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする