2016年06月14日

力走68

力走 六十八

 四国から帰った翌十四日からも、山本伸一のスケジュールはびっしりと詰まっていた。
 教育部の記念勤行会や本部幹部会、ソ連の対外友好文化交流団体連合会(対文連)の議長らとの会談や、東京・八王子圏の代表幹部会、東京支部長会、千葉県支部長会、茨城県支部長会、イギリス・オックスフォード大学のブライアン・R・ウィルソン社会学教授との会談など、片時の休みもなかった。
 “今、戦わずして、いつ戦うのだ! 時は今だ! この一瞬こそが、黄金の時だ!”
 こう自分に言い聞かせての敢闘であった。
 そして、十二月の二十六日には、関東指導に出発したのだ。栃木県の足利会館を初訪問し、勤行会に出席。二十七日には、群馬県高崎市の群馬センターを訪れ、勤行会等に臨み、翌二十八日もまた、同センターで大ブロック幹部を対象に勤行会を開催した。さらに、約十年ぶりに高崎会館を訪問し、この日午後九時前、学会本部に戻った。
 彼は大晦日まで、創価大学や創価学園の教員らとの懇談会や、聖教新聞社での原稿の執筆など、全力で行動を続けた。
 嵐吹き荒れる激動の一年であった。創価の松明を掲げ、守り抜いた力走の一年であった。新しき歴史を築いた建設の一年であった。
 この一年間で訪問したのは、北は北海道、南は九州まで十方面、一道二府二十五県となり、海外では第四次訪中も果たした。
 会談した主な識者や指導者は、国内外で二十数人を数えた。
 また、作詞した各部や各地の学会歌は、実に三十曲ほどになっていた。
 大晦日の夜、帰宅して、門前に立った伸一は、空を仰いだ。星辰の瞬きが諸天の微笑みのように思えた。激戦、激闘を重ねた、必死の舵取りの一年が終わろうとしていた。彼の胸中には、微塵の後悔もなかった。ただただ師子の闘魂が、熱く熱くほとばしっていた。
 “風よ吹け、波よ立て。われは征くなり”
 心燃え立つ伸一の頰には、冬の外気が心地よかった。
 (この章終わり)
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2016年06月11日

力走67

力走 六十七

 徳島県の幹部総会では、県の組織が一圏三地域本部としてスタートすることが発表されるなど、明「人材育成の年」への、晴れやかな助走の総会となった。
 山本伸一は、あいさつのなかで、「其れに付いても法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く・一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可きなり」(御書一三五七ページ)の御聖訓を拝して指導した。
 「ここでは、私どもの信心の在り方を示されております。すなわち、断じて退転することなく、偽りのない強盛な信心を貫き、一切を御本尊様にお任せしきって、仏の言葉通りに仏道修行に励んでいきなさい。そうしていくならば、後生はもちろんのこと、今生においても、安穏な長寿の人生を飾り、すばらしい大功徳を受け、広宣流布の大願も成就していくことができるとの仰せなんです。
 つまり、生涯を信心に生き抜こうと心を定める“覚悟”こそが、一切の勝利の原動力であることを知っていただきたい。
 どうか、徳島の皆さんは、清流のように清らかな、たゆむことのない信心を貫き、明年もまた、悠々と師子のごとき一年を送ってください。お元気で!」
 その後も伸一は、県の代表幹部と懇談し、希望あふれる徳島の未来図を語り合った。
 四国指導最終日の十三日もまた、四国研修道場を出発する間際まで、役員らと共に勤行するなど、激励に終始した。
 この日、伸一が学会本部のある東京・信濃町に戻ったのは、午後八時近くであった。幹部からの報告や、多くの決裁書類などが彼を待っていた。間断なく奮闘は続いた。
 トインビー博士は『回想録』に記している。
 「常に仕事をしていること、しかも全力を出して仕事をしていること、これが私の良心が義務として私に課したことであった」(注)
 伸一もまた、同じ信念をもって一瞬一瞬を過ごした。自身の人生と民衆の勝利のために。

 小説『新・人間革命』の引用 文献
 注 A・J・トインビー著『回想録I』山口光朔・増田英夫訳、社会思想社
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2016年06月10日

力走66

力走 六十六

 高知文化会館を発った山本伸一は、十一日の午後六時前、香川県・庵治町の四国研修道場に到着した。彼は、移動の疲れも全く感じさせず、元気に香川県の最高会議に臨んだ。この席で、香川県は二圏一地域本部の布陣で新出発することが決まった。
 翌十二日午後は、徳島県から代表二千八百人が集い、第一回の県幹部総会が行われた。
 伸一は、開会前、二十人ほどの青年たちと記念のカメラに納まった。一九六九年(昭和四十四年)の十月、香川県立体育館で行われた四国幹部会で合唱を披露した、「香川少年少女合唱団」のメンバーである。
 彼は、この四国幹部会終了後、幼い合唱団員と一緒に写真を撮り、こう語った。
 「今日は、全国、全世界の少年・少女部の代表という意味で記念撮影しました。
 みんなのなかから大人材が育っていくと、私は強く確信しています。十年後に、また会おう。みんな、立派な人になるんだよ」
 “十年後”――この言葉が、皆の目標となった。それから十年目に入った今、メンバーは伸一の四国訪問を聞き、互いに連絡を取り合って、喜び勇んで駆けつけてきたのだ。
 かつての小学生は、凜々しく、はつらつとした青年に育っていた。伸一は嬉しかった。
 「よく来たね! 本当に大きくなったなー」
 彼は、感慨を嚙み締めながら目を細め、声をかけ、一緒にカメラに納まった。皆、この日をめざして、立派な創価の後継者に育とうと決意し、受験や就職、また学会活動に奮闘してきたにちがいない。
 決意は大成の種子である。しかし、決意を成就するには、日々の着実な挑戦と努力が必要である。勝利の実証が尊いのは、その粘り強い精進の蓄積であるからだ。
 彼は、二十一世紀を託す思いで語った。
 「負けないことだよ。真っすぐに伸びるんだ。真っすぐ伸びて、大樹になるんだよ」
 青年たちの力強い返事が響いた。そして、あの日歌った「チキ・チキ・バン・バン」と、“大楠公”の歌を、新たな誓いを込めて合唱した。
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2016年06月09日

力走65

力走 六十五

 高知文化会館には、まだ、たくさんの人が詰めかけていた。山本伸一は、もう一回、勤行会を行った。ここでは、創価の同志の絆を強め、不退の信心を貫くよう、情熱を込めて呼びかけた。彼は、一人たりとも、一生成仏の軌道から外れてほしくはなかった。
 帰り支度をして、会館の一階に下りた伸一は、運営に使われていた部屋に顔を出した。
 彼の姿を見ると、合唱団のピアノ演奏を担当した女子部員が、伸一に報告した。
 「先生、私は平尾光子と申します。今回、高知で先生の出られた勤行会に、すべて合唱団として参加することができました。
 実は、家族のなかで、父だけが未入会なんですが、私は感激のあまり、毎日、先生のお話を父に伝えておりました。父も、熱心に話に耳を傾け、一緒に喜んでいました。
 それで、こんな句を詠んでくれたんです」
 彼女は、短冊を差し出した。
 「大いなる 冬日の如き 為人」
 「曰はく 一語一語の 暖かし」
 伸一は、微笑みながら言った。
 「いいお父さんだね。あなたは本当に愛されているんです。娘さんが、冬の太陽のように周囲を照らし出し、慕われる人に育ったことを、心から喜んでいる心情が伝わってくる句です。また、あなたの姿を通して、私のことを知り、共感してくださっているんだね。
 娘としてのあなたの誠実な振る舞いが、お父さんの心に響いたんです。大勝利です。
 私も、お父さんに句をお贈りしたいな」
 しかし、出発間際であり、筆もなかった。
 「では、お父さんに、『近日中に句をお贈りさせていただきます』とお伝えください」
 それから一週間ほどして、伸一から彼女のもとへ、父親あてにトインビー博士との対談集『二十一世紀への対話』が届けられた。
 そこには、一句が認められていた。
 「父の恩 娘の幸せ 祈る日々」
 ほどなく父親は、自ら入会した。そして、自宅を会場に提供するなど、学会を守る頼もしい壮年部となっていったのである。
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2016年06月08日

力走64

力走 六十四

 高知の男子部に、山本伸一は訴えた。
 「私たちは、青年部の時代、兄弟以上に同志の結合を固めながら、ありとあらゆる闘争をしてきました。皆、権力もない。財力もない。ただ学会精神一つで、今日の世界的な平和と文化の大推進団体を創り上げてきました。
 今度は諸君が、それをすべて受け継ぎ、さらに発展させていく番です。自分の世代の広宣流布は、自分たちが開き築いていくんです。
 長い広布旅の人生には、一家の問題、職場の問題、自身の性格の問題等、多くの悩みと直面するでしょう。私たちもそうでした。
 しかし、肝に銘じてもらいたいことは、ともかく御本尊から離れないこと、創価学会の組織から離れないことです。
 しがみつくようにしてついてくる。どんなに苦しくても、いやであってもついてくる――その人が最後の勝利者になります。
 また、一人ひとりが、なんらかのかたちで社会に貢献してほしい。何かでトップになっていただきたい。それが、未来の広宣流布を決する力となっていきます。
 ともあれ、諸君は、既に創価学会という世界で青春を生きてきた。自分の信念、信条として、その人生を選んだのだから、“誰がなんと言おうと、この仏法を一生涯貫き通して死んでいく。もしも、皆が倒れても、その屍を乗り越えて、広布の峰を登攀してみせる”という、決意で進んでいただきたい」
 黒潮躍る高知の男子部に、伸一は、広布の精神のバトンを託したのである。
 翌十一日は、高知の滞在最終日である。
 この日、午前十一時半から、高知文化会館開館一周年記念の近隣勤行会が行われた。近隣としてはいたが、「来られる方は、皆、来てください」と全県に連絡が流れていたので、会館の大広間は参加者でいっぱいになり、ほかの部屋も次々と人であふれた。
 勤行会で伸一は、「『教学を深め、法を弘める』すなわち“深学弘法”を私どもの精神として、晴れやかに信心強盛な日々を送っていただきたい」と念願し、あいさつとした。
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2016年06月07日

力走63

力走 六十三

 任用試験の受験者を激励した山本伸一は、高知文化会館に戻ると、四国の大学会メンバーと記念撮影した。
 午後四時からは、開館一周年記念のブロック長、ブロック担当員(後の白ゆり長)の勤行会に出席し、指導した。
 彼は、最前線組織のリーダーと会えることが、何よりも嬉しかった。ブロック組織こそが、広宣流布の現場である。ここに創価学会の実像がある。わがブロックが学会なのだ。そこを離れて、どこかに特別な学会があるわけではない。ゆえに、自分のブロックの建設に最大の力を注ぎ、強化し、理想の組織を創り上げていく以外に広宣流布の伸展はない。
 伸一は、渾身の力を込めて訴えていった。
 「悔いなき人生のため、悔いなき信心を」
 「信心即生活である。現実の社会で勝利していくために、揺るぎない生活の確立を」
 そして、万感の思いを込めて呼びかけた。
 「皆さんが、敢然と創価の旗を掲げて勇み立ってくださるならば、地域広布の勝利は間違いありません。どうか皆さんは、『私の姿、生き方を見てください。ここに仏法の力の証明があります』と、胸を張れる一人ひとりであってください。わが兄弟、姉妹として、私に代わって地域広布の指揮を頼みます」
 “広布のいごっそう、創価のはちきんに大勝利あれ!”と念じての指導であった。
 さらに、夜には、第一回「高知県男子部幹部総会」に喜び勇んで臨んだ。高知入りした伸一が提案し、開催されることになった総会であった。彼は、近代日本の黎明を開く逸材を育んだ高知の地に、次代の盤石な柱を打ち立てておきたかったのである。
 伸一は、“学会の後継者として、崇高な信念の人たれ!”との願いを託し、語った。
 「高山の頂には、常に烈風が吹き荒れている。古今東西、大偉業を成し遂げた人は皆、激しい中傷や批判にさらされてきた。同様に、世界最高の大仏法を流布する、わが創価学会に、激しい非難中傷の嵐が吹き荒れるのは、むしろ当然のことなのであります!」
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2016年06月06日

力走62

力走 六十二

 山本伸一は、任用試験の会場を提供してくれた、保育園の園長である高原嘉美の自宅も訪問した。試験会場を提供してもらったことに心から感謝を述べ、用意していた色紙に、「光福」などと揮毫して贈った。
 高原は、自分の四十余年の人生を振り返りながら、その歩みを語っていった。
 彼女は、結婚後、貧乏と家庭不和に悩みながら幼子を育て、半身不随の舅の面倒をみた。釣瓶で水を汲み、薪でご飯を炊き、家族の朝食の世話をする。自分は残り物を口に入れると、農作業に飛び出す毎日であった。
 身も心も、へとへとに疲れ果て、なんの希望も感じられなかった。その時、実家の母の勧めで入会した。義父母からは「嫁が先祖代々の宗旨を変えるとはもってのほかだ」と叱られた。近所からは「あそこの嫁がナンミョーに入った」と嘲笑され、村八分にもあった。
 “信心をやめよう”と思い悩む日が続いた。しかし、学会の先輩が足繁く訪ねて来ては、「この信心は正しく、力があるから、魔が競ってくる。あなたが変われば、必ず環境も変わる」と確信をもって指導してくれた。
 励ましによって、人は師子となる。
 “よし! どんなに苦しくとも頑張ろう。この信心で、宿命を転換していくんだ!”
 高原は、信心で、逆境を一つ一つ乗り越えていった。そのたびに確信が増した。
 ある時、持っていた土地が高く売れた。それを資金にして、家の周りの土地を購入し、保育園をつくろうと思った。地域の人たちの要請であった。保育園の開園は、順調に進んだ。献身的な職員にも恵まれた。地域の人びとも、さまざまに尽力し、守ってくれた。
 高原は、喜びを嚙み締めながら語った。
 「山本先生! 入会前には、思ってもいなかった幸せな境涯になれました」
 「断固として信心を貫いてきたからです。だから、周囲の方たちも協力してくれるんです。信心こそ、一切に勝利する力なんです」
 妙楽大師は「必ず心の固きに仮って神の守り則ち強し」(御書一一八六ページ)と。
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2016年06月03日

力走60

力走 六十

 島寺義憲が中浜万次郎像の顔を指さしながら、山本伸一に説明した。
 「先生。この像は、ホイットフィールド船長が住んでいたアメリカのフェアヘイブンの方角を向いているということです」
 伸一は、「そうか」と頷き、言葉をついだ。
 「万次郎は、普仏戦争が起こると、視察団としてヨーロッパに派遣される。その途次、アメリカのフェアへイブンを二十年ぶりに訪れている。親代わりであり、師でもあったホイットフィールド船長に会うためだよ。大恩人に、なんとしても、感謝の思いを伝えたかったんだろうね。
 報恩は人道の礎だ。私も、片時たりとも、戸田先生への報恩感謝を忘れたことはない」
 古代ローマの政治家キケロは、「いかなる義務も恩を返すより重大なものはない」(注)との箴言を残している。報恩は、古今東西を問わず、普遍的な人間の規範といえよう。
 万次郎像から二百メートルほど歩いて、白い灯台の下に立った。眼下には白波が躍り、彼方には青々とした大海原が広がっていた。
 同行していた地元のメンバーが言った。
 「ここでは、自殺者も出ております」
 「可哀想だな……」
 追い詰められて、人生の断崖に立ち、自ら命を絶った人たちを思うと、伸一の胸は痛んだ。皆で冥福を祈り、題目を三唱した。
 それから、学会員が経営しているという土産物店に激励に立ち寄ったあと、中村市(後の四万十市の一部)にある幡多会館へと向かった。車が土佐清水市の中心街に入ると、道路脇に三人、五人と立って、路上を行く車を見ている人たちがいた。
 「見送ろうとしてくれている学会員だね」
 伸一は、そうした人たちに出会うたびに、車を止めてもらい、窓を開けて声をかけた。
 一度の激励が、人生の転機となることもある。一回の出会いを生涯の思い出として、広宣流布に生き抜く人もいる――そう考えると、励まさずにはいられなかったのである。
 彼は、自らを鼓舞し、使命の力走を続けた。

 ◎普仏戦争/一八七〇〜七一年、プロイセンとフランスの戦争。プロイセンが勝利し、ドイツ帝国が成立した。

 引用文献
 注 キケロー著『義務について』泉井久之助訳、岩波書店
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2016年06月02日

力走59

力走 五十九

 時代の激流は、万次郎を歴史の表舞台に押し上げていった。時代が彼の力を必要としていたのだ。
 土佐で万次郎は士分を与えられ、藩校「教授館」で教えることになった。岩崎弥太郎や後藤象二郎も、彼に影響を受けている。さらに、江戸に呼ばれ、軍艦教授所の教授を務める一方、翻訳なども行っている。
 だが、そんな万次郎に、嫉妬する者も後を絶たなかった。彼が、自分たちにはない優れた能力、技量をもっていることは、皆、わかっていた。それでも、武士ではない、半農半漁の貧しい家の子が重用されていったことへの、感情的な反発があったのであろう。
 自分に力もなく、立身出世や保身に執着する者ほど、胸中で妬みの炎を燃やす。大業を成そうとする英傑は、嫉妬の礫を覚悟しなければならない。
 人間は、ひとたび嫉妬に心が冒されると、憎悪が燃え上がり、全体の目的や理想を成就することを忘れ、その人物を攻撃、排斥することが目的となってしまう。そして、さまざまな理由を探し、奸策を用いて、追い落としに躍起となる。
 国に限らず、いかなる組織、団体にあっても、前進、発展を阻むものは、人間の心に巣くう、この嫉妬の心である。
 万次郎は、スパイ疑惑をかけられたりもしたが、日米和親条約の締結にも尽力した。日米修好通商条約の批准書交換に際しては、遣米使節団の一員となり、咸臨丸で渡米し、通訳などとして活躍する。明治に入ると、政府から開成学校(東京大学の前身)の英語教授に任命されている。
 山本伸一は、万次郎の生涯に思いを馳せながら、同行の幹部に語った。
 「万次郎は周囲の嫉妬に苦心したが、信心の世界にあっても同様だよ。魔は、広宣流布を阻むために、外からだけでなく、学会の中でも、互いの嫉妬心を駆り立て、団結させまいとする。大事なことは、その心を超克する、人間革命の戦いだ」

 小説『新・人間革命』語句の解説
 ◎岩崎弥太郎など/岩崎弥太郎(一八三五〜八五年)は、土佐出身の実業家で三菱財閥の創始者。後藤象二郎(一八三八〜九七年)は、土佐藩士、政治家。大政奉還運動を推進し、後に、逓信・農商務大臣を務める。
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2016年06月01日

力走58

力走 五十八

 万次郎は、皆から「ジョン・マン」と呼ばれた。それは、捕鯨船「ジョン・ハウランド号」の船名にちなんだ愛称であった。
 彼はよく働き、捕鯨船の乗組員たちから愛されていた。なかでも、船長ホイットフィールドは、向学心旺盛で聡明な彼を、息子のようにいとおしく思い、アメリカで教育を受けさせたいと考える。
 万次郎は、ホイットフィールド船長と共にアメリカ本土へ渡り、マサチューセッツ州のフェアヘイブンで学校に入る。英語、数学、測量、航海術等を学んだ。農業などを手伝いながら、猛勉強に励んだ。船長の恩に報いようと必死だった。成績は首席であった。
 卒業後は捕鯨船で働き、航海士となるが、やがて帰国を決意する。日本にいる母のことも、心配で仕方なかったにちがいない。また、次第に険悪化していく日米関係を危惧し、開港を訴えなければならないとの強い思いがあったとする見方もある。
 万次郎は、帰国資金を作るため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへと向かう。遭難から九年、既に二十三歳になっていた。金鉱で採掘に取り組み、資金を得た彼は、サンフランシスコから商船でハワイに渡り、ホノルルにとどまった仲間と再会し、日本へ戻る計画を練った。
 いまだ鎖国は続いている。結果的にその禁を破ったのだから、死罪も覚悟しなくてはならない。彼は、琉球をめざすことにした。琉球は薩摩藩の支配下にあるが、独立した王国であったからだ。上陸用のボートを購入し、上海に行く船に乗せてもらった。琉球の沖合で、ボートに乗り換えた。
 彼が、琉球、鹿児島、長崎、土佐で取り調べを受け、故郷に帰ったのは、嘉永五年(一八五二年)、二十五歳のことであった。
 万次郎は、常に希望を捨てなかった。行く先々で、その時に自分ができることにベストを尽くした。だから活路が開かれたのだ。
 「希望は、嵐の夜の中に暁の光を差し入れるのだ!」(注)とは、詩人ゲーテの叫びだ。

 小説『新・人間革命』の引用 文献
 注 「プロゼルピーナ」(『ゲーテ全集4』所収)高橋英夫訳、潮出版社

 主な参考文献
 中浜明著『中浜万次郎の生涯』冨山房
 中浜博著『私のジョン万次郎』小学館
 中濱武彦著『ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎』講談社
 「ジョン萬次郎漂流記」(『井伏鱒二全集第二巻』所収)筑摩書房
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2016年05月31日

力走57

力走 五十七

 レストランで同志を励ました山本伸一は、車で足摺岬灯台をめざした。
 一キロほど走り、駐車場で車を降りると、灯台へ続く入り口広場に立つ、和服姿の銅像が見えた。台座を含め、像の高さは、六、七メートルであろうか。
 島寺義憲が、すぐに説明を始めた。
 「先生。あれは中浜万次郎、つまりジョン万次郎の銅像です」
 一行は、万次郎像の前まで行き、像を見上げた。そして、語らいが始まった。
 「ジョン万次郎」という名が日本中に広く知られるようになったのは、作家・井伏鱒二の小説『ジョン萬次郎漂流記』によるところが大きい。伸一も、少年時代に胸を躍らせながら読んだ、懐かしい思い出がある。
 中浜万次郎は、文政十年(一八二七年)の元日、現在の土佐清水市中浜に、半農半漁の家の次男として生まれた。
 少年期に父が他界し、母を助け、体の弱い兄に代わって懸命に働いた。
 天保十二年(一八四一年)一月、十四歳になった彼は、漁を手伝って、暴風雨に遭い、四人の仲間と共に漂流したのである。
 数日後、たどり着いたのは、伊豆諸島にある無人島の鳥島であった。渡り鳥を捕まえて食べ、飲み水を探し回らねばならなかった。
 島での生活は、百四十三日も続いた。ようやくアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救出された彼らは、ハワイのオアフ島に送り届けられる。日本は鎖国をしており、日本に送ることはできなかったのである。
 仲間四人は、ハワイにとどまることになったが、万次郎は、そのまま捕鯨船に残り、航海を続けることを希望した。
 彼は、家が貧しかったために、寺子屋に通って、読み書きを学ぶこともできなかった。しかし、聡明であった。世界地図の見方や英語などを船員たちから学び、瞬く間に吸収していった。
 強き向上、向学の一念があれば、人生のいかなる逆境も、最高の学びの場となる。

 小説『新・人間革命』の主な参考文献
 中浜明著『中浜万次郎の生涯』冨山房
 中浜博著『私のジョン万次郎』小学館
 中濱武彦著『ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎』講談社
 「ジョン萬次郎漂流記」(『井伏鱒二全集第二巻』所収)筑摩書房
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2016年05月30日

力走56

力走 五十六

 山本伸一の激励は、高知研修道場を出発する間際まで続いた。ロビーでも、愛媛県の南予から来た婦人に声をかけ、南予訪問を約束し、悪僧の仕打ちに泣かされてきた同志へ、励ましの言葉を託した。
 研修道場の玄関を出た伸一は、雄大な景色を生命に刻みつけるように、しばらく周囲をゆっくりと歩いた。見送る同志に、大きく手を振って、車上の人となった。
 彼は、それから足摺岬へ向かった。そこでレストランや土産物店などを営む何人かの学会員を、励ましたかったのである。
 “同志がいるならば、どこまでも行こう!”と、心に決めていたのだ。
 車は、坂道を下って、国道を足摺岬に向かって進んだ。右手に青い大海原が広がっていた。土佐清水市の中心街を通って、足摺スカイラインを走り、足摺岬灯台の手前にある、学会員が経営するレストランを訪れた。このお宅は、座談会などの会場になっているという。そこに、多くの会員が集っていた。
 伸一は、皆と勤行したあと、外へ出て、一緒に焼きイカを頰張りながら語り合った。
 「ここは交通は不便かもしれませんが、空気もきれいで、美しく雄大な自然がある。そのなかで学会活動に励めるなんて、最高に幸せではないですか。私も住みたいぐらいです。
 自分のいる場所こそが、使命の舞台です。大都会の方がいいと思うこともあるかもしれないが、大都会は自然もないし、人間関係も希薄です。東京などに憧れて出ていった人たちが、懐かしく心に思い描くのは、結局、ふるさとの美しさ、温かさなんです。
 彼方に幸せを求めるのではなく、自分のいるこの場所を、すべての面で、最高の地に、常寂光土にしていってください。自分の一念を変えることによって、それができるのが仏法なんです」
 さらに伸一は、「私たちは、御本尊を通し、いつも心はつながることができます。皆さんの健康と、ご活躍を祈っています」と言って、皆に別れを告げた。
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2016年05月28日

力走55

力走 五十五

 山本伸一は、高齢の芝山太三郎の手を、ぎゅっと握ったまま語っていった。
 「お会いできてよかった。同志もいない山間の集落で、病弱な奥さんと共に、あなたは敢然と広宣流布に立ち上がった。苦労したでしょう。辛い思いもしたでしょう。何度も悔し涙を流したことでしょう。
 でも、歯を食いしばり、御本尊を抱きかかえるようにして、日蓮大聖人の仏法の正義を叫び抜いてきた。まさに、地涌の菩薩の使命を果たしてこられた大功労者です。
 口先で広宣流布を語ることはたやすい。大切なのは、実際に何をしてきたかです。
 日々、心を砕いて、身近な人びとに仏法を教え伝えていく――その地道な実践のなかに、世界広布もあるんです。
 私は、健気な庶民の王者であるあなたを、見守り続けていきます。毎日、題目を送ります。どうかあなたは、私に代わって、地域の同志を、集落のすべての人びとを守ってください。よろしくお願いします」
 芝山は、決意に燃えた目で大きく頷いた。
 それから伸一は、四国総合長の森川一正たちに視線を注ぎながら語った。
 「この方が、集落の広宣流布を決意して戦ってきたように、目標を決めて信心に励むことが大切なんです。自分の住んでいる集落でも、自治会の範囲でも、向こう三軒両隣でもよい。あるいは、親戚、一門でもいいでしょう。そこを必ず広宣流布しようと決めて、年ごとに、具体的な前進の目標を立てて挑戦していくことです。目標がなければ、どうしても惰性化していってしまいがちです」
 伸一は、後日、芝山に杖を贈った。
 その杖を彼は誇りとし、八十歳近くになってからも、杖を手に、こう言って弘教に飛び出していった。
 「今夜は、月が明るいけん。折伏に行かなあいかん。山本先生と約束しちょうけん。噓をついたらいかん」
 広宣流布の誓いに生き抜き、行動する人こそが、真の師弟であり、同志である。
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2016年05月27日

力走54

力走 五十四

 十二月九日、山本伸一は、三泊四日にわたる高知研修道場での指導を終えて、高知市に戻ることになっていた。伸一は、正午過ぎから、研修道場に集って来た、四、五十人ほどの人たちと勤行して、出発することにした。
 勤行が終わり、皆の方を向くと、「先生!」と声をかける人がいた。補聴器をつけた、高齢の男性であった。土佐清水市の中心部から二十数キロ離れた集落で、最初に入会した芝山太三郎である。その集落は、タヌキやウサギが生息する、山間にあった。
 彼の悩みは、妻が病弱なことであった。近くには病院もない。一九五八年(昭和三十三年)、“妻が元気になるなら”と信心を始めた。
 芝山は、学会の指導通りに弘教に歩いた。すると、周囲から「いよいよ、頭がおかしゅうなってしもうた!」と陰口をたたかれた。
 だが、彼は微動だにしなかった。芝山もまた「いごっそう」であった。こうと決めたら、どこまでも突き進んでいった。
 半年後、妻が健康を回復した。
 “この御本尊はすごい! どんな願いも、必ず叶えてくれる!”
 その確信が、ますます弘教の闘志を燃え上がらせていった。
 広宣流布の原動力とは、御本尊への絶対の確信であり、功徳から発する歓喜である。体験を通して、それを実感し、そして、大法弘通の使命を自覚することによって、広布の流れは起こってきたのだ。
 芝山は、この日、地域広布の伸展を伸一に報告しようと、妻と息子の三人で、勇んで研修道場に駆けつけてきたのである。彼は、あらん限りの力を振り絞るようにして語った。
 「先生。わが集落は、もう一歩です。入会二十年、半分ほどの人たちが学会員となりました。なんとしても広宣流布します! それまでは、わしゃ、死ねんと思いよります」
 「ありがとう!」
 伸一は、この男性のもとに歩み寄り、抱きかかえるようにして、手を握り締めた。
 「信念の勝利です。敬服いたします!」
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2016年05月26日

力走53

力走 五十三

 山本伸一は、研修道場で役員のメンバーと入浴し、皆でロビーに出た。すると、人目を忍ぶようにして、帰途に就こうとしている若い女性の姿が見えた。
 「あの方は?」
 伸一は、県長の島寺義憲に尋ねた。
 「地元の女子部の大ブロック長(後の地区リーダー)で金山智美さんといいます。研修道場の事務所を手伝ってくれております」
 実は、彼女は膠原病を患い、薬の副作用による肌荒れや目の充血があった。そのなかで裏方として、準備にあたってきたという。
 伸一は、金山に声をかけた。そして、「ありがとう!」と感謝を述べると、力を込めて励ましていった。
 「信心をしているのだから、必ず宿命転換はできます。絶対に病は治すと決めて、題目を唱え抜いていくんだよ。二百万遍、三百万遍と、真剣に祈り抜いていくんです。何よりも、“病になんか負けるものか!”という、強い一念をもつことです。いいですね」
 「はい……」
 緊張していたのか、か細い声であった。
 伸一は、諭すように言った。
 「小さな声だね。そんな弱々しい声では、病魔を打ち破っていくことはできないよ。はつらつと生命力をみなぎらせていくんです。“私は、必ず元気になってみせる! 断じて乗り越えてみせる!”という、師子の気迫が大事なんだ。もう一度、言ってみようね」
 「はい!」
 決意のこもった明るい声が帰ってきた。
 「そうだ! その意気だよ!
 私も題目を送ります。一人じゃないよ。すべての諸天善神が、あなたを守ってくれます。必ず元気になって、またお会いしよう」
 金山の頰に赤みが差し、瞳は誓いに輝いていた。伸一も愁眉を開いた。束の間の出会いであったが、彼女は奮い立った。
 その後、金山は、見事に病を乗り越えている。そして結婚し、家庭を築き、夫妻で土佐清水の広布に駆け巡ることになるのである。
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2016年05月25日

力走52

力走 五十二

 山本伸一は、愛媛県の南予から来たメンバーや、模擬店の役員とも記念撮影をした。
 その後、地元メンバーの勧めで、近くにある足摺海底館などを訪れた。
 夕刻、高知研修道場に戻った伸一は、地元の幡多地域本部の代表らと懇談した。
 さらに、研修道場の大浴場で、役員の男子部員らと一緒に入浴し、懇談を続けた。湯につかりながら、皆の仕事のこと、家庭生活のこと、学会活動のことなどを尋ねた。
 伸一は、幡多地域本部の面積が、ほぼ香川県と同じぐらいであることを聞くと、地域本部男子部長の宮西益男に語った。
 「広大な地域だね。山も多く、移動するにも時間がかかる。大都会である東京とは、皆の仕事や、生活のリズムなど、多くの面で異なっている。したがって、何から何まで、東京と同じことをする必要はありません。ここは、ここらしく、皆が楽しく活動していけるリズムをつくっていくことです。
 大事なことは、青年である君たちが、この地域の広布は自分たちの手で担おう、全責任をもとうと、決意していくことです。人を頼んではいけない。自分たちでやるのだと、心を決めるんです。勝負を決するのは二十一世紀だ。そこをめざして何を創るかです。
 青年が、今、広げた友情のスクラムが、そのまま未来の学会の広がりになる。頼むよ!」
 伸一から「何か要望は?」と尋ねられた宮西は、「事務の効率をよくするために、研修道場の事務所にコピー機を設置していただけないでしょうか」と答えた。コピー機がないために、行事日程や連絡事項など、ガリ版で作成し、配布していたのである。
 「私から、本部にお願いしてみます」
 伸一は、全面的に応援したかった。すぐに、東京から同行してきた幹部に、コピー設置の経費などを調べてもらった。
 そして伸一は、宮西に言った。
 「では、君を“コピー長”に任命します。コピー用紙一枚も、全部、学会員の浄財なんだから、大切に使うんだよ」
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2016年05月24日

力走51

力走 五十一

 天宮四郎・繁美は、夫妻で地域広布の草創の歴史を拓き、さらに、広布第二章の今も、支部長・婦人部長として、地域のため、社会のために力走を続けていたのである。
 天宮は、よく皆に、こう訴えてきた。
 「心のなかに迷いがあったら、本気で信心に取り組むことはできんし、力を出すこともできん。日蓮大聖人も、『一人の心なれども二つの心あれば其の心たが(違)いて成ずる事なし』(御書一四六三ページ)と言われちょう。
 要は、腹を決めることよ。潔い信心に立ってこそ、自分の最大の力が出るし、大きな功徳を受けることもできる」
 彼は、常に“潔い信心”を心に誓い、全力で活動に励んできたのである。
 山本伸一は、研修道場で天宮に言った。
 「あなたのように、必死になって戦い抜いてきた方が、今日の広宣流布の流れを開いてきたんです。『いごっそう、万歳!』です。
 私がお願いしたいのは、さらに大きな心で皆を包み込んでいただきたいということです。一徹な人は、ともすれば、人の意見を聞かず、自分の考えを人に押しつける傾向があるといわれています。しかし、広宣流布は、団結の力によってなされる。皆が心を合わせ、伸び伸びと前進していくには、リーダーの包容力、寛容さが必要なんです。
 また、あなたの強盛な信心を、お子さんたちにも伝えていってください。二十一世紀が、広宣流布の本当の勝負になります」
 天宮は決意を確認するように深く頷いた。
 伸一は、天宮を顕彰していくため、この広場の名称を、彼の名を冠したものにしてはどうかと、方面や県の幹部らに提案した。
 社会では、顕彰されるのは権力者や著名人がほとんどである。しかし、伸一は、黙々と人びとの幸福のために奮闘してきた、無名の民衆リーダーたちの名を、樹木や庭などの名称に冠することによって、末永く顕彰するように努めていた。そこにこそ、万人の平等を説く仏法の眼があり、民衆を王とする、真の民主があるからだ。
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2016年05月23日

力走50

力走 五十

 天宮四郎は、土佐の「いごっそう」を自負していた。ひとたび信心を始めたからには、徹しきってみようと腹を括った。学会の指導通りに朝晩の勤行を励行し、真剣に唱題を重ねた。苛立ちは失せ、酒を飲んで妻にあたることがなくなった。そして、腹部の痛みが消えた。健康は次第に回復していった。
 “すごいぞ! この信心は本物や!”
 その喜びが、夫妻を弘教へと駆り立てた。
 しかし、知人も、親戚も、皆、信心には、反対するのだ。学会を目の敵にする建設関係者も多く、仕事を回してもらえなくなった。やむなく、小さな河川の修復工事などをして食いつなぐありさまだった。
 しかし、信心によって、心身ともに窮地を脱し、こうして汗水たらして働けるようになったという体験が、彼らを支えた。
 天宮は、不思議でならなかった。
 “これまで、ほかの宗教には反対せんかった人が、創価学会いうたら、途端に血相を変えて、感情的になって非難し始める。ところが、いろいろ言うわりには、学会が、どんな教えかも全く知らん。入会したことがあるわけでもない。それやのに、とんでもないもんと、頭から決めてかかっちょう。学会の人が、正しい教えやからこそ皆に反対されると、語っていた通りだ”
 彼は、いよいよ確信を強くした。
 “俺は戦争で死ぬはずの人間やった。しかし、生き残って信心に巡りおうた。広宣流布のために生きちょうようなもんよ! 幡多の、大月町の広布に生涯をかけるんじゃ!”
 こう決意した彼は、地域で信頼を勝ち取るために、仕事にも誠実を尽くした。彼の手がけた仕事は、顧客の誰もが喜んでくれた。また、どんなに忙しかろうが、徹夜を重ねても納期を守った。天宮を見る周囲の目は、次第に信頼と尊敬の眼へと変わっていった。
 仏法即社会である。広宣流布のためという生き方の芯が確立されれば、社会生活への取り組み方や振る舞いも、おのずから変わっていく。信心の勝利は、生活の勝利となる。
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2016年05月21日

力走49

力走 四十九

 高知研修道場の広場では、勤行会参加者のために、タコ焼きや豚汁などの模擬店が開かれていた。山本伸一は、そこにも足を運び、茅葺きの東屋で、皆の様子を見守りながら、高知の県幹部らと懇談した。
 県長の島寺義憲が、研修道場の整備作業の中心となってきた壮年を紹介した。
 「天宮四郎さんです」
 伸一は、丁重にあいさつした。
 「多大なご尽力をいただき、大変にありがとうございます。四郎さんとおっしゃるんですね。いいお名前です。熱原の三烈士の神四郎を思わせます。昭和の神四郎となって、地域の同志を守り抜いてください」
 天宮は、瞳を輝かせて「はい!」と答え、伸一が差し出した手を握り締めた。小柄ではあるが、気骨を感じさせる壮年であった。
 彼は、研修道場のある土佐清水市の隣・幡多郡大月町で建築業を営んでいた。
 十四歳で大工の道に入った。やがて太平洋戦争が始まると、特攻隊を志願した。しかし、出撃となった時、乗り込んだ戦闘機のエンジンが不良のため、延期となった。同じことが三度も続いて、終戦を迎えた。
 戦後は、再び大工の修業を始め、やがて結婚。故郷の大月町で工務店を開いた。夢は大きく膨らみ、営業にも力を注いだ。
 努力の末に、仕事が軌道に乗ると、夜のつきあいも連日のようになり、酒量も増した。
 腹部に痛みを感じるようになった。それでも我慢しては、つきあい酒を重ねた。遂に、我慢も限界に達し、病院に駆け込んだ。腎臓病と診断された。“いよいよ、これから”という時である。描いていたバラ色の未来が、一転して暗黒に変わった。続く腹部の痛み、募る苛立ち……。それを忘れるために、さらに酒を飲んでは、妻の繁美にあたった。
 見かねた繁美の姉から入会を勧められ、藁にも縋る思いで、夫妻は信心を始めた。一九六二年(昭和三十七年)十月のことである。
 信心とは、人生のいかなる暗夜にも黎明をもたらす、希望の光源である。
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2016年05月20日

力走48

力走 四十八  

 この八日の勤行会でも、山本伸一は、あいさつのあとにピアノを演奏し、終了後には、参加者のバスを見送った。乗車を待つ同志の列の中に入り、声をかけ、さらに、乗車した人たちとも、窓越しに握手を交わした。
 同行の幹部らは、満足な休息もとらずに動き続ける伸一の体が、心配でならなかった。
 幹部の一人が、遠慮がちに、「少しはお休みになってください」と伝えたが、彼は、全力で激励を続けた。
 “激風の吹き荒れる今、私が同志を励まさずして、誰が励ますのか! 今しかないではないか! 励ます側にすれば、何百人対一人であっても、同志にとっては一対一なのだ。激励には、手抜きなどあってなるものか!”
 彼の心は、激しく燃え盛っていた。
 女子部の幹部が、「研修道場の庭で、女子部の有志が野点を行います。ぜひお越しください」と伝えてきた。すぐに向かった。
 庭の一角を紅白の幕で仕切り、畳を敷き、琴の音が流れるなか、着物姿の女子部員たちが茶を点ててくれた。眼前に、太平洋の青い海原が広がり、一艘の船が白い航跡を残して沖に向かっていた。
 「最高の景色だね。みんなが休めと言うものですから、ゆっくりさせていただきます」
 伸一は、婦人部の有志の手作りだという和菓子を口にし、茶を飲んだ。
 「お菓子も、お茶もおいしいね! 結構なお服加減です。皆さんの着物も、よくお似合いです。“かぐや姫”のようですよ。
 これから、日本は、ますます国際化していくでしょう。当然、語学を身につけることは大事ですが、同時に、お茶、お花、着物、お琴、日本舞踊など、『これが日本文化です』と紹介できるものを習得していくことも大切です。国際化というのは、無国籍化することではないんです。日本らしさ、さらには、高知らしさを守り、身につけていくことは、国際人の一つの要件です」
 結局は、激励に終始した。
 ここは、後年、「希望の庭」と命名された。
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2016年05月19日

力走47

力走 四十七

 山本伸一は、夕刻には高知研修道場周辺の視察に出かけ、足摺海洋館を訪問した。
 一九七〇年(昭和四十五年)に、日本で初めて海中公園(後の海域公園)に指定されたこの辺りは、海の透明度も高く、波や風に浸食されてきた砂岩や泥岩は、ユニークな形に姿を変え、地質の博物館ともいわれていた。
 足摺海洋館には、大きな水槽が設置され、土佐の海や黒潮のなかで生きる魚類などの生態を、観察することができた。
 研修道場に戻ると、ほどなく第二回の勤行会が始まろうとしていた。
 伸一は、四国長の久米川誠太郎に尋ねた。
 「今日一日で、何人ぐらいの同志にお会いすることになるかね」
 「だいたい二千人だと思います」
 「そうか。私の気持ちとしては、高知の全同志とお会いしたいんだ。来られる方は、一人でも多く参加できるように工夫してほしい。私と会員の皆さんの間には、壁なんかないんだ。また、絶対に、そんなものをつくってはいけないよ。権威、権力になってしまったら、既に日蓮大聖人の仏法ではないもの」
 伸一は、この勤行会でも、あいさつだけでなく、万歳三唱を提案したり、自らピアノを弾いたりするなどして、参加者の激励に心を砕き、力を注いだ。
 翌八日も、午後一時過ぎから勤行会が開かれた。これには、地元の高知県だけでなく、愛媛県からも南予の代表が参加した。
 ここでは、高知が指針の一つとしている、「水の信心」について言及していった。
 「水の流れるように信心を実践していくには、十年、二十年、三十年と、長期の視点に立ち、粘り強く精進を重ねていくことです。そして、生活を確立し、家庭を盤石にして、足もとを固めることが大事なんです。
 さらに、学会の組織、同志から離れないことです。また、信心の基本となる教学を、しっかり身につけていくんです。たとえば、御書全編を拝読する気概で、真剣に教学に取り組んでください」
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2016年05月18日

力走46

力走 四十六


 七日、高知研修道場の開所一周年を祝う第一回の記念勤行会が、午後一時から行われた。山本伸一は、御書を拝して、仏法は死の問題を解明した大哲理であることや、唱題の大切さを、大確信を込めて訴えた。
 終了後には、参加者をねぎらおうと、ピアノも弾いた。また、役員として運営にあたる男女青年部の代表らには、「立大」や「光友」等と揮毫した色紙を贈った。
 伸一が帰途に就く参加者のバスを見送り、何人かのメンバーと記念撮影していると、県長の島寺義憲が、ダブルの礼服に身を包んだ白髪の男性を紹介した。
 「黒山芳次さんです。研修道場の整備に尽力され、しだれ梅や椿、桜の木などを寄贈してくださいました」
 伸一は、黒山の手を握りしめて言った。
 「ありがとうございます」
 黒山は、目を潤ませて語った。
 「先生! ずっと、お会いしたいと願い続けておりました。嬉しいです」
 「私の方こそ、お会いできて嬉しい。今日は、奥さんはご一緒ではないのですか」
 「家におります」
 「奥さんも一緒に来られたらよかったのに。今度、お宅へ、御礼にお伺いします」
 「めっそうもない。わしの家は、イノシシ小屋のようなものですから」
 「でも、イノシシ小屋でも、御本尊様は、御安置してありますよね」
 「はい……」
 「それならば、お宅は常寂光土であり、大宮殿です」
 「そうですね」
 明るい笑いが広がった。
 黒山が寄贈してくれた樹木の植えられた場所は彼の名を冠し、「黒山庭園」と名づけられた。翌年、伸一は、自著『忘れ得ぬ出会い』が発刊されると、句を書いて贈った。
 「いのししの 小屋を忘れじ 不二の旅」
 同志の心遣いに、最大の真心で応えるなかに、創価の魂の連帯が築かれてきたのだ。
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2016年05月17日

力走45

力走 四十五

 十二月七日、山本伸一は、高知研修道場で黎明の海を見た。静寂のなか、暁闇を破って光が走り、太平洋にのびる足摺半島の稜線が浮かび上がる。海原には、無数の金波が躍り、赫々たる太陽が昇る。足摺の日の出は、大自然の荘厳なるドラマであった。
 後に伸一は、この時の感動を詩に詠んだ。
  
 転瞬――
 満を持したる 光彩の爆発だ
 無数の黄金の矢を放ちつつ
 無限のエネルギーをはらみつつ
 火球の躍り出ずるかのように
 日輪は
 みるみる 大海を
 金と銀の色に染めたり
 なべての大空間を
 燃えるがごとき光沢で
 宝石と 飾りぬ
  
 おお
 大自然の壮大なる演出
 いかに 人工の巧みを尽くそうとも
 とうてい比肩しえぬ
 大いなる バイタリティーのドラマ
 高知研修道場より望見せし
 かの足摺の日の出が
 私は 私は大好きだ
 日本一の
 “午前八時の太陽”だ
  
 伸一は、昇りゆく足摺の旭日が、広宣流布の天空に躍り出た創価学会の姿を、象徴しているように感じられてならなかった。
 学会に偏見をいだき、その実像を見ようとしない人びとから、そして、信徒支配をもくろむ宗門の僧から、学会は、どれほど攻撃を受けたことか。しかし、われらは威風も堂々と、今日も、わが使命の軌道を悠然と進む。
 哲人セネカは言う。
 「空も暗くなるほど放った矢が一本でも太陽を射止めただろうか」(注)

 小説『新・人間革命』の引用文献
 注 セネカ著『わが死生観』草柳大蔵訳、三笠書房
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2016年05月14日

力走43

力走 四十三

 高知研修道場では、地元の幹部らが山本伸一たちの到着を待っていた。
 “こんな遠くまで、本当に山本先生が来てくださるのだろうか……”
 彼らは、伸一が中村駅から車に乗り、研修道場へ向かったという連絡を受けても、まだ、信じられない思いがするのだ。
 研修道場がある土佐清水市をはじめとする幡多地域でも、多くの会員が宗門僧の非道な仕打ちに耐えてきた。そのなかで同志たちは、伸一の研修道場訪問を目標に、互いに励まし合いながら進んできたのである。
 午後七時を回ったころ、ヘッドライトの光が走り、数台の車が研修道場に到着した。
 「いやー、さすがに遠いね。とうとう来ましたよ。お世話になります!」
 伸一の声が響いた。
 「先生! ありがとうございます……」
 「もう、大丈夫だよ。私が来たんだから、安心してください。一緒に、新しい出発をしようよ」
 その言葉を聞くと、地元幹部は、喜びに胸が熱くなり、言葉が途切れた。
 玄関の横には、ピンク色の花を咲かせた山茶花の木々が植えられていた。伸一は、その木を見ると、こう提案した。
 「きれいに咲いているね。庭の手入れをしてくださっている方の真心が胸に染みます。ここを『山茶花庭園』としてはどうですか。
 また、せっかく木を植えたんだから、高齢の功労者から十人を選んで、その方々の名前を、それぞれの木につけませんか。そして、木の横に名前を書いて、功労を讃えていくんです。悔し涙をこらえながら、懸命に広布の道を開いてこられた勇者たちだもの」
 それから、森川一正や島寺義憲ら四国、高知の幹部に言った。
 「幹部は、励ましに徹することです。
 どうすれば、広宣流布のために苦労し、頑張ってこられた方々が喜んでくださるのか。その功労に報いることができるのか――と、常に考え続けていくんです」
posted by ハジャケン at 09:10| 山梨 ☀| 新・人間革命 29-2力走 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする