2011年11月13日

随筆 新・人間革命 355  「創立の月」と学会精神」

随筆 新・人間革命 355  「創立の月」と学会精神」


わが使命は勝利! 大東京
自身の偉大なる歴史を綴れ!


 「革命とは、人間の覚醒である」とは、中国革命の父・孫文の有名な言葉である。
 彼は言い切った。
 「人びとが、自分を救えるものは自分しかいないと自覚して立ち上がれば、大きな力が生まれる。
 この目覚めた人民の大きな力があれば、いかに巨大な抵抗勢力があっても、打ち破り、勝つことができる」と。

 十一月は、わが創価学会の「創立の月」である。
 昭和五年の十一月十八日、牧口初代会長、戸田第二代会長の師弟によって、わが創価の城は、東京で誕生したのであった。
 「創立の月」とは新しい歴史を"創る月"である。
 正義の獅子が猛然と"一人立つ月"でもある。
 単なる過去を回顧する節目ではない。「創立の月」は、古い年表の中に眠っているものでは決してない。
 広宣流布とは、瞬時の停滞も許されぬ、絶えざる創造と、戦闘の前進の歩みである。
 「創立の月」は、常に「今この時」にある。今の瞬間、瞬間を勝ち取ってこそ、次の五十年、百年にわたって、崩れぬ、常勝の学会が「創立」されていくからだ!
 この十一月に、自分自身の新しい歴史を塗り替えていくのだ! 古い殻を破り、生まれ変わる月だ! 限界の壁を叩き割り、雄々しく一人立ち上がる月なのだ!
   ◇
 約百年前、今の「文化の日」である十一月三日に、牧口先生が東京・北区の王子・滝野川方面に足を運ばれていたことが、新たに確認された。
 北海道から東京に出られて数年、女性の通信教育に先駆的に尽力された牧口先生は、「観楓会」と銘打ち、受講生たちと共に有意義な文化の催しを行なわれたのであった。
 ともあれ、「創立の月」である十一月は、本陣・大東京を舞台に、黄金不滅の学会精神の歴史が、幾重にも刻まれている。
 特に昭和三十二年の十一月八日、我らが東京で開催した秋季総会を、私は忘れることはできない。
 当時、学会は破竹の勢いで発展を続け、戸田先生が生涯の願業とされた折伏七十五万世帯の達成も、もはや目前となっていた。
 会場は、明るい秋の日差しに包まれていたが、戸田先生の顔色は青く見えた。ひどくお疲れのご様子だった。
 この日の総会には、新聞や雑誌などの取材陣が殺到していた。既に学会は、社会から、偏見に満ちた視線に晒されていたのである。
 しかし、わが師は、いつものように、悠然として、会長講演に立った。
 先生は、学会の大発展の理由について、あれこれ詮索した、軽薄なマスコミ報道を、一刀両断された。
 「学会には信心がある。ご本尊の功徳から、みな出たものじゃないか。それに気がつかないのだ!」
 「ただ信心が中心!信心をやるんです。それさえ腹に入れたら、誰が何と書こうと、何を言おうと、驚くことなどは絶対にないだろう!」
 まさに、百獣のわめき声のごとき批判を圧倒する、王者の獅子吼であられた。
 「嘘をこっぱみじんに打ち砕け!」と、文豪ロマン・ロランは書いた。
 世間からどう見られようが、恐れてはならない。踊らされてはならない。学会には厳然たる信心があるのだ!
 それは、ここ本陣の大東京から、全同志に叫び残された戸田先生の遺言であった。
 この日が、わが師が生前に出席された、最後の本部総会となったからである。
   ◇
 戸田先生は、一日に幾度となく、私を呼ばれて、暇さえあれば、信心のこと、人生のこと、将来の構想のことなど、様々な展望を語り、遺言されていた。
 不二の弟子にとって、師と共に、広宣流布の未来を語るひと時は、最高無上の幸福であった。語っても語っても、尽きることがなかった。
 しかし、先生は、この昭和三十二年の秋ごろから、学会本部におられる時も、二階の会長室には行かずに、一階の応接室のソファで身を横たえていることが多くなった。
 私は、衰えゆく師の身体に苦悩しながら、ご健康を懸命に祈りながら、師弟の対話の時間を宝としていった。
 本部総会から、一週間後の十一月十五日のことである。私は応接室で、種々ご指導をいただいた。
 師の目が鋭く光った。
 「ひとたび広宣流布の戦を起こしたならば、断じて勝たねばならない。戦いを起こして負けるのは、男として最大の恥である」
 その一言は、今もって耳朶を離れない。
   ◇
 戦いを起こした以上、負けるわけにはいかない。
 前進を阻もうとする、いかなる迫害も、謀略も、いっさい打ち破って、堂々と、勝ち進む以外にないのだ。
 昭和五十四年、あの卑劣な宗門問題の渦中に、私は会長を辞任した。しかし、役職を辞めても、広宣流布の使命が終わるはずはない。
 わが師の遺言を思い起こしながら、「断じて勝ってみせる!」と、ただ一人、堅固に、胸深く誓っていた。
 いよいよ好機到来し、私が"反転攻勢"への跳躍台としたのは、やはり東京の天地であった。そして、その決起の月は、意義も深き「創立の月」であったのだ。
 昭和五十六年の十一月二日、創価大学の中央体育館には、わが立川と西多摩の同志が集っておられた。
 その二日前、創大生に対して、「歴史と人物を考察――迫害と人生」と題して講演した私の胸には、正義の闘魂が燃え盛っていた。
 嫉妬や讒言による迫害がなんだ!卑劣な権力の迫害がなんだ!
 中国の大歴史家・司馬遷を見よ!インド独立の父ガンジーを見よ!フランスの文豪ユゴーを見よ!みな迫害、迫害、迫害だ。
 いわんや、仏法流布の正義ゆえの迫害である。これ以上の誉れがあろうか。
 私は決断した。
 この十一月、新しい太陽を断じて昇らせてみせると、わが心は炎の如く燃え上がるのであった。立川と西多摩の総会に駆けつけた私は、「仏法は勝負である」と指導したあと、扇を手に立ち上がった。
 同志の要望に応え、新出発の歌の指揮をとった。「嗚呼黎明は近づけり」(大阪高等学校全寮歌)である。

 ♪嗚呼黎明は 近づけり
  嗚呼黎明は 近づけり
  起てよ我が友
      自由の子……
      (作詞・沼間昌教)

 声高らかな歌が始まると、皆の胸の思いが一つにとけ合って、大会場に巨大な感情がうねり始めた。皆の顔に決意がみなぎっていた。断固として戦う決意であった。
 私は嬉しかった。本当に嬉しかった。私が再び広宣流布の雄渾の指揮をとる日を待っていてくれたのだ。
 「尊敬によってつくられた友情が真実で 完全で 永続的である」とは、迫害の人生を生きた、イタリアの詩聖ダンテの確信であった。
 さあ、新しい黎明の時だ。ここ数年の暗闇を打ち破り、新しい学会を、今再び創立する時が来たのだ!
 私は、東京の大地を勢いよく蹴って、関西、そして四国へと飛んだ。
 さらに、再び関西へ、中部へと「創立の月」を走り、翌十ニ月には、猛然と九州へ転戦していったのである。
   ◇
 日蓮大聖人が広宣流布の主戦場とされたのは、当時の日本の中心地・鎌倉であった。
 幕府の膝元である。今なら首都・東京に相当する。
 政権の中枢である鎌倉は、当時、決して安全地帯ではなかった。むしろ危険に満ちた場所でさえあった。讒言が飛び交い、陰謀が練られ、敵の監視の目も光っていた。
 しかし、それでも、いな、だからこそ、大聖人は、鎌倉を舞台として、宗教の正邪を決する言論戦を展開されたのである。
 ここにこそ、広宣流布の勝負の厳しき急所がある。
 わが学会も、最も激戦地に乗り込み、そこで勝ち抜くことだ。
 その時代の中心的天地で、厳然たる正義の陣営を構築し、勝負を決することだ。
 この事実の法則を、東京は決して忘れてはならない。
 東京が勝てば、それは皆の勝利だ! 私の勝利だ!
 ゆえに東京は断じて勝たねばならない。勝つことが東京の使命であり、宿命であり、責任なのだ。
 さあ、我らの本陣・大東京の友よ! 断固として戦い、勝ち抜け! 自身の偉大なる歴史を綴れ!


  (2003年11月4日 聖教新聞掲載)
posted by ハジャケン at 11:33| 山梨 | 随筆 人間革命・桜の城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

随筆 新・人間革命 300 不屈の人間・壮年部

随筆 新・人間革命 300
不屈の人間・壮年部
  「信心即社会」の闘将に栄光あれ!
我が胸に人生勝利の大勲章を
                 法 悟空

 私に偉大なる哲学と思想がある限り、いかなる苦痛があっても、乗り越えることができる。
 その苦痛を大きな喜びに変えていくことが、人生の究極の魂の劇であるからだ。
 そこに、仏法の必要性が存在する。
 私の精神の富み栄えゆく、この松明を、私は、わが盟友に、そして、わが子孫に贈りたいのだ。
 いかなる騒々しい人生の葛藤(かっとう)があっても、見栄と嫉妬に狂った迫害があっても、血みどろになっても、私は誇り高く、絶対に勝利してみせる。
 同志(とも)よ、わが同志よ!
 いかなる卑劣な艱難(かんなん)に陥(おとしい)れられても、満身にいかなる矢
を受けても、断じて負けるな! いかに鞭で生気を打ち破る、卑劣にして卑怯な迫害があっても、断じて誇り高く、栄光の人生を朗らかに歩むのだ。
     ◇
「一行も書かざる日なし」
 とは、古代ローマの文人プリニウスの箴言(しんげん)である。
 お陰さまで、この随筆も、五年間で三百回の連載を数えることとなった。
 三百回目の随筆は、わが親愛なる「広布の黄金柱」である壮年部の同志に捧げたいと思い、綴った。
 人生はまことに多事多難である。何が起こるかわからない。
 仕事にあっては、試練また試練。リストラ、転職、失業、倒産の苦難もある。家庭や地域にあっても、病気、子どもの問題、人間関係・・・次から次に課題は押し寄せる。
 なかんずく、深刻な不況の波が、依然として日本経済を覆(おお)うなか、個人も、企業も、あらゆる団体も、生き残りをかけて必死である。
 私も壮年部の一員である。
男同士、普段は口には出さずとも、わが戦友である皆様のご苦労は、よくわかっているつもりだ。
 思えば、戦後、私が戸田先生の下で働き始めた時代も、
占領下の経済政策の激動期にあたり、容赦のない弱肉強食の嵐が吹き荒れた。
先生の卓越した手腕をもってしても、事業の破綻(はたん)という
危難(きなん)にさらされた。
 いつもは悠然たる師が、
朝、目覚めると、布団に等身大の寝汗の跡が残るほど、苦悩し抜かれていた。若い私は、師に仕え、お守りしようと一心不乱に走り回った。
 戸田先生が、最悪の窮地を乗り越えて、烈日(れつじつ)のごとく第二代会長に就任されたのは、五十一歳の時であった。
 壮年の「壮」は「盛(さか)ん」という意味である。″いよいよこれからだ!″ーーこれこそ壮年の心意気だ。
     ◇
 「失望に身をまかせれば、自分こそが最悪の敵になる」
 これは、私が何度もお会いした、アメリカの実業家アーマンド・ハマー博士の座右の銘である。
 ″それはできない”と言う人がいると、常に博士はこう応じられたという。″できないなんて言わないでほしい。どうしたら、それができるようになるか知りたいんだ″
 博士は、絶対に締めぬ挑戦心の火の玉であった。
 十年余り前、博士は、わが創価大学での講演でも、九十二年の波乱万丈の生涯を振り返って言われた。
 「初志を貫き通すならば、一人の人間が状況を変えることができる」
     ◇
 壮年部の先達ともいうべき四条金吾が、主君から″法華経を捨てよ″と責められ、所領を没収される危機にあった時、日蓮大聖人は、烈々たる気迫で指導された。
 ーーもし、あなたが倒れたならば、敵はそれに乗じて、鎌倉の同志を皆、退転させてしまうだろう、と。
 負けるな! 柱は、絶対に
倒れてはならないのだ!
 「一生はゆめ(夢)の上・明日をご(期)せず・いかなる乞食(こつじき)には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず」(御書一一六三頁)
 彼は勇敢に戦い抜いた。信心の究極は「人の振舞」なりと誠実を貫き、あらん限りの知恵を働かせた。身を慎(つつし)み、周囲に細かい注意と配慮を怠(おこた)らなかった。
 そして、苦難を耐え抜き、蓮祖の指南通りに「法華宗の四条金吾・四条金吾」と、人びとに讃えられる勝利者となっていったのだ。
 「仏法は勝負」である。
 壮年部は、一家の柱、社会の柱、そして広宣流布の偉大なる黄金柱だ。
 皆様が厳然としているからこそ、婦人部も男女青年部も、安心して戦える。
 古代ギリシャの詩人ソフォクレスは誇らしく謳った。
 「男のもっとも尊い仕事は、もっているすべてを、力のすべてをつくして、人を助けるにあるのだ」
       (高津春繋訳)
     ◇
 君の胸には、永遠なる無上最極(さいごく)の勲章が光っている。
 君は勝ったのだ。
 君は負けなかったのだ。
 崇高なる人生は実しい。
 その美の真実に生きる人は勝者である。美の真実とは、「一念三千」の生命の「一念」である。魂である。心である。
 人生には多くの迷路がある。しかし、わが友よ、高貴なあの誓いの目的を渇望しながら、決して横道に迷うな!
 失望の人生の多き現実社会。悲惨な破滅を招きながら、苦しむ社会。
 閉じた心を、さらに閉ざし、苦しく、もがきゆく人生。
自分の愚かさに悔いの涙を流しながら、墳墓(ふんぼ)に行く侘(わび)しき人生。あの卑劣な虚栄家たち
は、死を前にして懺悔の瞼(まぶた)を閉じようとしている。
 長い命だ。
 いや、短い生命だ。
 君よ、太陽の光を浴びて、
勝利の盃(はい)をあげよ!
 あの流星の光を見つめながら、栄光の盃をあげよ!
 そして高く高く、静かに力強く、月光を仰ぎながら、人生の燃える喜びを持ちながら、あの誓いの歌を歌うのだ。
 我らには悲しみもない。敗北もない。涙などは御免だ。
 戦いには、断じて勝つのだ。愚か者や卑劣な者、反逆者は、寄せ付けるな!
 慈愛に輝く眼差しを持って、わが家族に、わが同志に、明るい笑顔で、声も快(こころよ)く、励まし、生き抜いていくのだ。
 君と会うと、私は愉快だ。
君と歩むと、栄誉ある道を歩める。
     ◇
 あの嫉妬に狂う騒動など、確かな使命に生き抜く我らには問題外だ。
 あの人は、今は熱狂的な喝采(かっさい)を浴びている。
 あの人は、多くのマスコミに飾り立てられ、そしてあの人は、巧みに宝石を喰らうが如きエゴの虜になっている浅ましき姿よ。
 そして、また、哀れにも、あの彼は、絶壁の彼方に突進している。
 あの名声と虚栄の華やかな旗が、ポロポロになっていくのが見える。名声は幸福でない。真の勝利でもない。
 噂話をつくって、人を陥れようとしても、自らが嘲(あざけ)られる人間となって、愚劣な人生を終わるだけだ。
 我らは、生命の不滅の大道を正々堂々と歩む。そして、自身の夢と自身の魂を壮大なる楽園とさせながら、来る日も来る日も、若々しく、意義深く、悠然と歩みゆくのだ。
 その道には、花が咲き、花が香る。月桂樹の微風(そよかぜ)に、生き
る喜びを噛みしめながら、光華(こうか)な人生の一日を送るのだ。
 君よ、大胆に大きな翼で正義の剣を抜いて、戦い勝ちたまえ!
 人生は戦いだ。正義は勝たねばならないのだ。
 君よ、平坦な道を平凡に歩き終わらせるな!
 両拳(りょうけん)を握りしめ、また君の両腕を高らかに上げながら、汝自身の自由と栄光のために戦うのだ。
 偽善や仮面の人間になるな!
 灰色の老いたる悔恨の人生を送るな!
 勇敢に正義のために、奮い戦い生き抜くのだ。
 いかなる嵐にも、怒涛(どとう)にも、生涯にわたって、断じて挑(いど)み勝ち抜くのだ。
 人間の皇帝としての誇りと喜びと正義の光が呟(まばゆ)い、崩れざる決意の魂を持つ君よ!
 いかなる勝負にも、勝利を決めゆく汝自身の天の仕事として、歴史を残せ!
 君よ、敗北と悲劇の道をつくるな! 幸福と勝利の大道を築きゆくのだ。
     ◇
 おお君よ! 君は観る。
 永遠にして確実な太陽が昇りゆくが如く、広宣の法が世界に広がりゆくことを。
 永遠を確実に勝利させゆくこの大道の法則は、君の命に巨大に築かれているのだ。
 我らの前途には、不安もない。敗北もない。後退もない。終点もない。
 あるのは、正義と自由と、
黄金の民衆の歓声である。
 悔いもなく、怒りもない、
永遠の喜びの曲が、聞こえてくるのだ。
 我らは勝ったのだ。いな我らは勝たねばならないのだ。
永遠に勝ち進むのだ。
 冷たい笑いを浴びて、大声で悲しみ泣いたあの悪夢の時代とは、永遠に別れたのだ。
 春の微風が君を包む。あの不減の勲章である星が、君をみつめる。
 君の戦い、勝ち抜いた真面目な精神は、強烈な感動の生命となって、永遠に光り輝き生き続けていくのだ。
 君の勝利は、血の栄誉ではない。人間の卑しい葛藤の断末魔の栄誉でもない。傲慢な権力による、虚飾の栄誉でもない。
 正義のために勝ち取った、一切の努力の結晶の上の勝利なのだ。生命の城壁は、永遠に崩れない。
 いかなる褒賞よりも、いかなる勲章よりも、多宝という無量無辺の宝を持ちたる生命ほど、幸福王者はいないのだ。
 わが友よ、ロシアの哲学者ベルジャーエフが「人間革命」を志向(しこう)した、あの一節を忘れないでくれたまえ!
 「精神の真の革命こそ私の本来の関心事である」
 「私の精神は年をとらない。私の精神はいつまでも若い」
   (志波一富・重原淳郎訳)


  二〇〇二年十二月二十四日
posted by ハジャケン at 11:14| 山梨 ☀| 随筆 人間革命・桜の城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月10日

随筆 人間革命「日に日に新たに」第三の青春を勇猛精進で

随筆 人間革命  
「日に日に新たに」

  ―― ”第三の青春”を勇猛精進で ――

 新しき年。偉大な境涯の旭日は昇る。
 正月二日――。
 東京牧口記念会館にて、敬愛するわが友と、「民衆勝利の年」の出発。
 この日は、私の七十歳の誕生日。個人的なことながら、世界の同志が祝福してくださった。申し訳なく、また嬉しい。
 小説『新・人間革命』第一巻の単行本も、この日付で発刊。少しでも皆の励みになればと願う。
 出版の労をとられた関係者の方々、そして、読者の皆様に心から感謝。

 かつて、三十歳の誕生日を約一ヶ月後に控えた、懐かしき日記に、私は、こう記していた。
 「先生と共に戦い、進み、生きぬくこと以外に、私の人生はない。師ありて、われあるを知る」
 病弱のため、医師から、三十歳まで生きられないだろうと言われたわが生命
 戸田先生はそんな私を誰よりも心配され、厳愛の指導を続けてくださった。
 激しき法戦の明け暮れ。病に苦しみ、疲労困憊した私に、先生は言われた。
 「三障四魔との戦いだ。泣いて、御本尊にぶつかれ。そして、すべてを打開せよ」
 「いつ臨終になっても、悠然と、従容たる人生であれ、信心であれ」
 生命を貫く、厳父の声。
 また、ある時は、「私の命をやろう!生きぬけ、私に代わって、断じて生き抜け!」とも。

 師に生命を吹き込まれ、病魔の宿命に打ち勝ち、迎える三十歳。その感慨を胸に、十年ごとの人生の来し方と未来の指標を、日記につづっている。

 十歳まで ・・・・ 平凡な漁師(海苔製造業)の少年時代
 二十歳まで ・・・・ 自我の目覚め、病魔との闘い
 三十歳まで ・・・・ 仏法の研鑽と実践。病魔の打破への闘い
 四十歳まで ・・・・ 教学の完成と実践の完成
 五十歳まで ・・・・ 社会への宣言
 六十歳 ・・・・ 日本の広布の基盤完成

 しかし、日記には、六十歳から先のことは、触れていない。それ以上、生きぬけるとは、とうてい、考えられなかったからである。
 私が体調を崩し、検査入院したのも、恩師の逝去の年齢五十八歳が、目前の晩秋であった。

 先生がご存命ならば、間もなく九十八歳。先生の命を分けていただいての、わが「更賜寿命」の七十星霜なりと、しみじみ思う。
 かのユゴーは、七十歳で小説『九十三年』の制作に着手。またトルストイは、七十歳の頃、名作『復活』の執筆に没頭した。
 牧口先生は、七十歳になられてすぐ、機関紙『価値創造』を創刊。新しき言論戦の火蓋を切られた。
 法悟空も、『新・人間革命』第八巻の執筆に余念がない。間もなく、連載も再開となる。
 ここに、六十歳以降の、わが人生の歩みと推測を記せば、たとえば、次の如くなる哉。

 七十歳まで ・・・・ 新しき人間主義の哲理を確立
 八十歳まで ・・・・ 世界広布の基盤完成なる哉

 このあとは、妙法に説く不老不死のままに、永遠に広宣流布の指揮をとることを決意する。

 ゲーテは、七十余歳の詩にうたった。
 「『教えてほしい いつまでもあなたが若い秘密を』
  なんでもないことさ
  つねに大いなるものに喜びを感じることだ」(「不老長寿の薬」内藤道雄訳)
 わが生涯は、広宣流布への大いなる旅路。
 眼前には、二十一世紀の希望の山並み。
 ”第三の人生”とは、”第三の青春”の異名である。
 「日に日に新たに、また日に新たなり」(『大学』)
 この一年も、勇猛精進の日々をと、断固と誓う。

1998年1月4日(日)掲載

posted by ハジャケン at 15:12| 山梨 ☁| 随筆 人間革命・桜の城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月03日

随筆 新・人間革命80 ―獅子となりて 我は一人征く―

随筆/新・人間革命/80/法悟空/

昭和54年5月3日

――獅子となりて 我は一人征く――
 

その日は、雲一つない”五月晴れ”であった。
武蔵野の丘は、生命と青春を飾りゆくように、ツツジの花に包まれていた。
その花々の彼方は、大きな真実の沈黙を漂わせた、新緑に輝いていた。
妻が、まぶしそうに言った。
「まるで、十九年前と同じ天気ですね……」


たしかに一九六〇年(昭和三十五年)、私が第三代会長に就任した日も、快晴であった。
その日の夜、大田区の小さな貧しい家で、二人して夜空を仰ぎ、「あの星は、ホタルが輝いているように見える」と語り合ったことを思い出す。
この十九年間、絶望の闇を切り開き、無限の平和の大帝国を建設するために、わが死闘は続いた。



一九七九年、すなわち昭和五十四年の五月三日――。
間もなく、創価大学の体育館で、”七つの鐘”の総仕上げを記念する、第四十回の本部総会が行われることになっていた。
本来ならば、その日は、私は、偉大なる広宣流布のメッセージを携えて、創価の栄光を祝賀する日であった。
すべての同志が熱意に燃えて、楽しき次の目標をもち、至高の光を胸に抱きながら迎えゆく、歓喜の日であった。
尊い広布の英雄たちが微笑をたたえ、共々に、珠玉の杯を交わしながら祝うべき日であり、大勝利の鐘を自由に打ち鳴らす日であった。

しかし、嫉妬に狂った宗門をはじめ、邪悪な退転者等の闇の阿修羅が、この祝賀の集いを奪い去っていったのである。



午後二時から始まる総会の開会前であった。
妬みと滅びゆく瞋恚の魂をもった坊主を乗せたバスが、大学に到着すると、私は、ドアの前に立ち、礼儀を尽くして、彼らに挨拶した。
ところが、坊主たちは、挨拶一つ、会釈一つ返すわけでもなく、冷酷な無表情で、傲然と通り過ぎていった。
学会伝統の総会も、いつものように、学会らしい弾けるような喜びも、勢いもなく、宗門の”衣の権威”の監視下、管理下に置かれたような、異様な雰囲気であった。
 ある幹部が後で言っていた。
 「冷たい墓石の上に座らされたような会合であった」
 激怒した声が多々あった。

会場からの私への拍手も、遠慮がちであった。
また、登壇した最高幹部は、ほんの数日前の会合まで、私を普通に「池田先生」と言っていたのが、宗門を恐れてか、ただの一言も口にできない。
私をどうこうではない。
それは、強き三世の絆で結ばれた、会員同志の心への裏切りであった。
婦人部の方が怒っていた。
「どうして、堂々と、『今日の広宣流布の大発展は、池田先生のおかげです』と言えないのでしょうか!」と。
私が退場する時も、戸惑いがちの拍手。
「宗門がうるさいから、今日は、あまり拍手をするな。特に、先生の時は、拍手は絶対にするな」と、ある青年部の最高幹部が言っていたと、私は耳にした。
恐ろしき宗門の魔性に毒されてしまったのである。言うなれば、修羅に怯えた臆病者になってしまったのである。

しかし、私を見つめる同志の目は真剣であった。声に出して叫びたい思いさえ、抑えに抑えた心が、痛いほど感じられた。
体育館を出た直後、渡り廊下を歩いている私のもとに駆け寄って来られた、けなげな婦人部の皆様との出会いは、今も、私の胸に深く、くい込んで離れない。



会合が終わり、特別の控室にいた高僧や坊主どもに、丁重に挨拶をしたが、フンとした態度であった。これが人間かという、そのぶざまな姿は、一生、自分自身の生命に厳存する閻魔法王に、断罪されることは、絶対に間違いないだろう。
仏法は、厳しき「因果の理法」であるからだ。
私は思った。
宗門と結託した、学会攪乱の悪辣なペテン師たちは、これで大成功したと思い上がったにちがいない。彼らは、「これで、計画は着々と準備通りに進んでいる。これでよし!これで完全勝利だ」と計算し、胸を張っていた。
その陰湿さと傲慢さが、私には、よく見えていた。
私は、ずる賢き仮装の連中の実像を、その行動から見破ることができた。

この陰険極まる、狡猾な連中には、断固として、従ってはならない。いかなる弾圧を受けようが、「忍耐即信心」である。
学会は、蓮祖の仰せ通りの信仰をしている。死身弘法の実践である。柔和な忍辱の衣を着るべきである。
学会に敵対する彼らは、蓮祖の姿を借りて、真実の仏の使いを道具にし、利用し、破壊しているのである。
これが、恐ろしき魔性の荒れ狂った、現実の実態であった。
あまりにも悲しく、あまりにも情けなかった。
本来、宗教は、人間の幸福のためにあるものだ。
それが、坊主の奴隷になり、権威の象徴の寺院・仏閣の下僕になってしまうことは、根本的に間違いである。



私は、重荷を、また一層、背負った気持ちで、皆と別れ、自宅には帰らず、神奈川文化会館に走った。

 「今朝の新聞に、先生のお名前が出ていました」
神奈川文化会館で、側近の幹部が教えてくれた。
この三日付の読売新聞には、日米国民の「生活意識」調査の結果が掲載されていた。
その中に、日本人が「尊敬する人物」に挙げた上位二十人の第六位に、私の名前が出ているというのであった。

上から、吉田茂、野口英世、二宮尊徳、福沢諭吉、そして、昭和天皇と続き、その次が私である。
「会長勇退」直後の五月三日に、このような記事が出たことに、私は不思議なものを感じた。
また、同志の皆様が、懸命に私を応援してくださっているようにも思われた。

数日後、ある識者の方からいただいたお手紙は、この調査のことを非常に驚かれ、こう結んであった。
 「現存する人物では、民間人の第一位です。
そして、日本の宗教界では、貴方、お一人だけです。まさに宗教界の王者です。どんなに、戸田会長がお喜びになるでしょうか!」



「大事には小瑞なし、大悪を(起)これば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし」(御書1300p)とは、日蓮大聖人の絶対の御確信であられる。
誰が何と言おうが、私は私の信念で勝つことを決心した。
そして、ただ一人、今まで以上の多次元の構想をもちながら、戦闘を開始した。
「獅子は伴侶を求めず」とは、よく戸田先生が、私に言われた言葉である。
一人、孤独になった私は、無言のうちに、必ずや、真実の伴侶はついてくるであろうと信じていた。
師弟の両者が一つの姿で、無限に戦い、舞い、走り、勝利しゆく。私は、その新しき時代の、新しき伴侶を待っていた。
神奈川の地は、世界に通じる港である。
ここから、私は「一閻浮提広宣流布」との大聖人の御遺言を遂行する、決意を新たにした。そして、「正義」という二字を書き記した。
この意義を深く留めて後世に伝えてほしいと、側にいた数人の弟子に託した。
 五月五日のことである。



いったん帰京した私は、東京の開拓の新天地、第二東京の拠点の立川文化会館に向かった。
すでに、夕方近かった。
別な世界を見る思いで、まさに沈みゆかんとする夕日の光景を、しばし呼吸した。
夕暮れの立川に着くと、その清楚な頬に頬ずりしたいような、憧れの月天子が、顔を見せてくれた。
私は一詩を詠んだ。

 西に 満々たる夕日
 東に 満月 煌々たり
 天空は 薄暮 爽やか
 この一瞬の静寂
 元初の生命の一幅の絵画
 我が境涯も又
 自在無礙(むげ)に相似たり

この日、五月十一日の日記に記したものである。
世界の創価学会は、太陽と同じく、太陽の生命で、永遠に転教を休むことなく、進みゆくことであろう!
また、断固、勝っていくことであろう!

1999年5月1日(土)掲載
posted by ハジャケン at 18:30| 🌁| 随筆 人間革命・桜の城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月07日

崇高なる信心の継承

随筆 人間世紀の光 No.210  (2009.11.6付 聖教新聞)
(一部抜粋)

崇高なる信心の継承

青年を伸ばせ 青年が立ち上がれ
わが多宝会よ! 堂々と仏法証明の勝鬨を

若い人に心を注げ

私がこれまで対談を重ねてきた皆様も、私より高齢の方々、学会でいう多宝会の世代が多かった。
皆、若々しい心の持ち主であられた。生きる喜びにあふれていた。それは、自らの使命を強く深く自覚されていたからに違いない。
なかでも忘れ得ぬ一人が、生涯を核兵器廃絶の推進に捧げられた、パグウォッシュ会議名誉会長のロートブラッド博士である。
「これまでの世界より、ずっと良い世界を築いていけるよう、若い人々を、私たちの持てるすべてを注いで育んでいかねばなりません」と博士は言われた。
このやむにやまれぬ大情熱から、博士は若い科学者の集まりである「スチューデント・ヤング・パグウォッシュ」を結成された。
博士を敬慕する彼らは、後の研究プロジェクトにロートブラッド博士の名を冠することを決定した。
未来を語る博士の顔は真剣であった。輝いていた。
未来は、青年に託す以外にない。青年を伸ばし、育てるのだ!──この信念と誓願に生きる最晩年の姿は、何ものにも増して美しかった。
        ◇
 師弟不二
  親子一体
    最高の
  人生勝ち抜く
    広布城かな

思えば、日蓮大聖人をお護りした門下の中核の一家は、信心の継承においても模範の存在であった。
「破邪顕正」の行動も、「一家和楽」が力となる。
青年門下・南条時光の母である上野尼御前は、夫や最愛の末子の死など幾多の難や悲しみに遭った。
だが、師匠であられる大聖人の励ましを希望の源泉とし、立派に妙法広布の母として生き抜いていったのである。
この母に続いて、時光も純真な信心を貫いた。蓮祖の御入滅に至るまで、母と共にお仕え申し上げた。のみならず、不二の弟子・日興上人を真っ直ぐにお護り申し上げたのである。
「水のごとくと申すは・いつも・たい(退)せず信ずるなり、此れはいかなる時も・つねは・たいせずとわせ給えば水のごとく信ぜさせ給へるか たう(尊)とし・たうとし」(御書1544n)
大聖人が時光に与えられた真心の御手紙である。
他にも阿仏房・千日尼夫婦とその子・藤九郎守綱など、親子一体で信心の道を貫いた求道の門下を、大聖人は心から讃嘆された。
posted by ハジャケン at 21:26| ☔| 随筆 人間革命・桜の城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月12日

長編詩 我が愛するアメリカの地湧の若人に贈る

長編詩 「我が愛するアメリカの地湧の若人に贈る」
               1981年6月20日発表


信仰とは
何ものをも恐れぬことだ
何ものにも紛動されぬことだ
何ものをも乗り越える力だ
何ものをも解決していく源泉だ
何ものにも勝ち
    乗り越えていく
痛快なる人生のエンジンだ

―SGI会長の長編詩から
posted by ハジャケン at 13:01| ☁| 随筆 人間革命・桜の城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月03日

昭和54年5月3日

1999年5月1日 随筆/新・人間革命/80/
昭和54年5月3日

その日は、雲一つない”五月晴れ”であった。
武蔵野の丘は、生命と青春を飾りゆくように、ツツジの花に包まれていた。
その花々の彼方は、大きな真実の沈黙を漂わせた、新緑に輝いていた。
妻が、まぶしそうに言った。
「まるで、十九年前と同じ天気ですね……」

たしかに一九六〇年(昭和三十五年)、私が第三代会長に就任した日も、快晴であった。
その日の夜、大田区の小さな貧しい家で、二人して夜空を仰ぎ、「あの星は、ホタルが輝いているように見える」と語り合ったことを思い出す。
この十九年間、絶望の闇を切り開き、無限の平和の大帝国を建設するために、わが死闘は続いた。

一九七九年、すなわち昭和五十四年の五月三日――。
間もなく、創価大学の体育館で、”七つの鐘”の総仕上げを記念する、第四十回の本部総会が行われることになっていた。
本来ならば、その日は、私は、偉大なる広宣流布のメッセージを携えて、創価の栄光を祝賀する日であった。
すべての同志が熱意に燃えて、楽しき次の目標をもち、至高の光を胸に抱きながら迎えゆく、歓喜の日であった。
尊い広布の英雄たちが微笑をたたえ、共々に、珠玉の杯を交わしながら祝うべき日であり、大勝利の鐘を自由に打ち鳴らす日であった。

しかし、嫉妬に狂った宗門をはじめ、邪悪な退転者等の闇の阿修羅が、この祝賀の集いを奪い去っていったのである。

午後二時から始まる総会の開会前であった。
妬みと滅びゆく瞋恚の魂をもった坊主を乗せたバスが、大学に到着すると、私は、ドアの前に立ち、礼儀を尽くして、彼らに挨拶した。
ところが、坊主たちは、挨拶一つ、会釈一つ返すわけでもなく、冷酷な無表情で、傲然と通り過ぎていった。
学会伝統の総会も、いつものように、学会らしい弾けるような喜びも、勢いもなく、宗門の”衣の権威”の監視下、管理下に置かれたような、異様な雰囲気であった。
ある幹部が後で言っていた。
「冷たい墓石の上に座らされたような会合であった」
激怒した声が多々あった。

会場からの私への拍手も、遠慮がちであった。
また、登壇した最高幹部は、ほんの数日前の会合まで、私を普通に「池田先生」と言っていたのが、宗門を恐れてか、ただの一言も口にできない。
私をどうこうではない。
それは、強き三世の絆で結ばれた、会員同志の心への裏切りであった。
婦人部の方が怒っていた。
「どうして、堂々と、『今日の広宣流布の大発展は、池田先生のおかげです』と言えないのでしょうか!」と。
私が退場する時も、戸惑いがちの拍手。
「宗門がうるさいから、今日は、あまり拍手をするな。特に、先生の時は、拍手は絶対にするな」と、ある青年部の最高幹部が言っていたと、私は耳にした。
恐ろしき宗門の魔性に毒されてしまったのである。言うなれば、修羅に怯えた臆病者になってしまったのである。

しかし、私を見つめる同志の目は真剣であった。声に出して叫びたい思いさえ、抑えに抑えた心が、痛いほど感じられた。
体育館を出た直後、渡り廊下を歩いている私のもとに駆け寄って来られた、けなげな婦人部の皆様との出会いは、今も、私の胸に深く、くい込んで離れない。

会合が終わり、特別の控室にいた高僧や坊主どもに、丁重に挨拶をしたが、フンとした態度であった。これが人間かという、そのぶざまな姿は、一生、自分自身の生命に厳存する閻魔法王に、断罪されることは、絶対に間違いないだろう。
仏法は、厳しき「因果の理法」であるからだ。
私は思った。
宗門と結託した、学会攪乱の悪辣なペテン師たちは、これで大成功したと思い上がったにちがいない。彼らは、「これで、計画は着々と準備通りに進んでいる。これでよし!これで完全勝利だ」と計算し、胸を張っていた。
その陰湿さと傲慢さが、私には、よく見えていた。
私は、ずる賢き仮装の連中の実像を、その行動から見破ることができた。

この陰険極まる、狡猾な連中には、断固として、従ってはならない。いかなる弾圧を受けようが、「忍耐即信心」である。
学会は、蓮祖の仰せ通りの信仰をしている。死身弘法の実践である。柔和な忍辱の衣を着るべきである。
学会に敵対する彼らは、蓮祖の姿を借りて、真実の仏の使いを道具にし、利用し、破壊しているのである。
これが、恐ろしき魔性の荒れ狂った、現実の実態であった。
あまりにも悲しく、あまりにも情けなかった。
本来、宗教は、人間の幸福のためにあるものだ。
それが、坊主の奴隷になり、権威の象徴の寺院・仏閣の下僕になってしまうことは、根本的に間違いである。

私は、重荷を、また一層、背負った気持ちで、皆と別れ、自宅には帰らず、神奈川文化会館に走った。

「今朝の新聞に、先生のお名前が出ていました」
神奈川文化会館で、側近の幹部が教えてくれた。
この三日付の読売新聞には、日米国民の「生活意識」調査の結果が掲載されていた。
その中に、日本人が「尊敬する人物」に挙げた上位二十人の第六位に、私の名前が出ているというのであった。

上から、吉田茂、野口英世、二宮尊徳、福沢諭吉、そして、昭和天皇と続き、その次が私である。
「会長勇退」直後の五月三日に、このような記事が出たことに、私は不思議なものを感じた。
また、同志の皆様が、懸命に私を応援してくださっているようにも思われた。

数日後、ある識者の方からいただいたお手紙は、この調査のことを非常に驚かれ、こう結んであった。
「現存する人物では、民間人の第一位です。
そして、日本の宗教界では、貴方、お一人だけです。まさに宗教界の王者です。どんなに、戸田会長がお喜びになるでしょうか!」

「大事には小瑞なし、大悪を(起)これば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし」(御書1300p)とは、日蓮大聖人の絶対の御確信であられる。
誰が何と言おうが、私は私の信念で勝つことを決心した。
そして、ただ一人、今まで以上の多次元の構想をもちながら、戦闘を開始した。
「獅子は伴侶を求めず」とは、よく戸田先生が、私に言われた言葉である。
一人、孤独になった私は、無言のうちに、必ずや、真実の伴侶はついてくるであろうと信じていた。
師弟の両者が一つの姿で、無限に戦い、舞い、走り、勝利しゆく。私は、その新しき時代の、新しき伴侶を待っていた。
神奈川の地は、世界に通じる港である。
ここから、私は「一閻浮提広宣流布」との大聖人の御遺言を遂行する、決意を新たにした。そして、「正義」という二字を書き記した。
この意義を深く留めて後世に伝えてほしいと、側にいた数人の弟子に託した。
五月五日のことである。

いったん帰京した私は、東京の開拓の新天地、第二東京の拠点の立川文化会館に向かった。
すでに、夕方近かった。
別な世界を見る思いで、まさに沈みゆかんとする夕日の光景を、しばし呼吸した。
夕暮れの立川に着くと、その清楚な頬に頬ずりしたいような、憧れの月天子が、顔を見せてくれた。
私は一詩を詠んだ。

 西に 満々たる夕日
 東に 満月 煌々たり
 天空は 薄暮 爽やか
 この一瞬の静寂
 元初の生命の一幅の絵画
 我が境涯も又
 自在無礙(むげ)に相似たり

この日、五月十一日の日記に記したものである。
世界の創価学会は、太陽と同じく、太陽の生命で、永遠に転教を休むことなく、進みゆくことであろう!
また、断固、勝っていくことであろう!

posted by ハジャケン at 01:09| ☔| 随筆 人間革命・桜の城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月09日

嵐の「4・24」

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昨年、先輩同志より「桜の城」を初めて知った。
特に、この 嵐の「4・24」を読んで頂いた。
当ブログに昨年8月頃、掲載させて頂いたが、その時は分割掲載でしたので、改めて全文一括掲載させて頂きます。
創価学会、先生の原点を知りました。


1999年4月27日 随筆/新・人間革命/79
嵐の「4・24」

 先日、ある著名な学者から、伝言をいただいた。
 それは、私を励ましてくれる好意的な内容であった。
「これだけ壮大なる創価学会になったからには、苦労も苦難も多いでしょう。
 日本を動かす原動力の一つになったことは、まことに偉大なことであります。
 若い時に、身体が弱かった貴方だから、健康のことを心配しておりましたが、この何十年もの間に、いよいよ大偉業を完遂してゆく姿に、心から感嘆し、頭が下がる思いです」
 また、ある高名な方からも、励ましのお手紙をいただいた。
 「これほどまでに、平和勢力を築き上げた大事業に、喝采を送ります。
 戦前戦後を通じて、これほどの業績は、誰も成し遂げることができませんでした。
 政治家でもない、著名人でもない、一民間人が、戸田会長という偉大な師匠があったことは事実としても、これほどの大業は、とうていできないものです。
 しかも、悪意の中傷を数多く受け、さらにまた、反対勢力の策略と陰謀を撥ね返してこられた。
 日本狭しと見下ろしながら、全世界を志向してのご活躍、そして、巨視眼と先手を打ちながらの平和活動は、それはそれは、歴史に残ることは絶対に間違いないでしょう」

 また、長年、おつきあいした文化人からは、「奇跡という他ない。誰からも誉められず、嫉妬され、けなされながらも、現実に未だかつてない偉業を創り上げた大芸術は、ナポレオンもユゴーも、きっと賛嘆するであろう」と。

一九七九年(昭和五十四年)の四月二十四日――。
 この日、私は、十九年間にわたって務めた、創価学会第三代会長を退き、名誉会長となった。
 全国の、いや、全世界の同志は、その発表に、愕然として声をのんだ。
 その背後には、悪辣なる宗門の権力があり、その宗門と結託した反逆の退転者たちの、ありとあらゆる学会攻撃があった。
 なかんずく、私を破壊させようとした、言語に絶する謀略と弾圧であった。
 正義から転落した、その敗北者たちは、今でも、その逆恨みをはらさんと、卑劣な策略を続けている。これは、ご存じの通りである。

 御聖訓には、随所に説かれている。
 「法華経の行者は諸々の無智の人のために必ず悪口罵詈等の迫害を受ける」と(趣旨、御書140p等)。
 広宣流布の闘争のゆえに、悪口罵詈されるのが、真の法華経の行者といえるのである。
 さらに「佐渡御書」には、「賢人・聖人は罵詈して試みるものである」(通解、同958p)と。
 <「賢聖は罵詈して試みるなるべし」>
 真実の信仰者は、罵詈され、讒言され、嘲笑されて、初めてわかる。

 畜生のごとき坊主らの暴圧による、わが友たちの苦悩を、悲鳴を、激怒の声を聞くたびに、私の心は血の涙に濡れた。
 心痛に、夜も眠れなかった。
 私は、けなげな創価の同志を守るため、一心不乱に、僧俗の和合の道を探り続けた。   

 しかし、後に退転した、ある最高幹部の不用意な発言から、その努力が、いっさい水泡に帰しかねない状況になってしまったのである。
 それは、最初から、学会破壊を狙っていた仮面の陰謀家どもの好餌となった。
 坊主らは、狂ったように「責任をとれ」と騒ぎ立てた。

 私は苦悩した。
 ――これ以上、学会員が苦しみ、坊主に苛(いじ)められることだけは、防がねばならない。
 戸田先生が「命よりも大事な組織」といわれた学会である。
 民衆の幸福のため、広宣流布のため、世界の平和のための、仏意仏勅の組織である。
 私の心中では、一身に泥をかぶり、会長を辞める気持ちで固まっていった。
 また、いずれ後進に道を譲ることは、何年も前から考えてきたことであった。


 ある日、最高幹部たちに、私は聞いた。
 「私が辞めれば、事態は収まるんだな」
 沈痛な空気が流れた。
 やがて、誰かが口を開いた。
 「時の流れは逆らえません」

 沈黙が凍りついた。
 わが胸に、痛みが走った。
 ――たとえ皆が反対しても、自分が頭を下げて混乱が収まるのなら、それでいい。
 実際、私の会長辞任は、避けられないことかもしれない。
 また、激しい攻防戦のなかで、皆が神経をすり減らして、必死に戦ってきたこともわかっている。
 しかし、時流とはなんだ!
 問題は、その奥底の微妙な一念ではないか。
 そこには、学会を死守しようという闘魂も、いかなる時代になっても、私とともに戦おうという気概も感じられなかった。
 宗門は、学会の宗教法人を解散させるという魂胆をもって、戦いを挑んできた。それを推進したのは、あの悪名高き弁護士たちである。
 それを知ってか知らずか、幹部たちは、宗門と退転・反逆者の策略に、完全に虜になってしまったのである。
 情けなく、また、私はあきれ果てた。

 戸田会長は、遺言された。
 「第三代会長を守れ! 絶対に一生涯守れ! そうすれば、必ず広宣流布できる」と。
 この恩師の精神を、学会幹部は忘れてしまったのか。なんと哀れな敗北者の姿よ。
 ただ状況に押し流されてしまうのなら、一体、学会精神は、どこにあるのか!

 そんな渦中の、四月十二日、私は、中国の周恩来総理の夫人であるとう穎超女史と、迎賓館でお会いした。
 その別れ際に、私は、会長を辞める意向をお伝えした。
 「いけません!」
 ”人民の母”は笑みを消し、真剣な顔で言われた。
 「まだまだ若すぎます。何より、あなたには人民の支持があります。人民の支持のあるかぎり、やめてはいけません。一歩も引いてはいけません!」
 生死の境を越え、断崖絶壁を歩み抜いてこられた方の、毅然たる言葉であった。

 やがて、暗き四月二十四日を迎えた。火曜日であった。
 全国の代表幹部が、元気に、新宿文化会館に集って来た。
 しかし、新たな”七つの鐘”を打ち鳴らす再出発となるべき、意義ある会合は、私の「会長勇退」と、新会長の誕生の発表の場となってしまったのである。
 大半の幹部にとって、まったく寝耳に水の衝撃であった。
 私は途中から会場に入った。
 「先生、辞めないでください!」「先生、また会長になってください!」
 「多くの同志が、先生をお待ちしております!」などの声があがった。
 皆、不安な顔であった。
 「あんなに暗く、希望のない会合はなかった」と、後に、当時の参加者は、皆、怒り狂っていた。
 私は、厳然として言った。
 「私は何も変わらない。恐れるな!
 私は戸田先生の直弟子である! 正義は必ず勝つ!」と。

 あまりにも 悔しき この日を 忘れまじ

   夕闇せまりて 一人 歩むを

 これは、四月二十四日に記された日記帳の一首である。
 わが家に帰り、妻に、会長を辞めたことを伝えると、妻は、何も聞かずに「ああ、そうですか……。ご苦労様でした」と、いつもと変わらず、微笑みながら、迎えてくれた
posted by ハジャケン at 16:24| ☔| 随筆 人間革命・桜の城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする