2013年06月13日

成住壊空

成住壊空(じょうじゅうえくう)とは、一つの世界が成り立ち、
そして最後に空に帰するまでを4つに区分した仏教の概念である。
「成劫」=世界が成立する期間。
「住劫」=成立した世界が持続している期間。
「壊劫」=世界が壊れていく期間。
「空劫」=すべてが壊れて、存在を失った期間。
劫(こう)とは長い時間の単位である。

/////////
いまは、どこなのだろうか?
一人ひとりで、ちがうのだろうか?
今が・・・時が・・・機が・・・

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2013年01月02日

「諫暁八幡抄」

「諫暁八幡抄」
男子部「御書活動者会」研鑽のために(10月度)
広布の主役の決意で進め!

 10月度の男子部「御書活動者会(御書活)」では「諫暁八幡抄」を研鑽。「仏法西還」の原理を学び、世界広布の使命を確認していく。

<御文>
月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり、仏は法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに、末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなり(御書588ページ)

<通解>
月は西から東へ向かう。それは月氏の仏法が東へ流布する相である。日は東から出る。日本の仏法が月氏国に還るという瑞相である。月はその光が明らかでない。仏の在世に法華経が説かれて人々を照らした期間は、ただ8年である。日は、その光明が月に勝っている。これは、五の五百歳、すなわち末法の長い闇を照らすという瑞相である。仏は法華経を誹謗する者を治されることはなかった。それは、在世には謗法の者がいなかったからである。末法には、必ず一乗(法華経)の強敵が充満するであろう。(このような時には)不軽菩薩が行った折伏によって(衆生を)利益するのである。

<背景と大意>
「諫暁八幡抄」は弘安3年(1280年)12月、59歳の日蓮大聖人が身延で門下一同のために著された。題号には「法華経の行者を守護するという誓いを果たさない八幡大菩薩を諫め暁す」との意味が込められている。
 文永11年(1274年)に蒙古の襲来(文永の役)があり、その再来を恐れた幕府は防備体制を固めていた。そのような中の弘安3年11月、鎌倉幕府の守護神とされる八幡大菩薩を祀った鶴岡八幡宮が炎上。人々の不安は高まっていった。
 本抄では、法華経の行者である大聖人を護らず、法華経の敵である幕府を罰しようともしない八幡大菩薩の怠慢を戒められている。そして、諸天善神であろうと仏法の敵にくみするならば、これを厳しく?責するのは経文通りの善の振る舞いであり、八幡大菩薩が必ず法華経の行者を守護しなければならないことを説かれている。
 最後に仏法西還の原理に触れ、大聖人が打ち立てられた大法が、日本から世界へ必ず流布していくとの大確信を示されている。

 「いざ往かん 月氏の果まで 妙法を 拡むる旅に 心勇みて」
 1956年(昭和31年)に戸田第2代会長が詠んだ和歌である。
 「月氏」とはインドのこと。あれから半世紀。創価の師弟の闘争によって今、インドには6万人の地涌の連帯が燦然と輝いている。
 日蓮大聖人は今回の範囲の前半で、「日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」と述べられている。
 大聖人の仏法を「太陽(日)」、釈尊の仏法を「月」に例え、大聖人の仏法が日本から東洋へ広がっていくとの「仏法西還」の原理を示された部分である。
 「月氏の仏法の東へ流る」とは、釈尊の仏法がインドから東の中国、朝鮮半島に渡り、日本へと伝えられてきたことを指す。これを「仏法東漸」ともいう。
 一方、「日本の仏法の月氏へかへる」とは、東の日本から興った大聖人の仏法が、今度は世界を照らしていくとの御確信である。
 さらに御文では、太陽と月の光の強弱≠ノ約され、大聖人の仏法が「月に勝れり」と仰せになられている。
 「月は光あきらかならず在世は但八年」とは、釈尊の法華経が衆生を利益した期間が、わずかであったことを指す。
 それに対し、「五五百歳の長き闇を照す」と仰せの通り、大聖人の仏法こそ五の五百歳から始まる末法万年、つまり、未来永遠にわたって全民衆を照らし続ける大法だと述べられているのである。
 このように、大聖人は、必ず仏法西還、世界広宣流布は実現されるのだと宣言された。
 しかし、それは自然にそうなっていくのではない。「断じて、そうしてみせる」という、大聖人の心を継ぐ弟子の強い決意と実践があってこそ、現実のものとなっていくことを忘れてはならない。
 学会は、大聖人の仰せのままに、この大法を世界192カ国・地域へと広げてきた。現代において、大聖人の御予言を実現した団体こそ創価学会なのだ。
 最後に、大聖人は、この大法を世界に弘めていくための根本精神を教えられている。
 「仏は法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに」とは、釈尊の時代は、謗法の者がいなかったため、衆生の機根を整え、最後に法華経を説くことによって、人々を正法に導いていたことを示されている。
 しかし、末法は「一乗の強敵」、つまり万人成仏を説く法華経を信じられず、敵対する強敵が充満する五濁悪世である。ゆえに相手の機根にかかわらず、正義を語り抜く「折伏」が正しい仏道修行のあり方だ。大聖人は、その具体的実践として、不軽菩薩の振る舞いを挙げられたのである。
 不軽菩薩について、法華経の「常不軽菩薩品第20」には、次のように説かれている。
 ――会う人々の仏性を信じ、語りかけていった不軽菩薩は、傲慢な人々から悪口を浴びせられ、杖や棒で迫害された。それでも、決して相手を軽んじることなく、深く礼拝し続けた功徳で成仏した。不軽菩薩を軽んじた人は、一度は苦悩の底に落ちたが、法華経を聞いた縁によって救われた――と。
 池田名誉会長は、この不軽菩薩の実践を、大聖人も生涯貫かれていたことを紹介し、こう指導された。
 「『他人だけが不幸』はありえない。と同時に『自分だけが幸福』もありえない。ならば『人を幸せにする』ことが『自分が幸福になる道』です。自他共に幸福を勝ち開いていく。ここに、法華経の真髄の行動があります。これが、我らの学会精神です」
 一人一人の可能性を信じ、励ましを送り、人々を蘇生させてきた創価の運動。この地道な戦いで、広布の潮流は滔々たる大河となったのだ。
 さあ、対話の秋! 創価後継の誇りも高く、「広宣流布は私がやる」との主体者の決意で、幸福のスクラムを広げていこうではないか。

世界平和の日
◆「一人」を徹して励ます
10月2日は「世界平和の日」。今から52年前のこの日、池田先生はハワイへ飛び立ち、世界広布の第一歩をしるした。
 先生は、続いてアメリカ本土からカナダ、ブラジルを訪問。当時、海外で信心をしている同志はわずかだったが、現地の友の悩みに耳を傾け、徹して励まされた。
 「諫暁八幡抄」には「一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし」(御書587ページ)と仰せである。
 日蓮大聖人は、全民衆の苦しみを御自身の苦悩とされ、その救済に立ち上がられた。
 創価の師弟もまた、この御精神を受け継ぎ、目の前の一人を抱きかかえるように励まし、共に苦難を勝ち越えてきたのである。
 私自身、経済苦や病弱に悩んでいた2部学生の時代に、先輩の真心の激励に触れて発心。使命を自覚し、人生を開くことができた。
 創価の励ましのスクラムは、今や世界192カ国・地域に拡大。題目の声が途切れることなく地球を包む時代が到来している。
 今月、わが千葉県に「SGI青年研修会」で来日した世界の青年リーダーを迎えた。県内各地で開催した交流交歓会は、海外の友の求道の息吹にあふれ、多くの日本の同志が負けていられない≠ニ決意を新たにした。
 総千葉男子部は、大聖人御聖誕の地の誇りを胸に、徹して一人を励まし、師と共に勝利の金字塔を打ち立てていきたい。(総千葉男子部教学部長 一柳新)

<聖教新聞2012年9月25日付>
posted by ハジャケン at 10:46| 山梨 ☀| 教学の世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月14日

『人間革命第』第十巻険路の章p227

御文
『各各師子王の心を取り出だして・いかに人をどすともをづる事なかれ・・日蓮が一門は師子の吼(ほう)るなり』

山本伸一の指導
「いかなる迫害や批判中傷にあおうと、師子の子たる私たちは怯えないからこそ、大聖人様の弟子だと胸を張ることができるのです。

大聖人様のご生涯は、度重なる難にあわれても、まことに師子王のご生涯でした。また近くは牧口先生も戸田先生も、あれだけの難に絶対に屈しなかった。そのお陰で今日の私たちがあり、今日の関西の華々しい戦いがあるのです。・・

私たちの行動は『師子の吼るなり』です。今こそ信心の原点を確認し、泰然自若として堂々と広宣流布の駒をさらに進めなければなりません。

私たちの肩にかかっているのは、大阪四万五千世帯の学会員の幸、不幸の重さです。頑張るときは今です。信心の利剣で魔を打ち破るのも今です!」
(『人間革命第』第十巻険路の章p227)


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「日蓮が一門は師子の吼(ほう)るなり」は、先生からブロック長に頂いた御聖訓である。
三障四魔という魔を魔と破り、己の心としっかり戦うことである。

言うべきことは言う!おかしいことは聞く!
羊にならぬように、嫌な事に目を反らさず、自分から逃げず、師子の如く「先生と自分」との思いを頑固に貫いていこう。
今月の大白蓮華の祈祷抄「法華経の行者の祈り」とは、身口意である。
反省があって、はじめて前が見えてくる。反省なき前進などありえないだろう。
もう一度、創価の指針「信行学」と本来の座談会を再考してまいりたい。
とにかく、行学である、教学である。御書を心肝することから始めよう。

もう一度、自分を統括してみることも必要ではないか。
posted by ハジャケン at 11:07| 山梨 ☔| 教学の世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

立正安国論』p31 四表の静謐

御文
汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐(せいひつ)を祈らん者か
(『立正安国論』p31)

戸田先生は、「社会の不幸に目をつぶって、宗教の世界に閉じこもり、安閑とただ題目を唱えているだけなら、大聖人の立正安国の御精神に反している」と断じられた。
大聖人がこの一節で仰せの通り、社会の安穏を実現しなければ、人々の真の幸福はないからだ。(『御書をひもとく』p242)

「一人の人間における偉大な人間革命」(=立正)が、やがて
「全人類の宿命の転換」(=安国)をも可能にするのです。

社会に正義の号砲を!
師匠に勝利の吉報を!
これこそ弟子の誓願であり、無上の誉れであります。

君たちよ、「一身の安堵」の揺籃から勇敢に打って出よ!
「四表の静謐」のために戦う革命児たれ!
「立正安国」の大道を、勝利の闘争で広げゆくのだ!
(『御書と師弟』7.18)
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2010年07月10日

功徳を受けない信心のコツの話

「信心の基本を学ぶ」 河合師範
平成十年六月二日寝屋川文化会館にて  一部抜粋

今日は難しい話ではなく、功徳を受けない信心のコツの話をしに来た。

この間、悲惨な話を間いた。ある婦人部が家庭の問題で悩んで1000万遍をあげたが、解決しなかったので落ち込んで寝込んだというのです。先輩が心配していって見たら、「こんなに拝んでも良くならない。御本尊の馬鹿!」と拝んでいたそうです。形は信心強盛でも心が不信だから解決しなかった。
「あなたは不信ですよ。」

「いや、私は信心強盛です。」「でも不信じゃない」「じゃあどうすればいいの?」「いつまでにどう解決したいですか?そう決めて祈ってご覧なさい。」と言われて、そう決めて祈ったら2週間で解決したそうです。

唱題ではなく祈りが大事。婦人部はよく唱題されます。立派です。唱題会も良いが、自分と御本尊は1対1だから、きちんと祈れば叶う。唱題のための唱題では何も叶わない。10時間唱題会なんてやらないほうがいい。あれは拷問の一種だから。

個人がやるのは何時間やっても良い。自分が決意して祈るのは良いが、みんなを縛っちゃいけない。これは先生の指導。リレー唱題会も割り当てでやっていますが、あの功徳はどこへ行くんでしょうか?また、100万遍あげて落ち込んでる人が婦人部にはよくいます。

信仰とは祈ること。頑張るための信仰をしてはいけない。婦人部は頑張っています。立派です。でも全然変わっていない。これからは「頑張ります!」と言ってやるのはやめましょう。
「頑張ります!」「頑張りましよう!」「でも変わりません!」だから、信仰は頑張るためにやるのではない。

変わるためにやるもの。何が変わるのか?生活が変わり、生命が変わり、環境が変わる。変わるための信仰。
頑張ってれば変わるのではない。変わるために頑張るべきなんです。「頑張ります!」ではつまらない。
「変わりましょう!」
「変わります!」「変わりました!」これを『信心の三段活用』と言う。こう言っても、
皆さんは帰りに「頑張ります!」と言って帰るでしょう。なかなか身についた習性は抜けない。

信仰というのは、行動の因果ではない。ただ頑張ればいいのではなく、一念の因果、どういう一念で頑張るか、その一念に功徳がある。頑張っても結果のでないのは一念が間違っているから。行為は正しい。
一念が間違っていれば空回りになったり、功徳がなかったり、マイナスになることもあり得る。

心こそ大切とよく言われる。ただ頑張ればよいと言うのは間違っている。一念の因果だから。
一念を定めで頑張ることです。生活の方程式は、行き先を決めて、予定を立てて、行動するから、目的地に到着する。
行き先,予定を決めないで、何となくぐるっと回って帰ってくるのは散歩。何となく信心している人はお散歩信心。
気分転換程度、やらないよりはまし。でも変わらない。

東京都内は規制があって、昼間は大型トラックは通り抜けできない。
夜中に時速120〜130キロで高速道路をぶっ飛ばして行く。土曜日の夜は暴走族も飛ばしているが、これは違う。
大型トラックは行き先・予定があるから飛ばしでいる。暴走族は行き先・予定もなく飛ばしているだけ。信心も同じ。
「頑張ります!」と言って頑張っている人の車を『宿命の暴走族』と言う。婦人部はほとんど暴走族。

男子部は勤行をしないで頑張っているが、これを『活動の暴走族』と言う。頑張ってもちっとも変わらない。
行き先・予定を決めて突っ走らなければいけない。何をいつまでにどうするか。これが当面の行き先と予定。
自分のこと、家族のこと、仕事のこと、組織としてのこと、何項目でもかまわない。

具体的にいつまでにこうしようと決めること
その上でそれを御本尊に強く祈って必要な行動をすれば必ず結果がでる。決めて祈り、祈って動くこと。
意外とこれを決めないで頑張っている。婦人部が祈っているのは成果だけ。変わろうと思っていない。
だから功徳が出ないから行き詰まってしまう。変わろうと決めて、祈って動けば結果がでる。信心は簡単です。

どうしたらいいかと祈っている人がいるが、全く意味がない。交番へ行って「どこへ行けばいいのでしょうか?」
と聞いているようなもの。答えがない。御本尊が何か決めるのではない。自分が決めて祈るからそうなる。
「こうしたい!」「こうなりたい!」と祈ること。必ずそうなる。「困った!御本尊!以上終わり!」
簡単です。これを『南無』と言う。南無というのは、「生命を任せます!」と言うこと。「お願いします。
あとはよろしく!」これで良い。

でも結構任せていない人が多い。「お願いはしてみます。でもだめだろうな。」
と祈っている。だからそうなる。願い通り。できないと決めたら御本尊不信。だめだと決めたら御本尊不信、自分の中の甘さも御本尊不信。願ってお任せ。「お願いします!あとはよろしく。」これでよい。

信仰というのは、無理だから祈る。方法がないから祈る。常識で不可能だから祈る。方法があれば祈る必要はない。
やればいいんです。道がないから祈る。それが南無。そう御書に書いてある。
「湿れる木より火を出し、乾ける土より水をもうけんが如く強盛に申すなり」と。

「“湿った木を燃やしてみせる、砂漢から水を出してみせる”と強く祈るんだよ!」とおっしゃっている。
「不可能を可能にするのが信仰だよ!」
とおっしゃっている「お願いはしてみます。でもだめだろうな。」と祈っている。これを『半南無』と言う。
半信半疑は不信だから叶わない。「だめでしょうね。」とその通りになる。
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2010年01月07日

心臓をかたちどってできた文字。古代人は、人の精神活動は心臓の鼓動によると考えていた。心臓が人の活動のもとになるということから、最も重要なことという意味にも使われる。

@こころ、知・情・意の働きの本体、意識の根本となるもの、精神、
A考え、こころざし、思い、
B心臓、
Cもと、根本、
Dものごとの大事なところ、しん、真ん中、
E胸、
F思いやり、情け、思慮−−などの意がある。

サンスクリット語でも、「フリド」(心臓)が感情、情緒などの心の働きの依り所とされていた。「フリド」は、独語の「ヘルツ」、英語の「ハート」と同じ語根から派生した言葉である。
仏典には、「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う」(『ダンマパーダ』)とある。仏教において「こころ」の占める比重は大きく、心をその王座(心王)と、その働き(心数)に分けたり、八識・九識と階層的に立て分けるなど、多角的に心を分析している。いわば、感覚的・日常的な心、意識下の心、自我意識の心、根本の清浄な心といった具合いに。
感覚的・日常的な心については、「心は、動揺し、ざわめき、護(まも)り難く、制し難い」(『ダンマパダ』)とあるように、ほうっておくと放逸にして落ち着きのないものになりやすい。それを仏典では、「心猿」「六窓一猿」と言った。〈眼・耳・鼻・舌・身・意〉という六つの感覚器官の窓から、心という猿がせわしなく顔を出しては騒いでいるさまを例えたものだ。煩悩や欲望のなすがままの心を見事に表している。
だからこそ、「怠ることなく、よく気をつけて、よく戒めをたもて。その思いをよく定め統一して、おのが心をしっかりとまもれかし」(『マハーパリニッバーナ・スッタンタ』中村元訳)、あるいは「心の師とはなるとも、心を師とさぜれ」(『六波羅蜜経』)と、自らが自らの心を律することを強調している。
その一方で、心の清らかさをも強調している。天台大師は、「心」という文字を一本の弧(月)と、三つの点(星)に分解して、「一月三星・心果清浄」と言ったという。月や星が煌煌(こうこう)と輝くように寂静にして清らかな心をいったものであろう。
日蓮大聖人は、「ただ心こそ大切なれ」(『四条金吾殿御返事』)と言われている。
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2009年11月14日

功徳論 供養とは「喜捨」

功徳論

功徳に関する私見を述べ、問題提起としたい。

蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし(1173頁)

学会員であれば、誰もが知る御聖訓の一つである。とは言うものの、活動報告でまかり通っているのは、「蔵の財」が大半だ(笑)。「心の財」は評価の対象にすらなってない気がする(笑)。

広布部員の季節になると決まったように、幹部という幹部が極めて特異な体験やエピソードを次々と紹介する。「不思議な収入シリーズ」だ(笑)。特に婦人部の会合は、こんな話で持ち切りだ。

思いあまった老婦人が呟いた。「今、生活が本当に大変なの。だから、どうしても功徳が欲しいので、財務を頑張ろうと思う」と。私も若い頃は似たような考えをもっていた。「万馬券より堅い」「生命保険より確実だ」などと後輩に指導しまくった(笑)。

ちょっと冷静になって考えてみよう。ここで言う功徳って何だろう? それは「蔵の財」である。つまり、供養が“投資”になってしまっているのだ。私の場合は、「ギャンブル型供養」(笑)。

これは、おかしい。大聖人に対して、海苔(のり)や餅、はたまた米や金銭を供養した弟子が、果たして功徳目当てで行っていたであろうか? 断じてそんなことはない。供養とは「喜捨」の精神で行うべきものだ。

「蔵の財」に執着するのが人の常である。それを「喜んで捨てる」こと自体が、貪欲(とんよく)から離れた行動であり、これ六根清浄である。

 功徳とは六根清浄の果報なり(762頁)


 志が欲に負けてしまえば、「餓鬼財務」と堕すことを戒め合いたい。

 また、闘争の目的が、功徳=蔵の財を目指すものとなれば、精神性や人間革命を伴わない「強欲な動機」が原動力となってしまう。これでは、煩悩即煩悩だ(笑)。

 信心即生活であれば、無理をする必要はない。また、つまらぬ見栄を張れば、真心が失われてしまう。自らの決意のままに、自由に行うべきであろう。

 その上で、以下の供養の品々に想いを馳せて頂きたい――

「白米一だ」(1561頁)、「十字六十枚清酒一筒薯蕷五十本柑子二十串柿一連」(1562頁)、「僧ぜん料米一たはら」(1563頁)、「はくまいひとふくろいも一だ」(1566頁)、「鵞目両ゆひ白米一駄芋一駄すりだうふ(摺豆腐)こんにやく柿一篭ゆ五十等云云」(1568頁)、「しら牙二石並びにいものかしら一だ」(1573頁)、「鵞目一貫文」(1574頁)、「聖人(すみざけ)ひとつつひさげ十か十字百あめひとをけ二升か柑子ひとこ串柿十くし」(1575頁)

いずれも南条時光が供養した品で、弘安2年の末から弘安4年の正月にかけてのものである。弘安2年といえば時光は数えで21歳。熱原の法難に際し、日興上人の陣頭指揮のもと、師子奮迅の大闘争を展開した。これによって弾圧が始まり、重税を課せられることとなった。権力者による兵糧攻めといってよい。時光一家の生活はといえば、「身はのるべき馬なし妻子はひきかくべき衣なし」(1575頁)という有り様だった。その中でこれだけの供養をしているのだ。信心の志なくしてできるものではない。

「師を守らずにおくものか!」――時光の轟くような叫び声が、700年を経ても尚、私の心を鞭打つ。

(創価王道 小野氏より)


////////////
報恩の感謝、真心があるかでしょう。
今月の大白蓮華 御書「単衣抄」「十字御書」「白米一俵御書」を心肝に真心とは何かを捉えていきたいですね。




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2009年08月12日

追善・回向

追善回向

( 追善の意義 )
「追善」とは、故人に、ゆかりのある方々が、後から追って善根を積むことを言います。

( 回向の意義 )
「回向」とは、自らが仏道修行で積んだ功徳を、他人のために回し向けることをいいます。

つまり、世界広布に行動する私たちの大功徳が、故人を包んでいくのです。


御書
「自分自身が成仏しなくては父母ですら救うことはできない。まして他人を救えるはずがない」 

自身のいまだ仏にならざるゆへぞかし、自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたしいわうや他人をや。
(御書1429ページ)


「題目を唱えるとき、その光は無間地獄にまでも至って精霊を成仏に導くことができる」 
今日蓮等の類い聖霊を訪う時法華経を読誦し南無妙法蓮華経と唱え奉る時題目の光無間に至りて即身成仏せしむ、廻向の文此れより事起るなり、
(同712ページ、)


「抑盂蘭盆と申すは源目連尊者の母青提女と申す人慳貪の業によりて五百生餓鬼道にをち給いて候を目連救ひしより事起りて候、然りと雖も仏にはなさず其の故は我が身いまだ法華経の行者ならざる故に母をも仏になす事なし」

(御書1111ページ)


日々信仰で暮らしに勝利していくことが、追善供養にとっていかに重要であることか!

仏法の本義は、広布を目指す私たちの地道にして着実な行動と、確たる境涯を築きゆく信心に、追善回向の根幹があるのです。
個々人の広布を目指しての「信心」があってこその回向なのです。



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2009年02月14日

恩師 心の師とはなるとも心を師とせざれ

「心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文なり」
兄弟抄1088頁

【通解】
「心の師となることはあっても、自分の心を師としてはいけない(弱く醜い心のままに行動してはいけない)」とは六波羅蜜経の文です。


ひとたび人生の道を踏みはずすと、あとは迷走しかない。
だから正道に導く“心の師”が大事なのだ。
師匠を見失えば、その途端に仏法は法滅へと向かう。
大聖人が血脈と言われたのも、言い換えれば真の師弟ということである。---恩師


///
先輩から聞いた御金言。
これからも噛みしめていきます。

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2008年11月15日

「四苦八苦」

「仕事を終わらせるのに四苦八苦した」――たいへんな目にあった時に口にする「四苦八苦」は、実は仏教用語から来たものです。
四苦八苦は、生きていくうえでの根本的な四つの苦心み、あるいは八つの苦しみとして説明したものです。
四苦は、生・老・病・死を指し、生まれて、老い、病み、死んでいくという人生全体にわたる苦です。八苦とは、この四苦に次の四つを加えたものです。すなわち、自分が愛し大事にしているものと別れる苦み(愛別離苦)、自分が怨み僧むものに出あい、あるいは一緒にいなければならない苦しみ(怨憎会苦・おんぞうえく)、求めるものが手に入らない苦しみ(求不得苦・ぐふとっく)、人間の心や体の盛んな働きによってうける苦しみ(五陰盛苦・ごおんじょうく)です。
だれもが、人間世界のあらゆる苦しみである四苦八苦に直面することから、転じて「非常に苦労する」との意味で使われるようになったのでしょう。
釈迦は、人生の本源的な苦悩を見つめ、その解決のために仏法を説きました。だれびとも避けられない四苦八苦を乗り越えていく生命変革の哲学を説いたのです。

///
先日、生老病死の四苦の由来を勉強しましたが、こう調べても分からない。



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2008年10月22日

御書 王舎城事 P1138

彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」等云云(王舎城事p1138)


///
先般はじめて聞いた御書でした。
どう思われようが、相手を思い言う事は、親と同じである。
そうなると言われた方は、子と同じ思いでなければ。
実に驚きでした。


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2008年10月19日

よくわかる仏教  妙法の祈り

よくわかる仏教
今回のテーマ 妙法の祈り
強き一念こそ勝利の原動力
不可能を可能にする最極の智慧

登場人物
雅夫さん 会社員。31歳。学生時代、人間関係に悩み、入会。この悩みを乗り越えたことが信心の確信になっている。
康一さん 雅夫さんと同じ支部の支部長。53歳。会社員。持ち前の明るさで周囲を元気にする知勇兼備のリーダー。

雅夫さん 「大白蓮華」10月号の池田先生の講義「希望の経典『御書』に学ぶ」を読み、感動しました。
南無妙法蓮華経には、末法万年の全人類を救いきる命懸けの大聖人の闘争の魂が結晶しているんですね。

康一さん そうだよ! だからこそ、強き一念で、題目根本に祈り、行動していけば、必ず勝利していけるんだ!
祈りといっても、世の中にはさまざまあるが、一生のうちに絶対的幸福境涯を確立していく教えは、南無妙法蓮華経しかない。
講義のなかで、先生は述べられていた。
「さまざまな宗教の教えは、本来、人間の苦悩を解決するために説かれているはずです。しかし、その教えが苦悩の根本の原因まで解明しているのか、そうでないのか、という違いは、歴然とあります。浅い次元までしか捉えていない教えでは、その力が及ぶ範囲は狭く、短いものになる。それに対して、南無妙法蓮華経は生命の根源の法です。だからこそ、未来永遠にわたって人々を救っていくことができるのです」
学会は、根源の法を持ち、不惜身命で民衆救済の行動を貫いてきたがゆえに、未曾有の世界広布を進めてくることができたんだ。

雅夫さん 私たちの唱える南無妙法蓮華経とは、何なのでしょう?

康一さん 南無妙法蓮華経は、日蓮大聖人が御自身の悟りのうえから、全人類の幸福と平和を実現するために弘められた究極の大法だ。
また、南無妙法蓮華経は、仏の生命の名前でもある。池田先生は「南無妙法蓮華経は、濁世に生きる一人の人間の胸中に、仏が悟った尊極の生命を直ちに開く大法です」と教えてくださっている。
さらに、南無妙法蓮華経は、あらゆる仏を成仏させた根源の一法でもある。
ある識者は「南無妙法蓮華経の音律には、宇宙が創り上げられていくような根源のエネルギーを感じます」と感嘆していた。

雅夫さん 「どんな願いをも叶えていけるのが妙法の祈りだよ」と、先輩に学びました。

康一さん そうなんだ。御書(日蓮大聖人御書全集)には、“祈りは必ず叶う!”との大確信が脈打っている。
「法華経を信ずる人の現世の祈りは必ず叶い、後に善処に生ずることは疑いないことである」(御書1352ページ、通解)
「禍も転じて幸いとなるであろう。心して信心を奮い起こし、この御本尊に祈念していきなさい。何事か成就しないことがあろうか」(同1124ページ、通解)
そして、「たとえ、大地をさして外れることがあっても、大空を結びつなぐ者があっても、潮の満ち干がなくなることがあっても、太陽が西から昇ることがあっても、法華経の行者の祈りのかなわないことはないのである」(同1351ページ、通解)。
ここで注目したいのは、「法華経の行者の祈り」と仰せになっている点だ。
「法華経の行者」とは、大難を乗り越えて妙法を行じ、弘めゆく人。大聖人のことであり、大聖人に直結して広宣流布を進めている学会員のことだ。
法華経の行者は、民衆の幸福を妨げる悪と、言論の力で戦い、社会の平和と繁栄のために行動し続けていく。その行者を諸天善神が必ず守護すると法華経には説かれているんだ。

雅夫さん 諸天善神とは、法華経の行者を守護する、あらゆる働きのことですね。

康一さん 「題目を唱えたてまつる音声は、十方の世界に届かない所はない。我々の小さな声でも、題目の『大音』に入れて唱えたてまつるゆえに、宇宙の中で到達しない所はない」(同808ページ、通解)
 題目の音律は、自身の生命の仏性を脈動させながら、大宇宙を動かしていく究極の力だ。
だから、いかなる悩みや課題も乗り越えていくことができるんだよ。
「題目をあげ、妙法に生き抜くならば、この大宇宙のリズムに自身の生命が合致していく。宇宙の最極の力と智慧をわが身に顕現することができる」と、池田先生は語られている。

雅夫さん 不可能を可能にする原動力こそ、「祈り」なんですね。

康一さん 「まさかが実現」と、世間をアッと言わせた池田先生の大阪の戦い(1956年<昭和31年>)。先生が法戦の指揮を執り始めた、この年の年頭の会合で、「湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(同1132ページ)との御聖訓を拝された。後に先生は「私はこの御文を命に刻み、強き祈りと行動で『不可能を可能』にしてきた」と述べられている。
“断じて不可能を可能とする!”――勝利への確信、強盛の祈りが、最高の作戦・行動とあいまって、不可能を可能としていったんだ。
先生は、勝利の要諦を、繰り返し教えてくださっている。
「勝利を決しゆく、一切の根幹は『勇気ある信心』だ」
「大勢の人に尽くしていこうという広々とした祈りは、そのまま大宇宙に響いていく」

雅夫さん どのような一念で祈っていくかが、大事なのですね。

康一さん その通りだね。弱々しい一念では何も叶わないよ。“前進、また前進!”の強き心で、祈り、行動し続けていくことが大切だ。
「信心を根本にしなければ、戦いは空転する」「信心が根本にあれば、すべてを生かすことができる。勝利のリズムをつくりだせる」――この先生の言葉を胸に刻んで、強盛の祈りと勇気の行動で、人生と広布のあらゆる戦いに勝っていこう!


posted by ハジャケン at 17:57| ☁| 教学の世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月05日

人生の羅針盤 運命を切り開く勇気と希望の源泉!

よくわかる仏教
今回のテーマ 人生の羅針盤
運命を切り開く勇気と希望の源泉!
一人一人の自立が社会の真の変革へ

登場人物
孝弘さん 会社員。28歳。男子地区リーダー。学生時代の友人とは今も何でも話し合う間柄。
康夫さん 孝弘さんのいる地区の地区部長。会社員。57歳。自身の病苦を乗り越えたことが信心の確信になっている。

孝弘さん 先ごろの東京・秋葉原での殺傷事件には驚きました。
こうした事件が二度と起こらないようにしていかなければいけないと、強く思いました。
  
康夫さん 先日、「若者の自己肯定感を高めるには」と題した、心理カウンセラーへのインタビュー記事が本紙に掲載されていたね。
若者の間に自己を否定しがちな風潮がある背景として、自立できていないことや、失敗を極端に恐れる傾向のあることが指摘されていた。
  
孝弘さん では、どうしていけばいいのでしょう?
  
康夫さん すでに社会に出ている若者の場合について、こう語られていた。
「現代では特に、本音をぶつけられる相手が必要でしょう。心を開くことができれば、安心感が生まれ、自己を肯定する力は高まります。自分を認め、受け止めてくれる存在は生きていく上で、かけがえのない“財産”なのです」と。
何でも心を開いて話せる相手を持つことが大切だね。
今、社会は人間関係が希薄だ。だからこそ、自分の方から心を開いて、何でも言い合える友人をつくる努力をしていくことが大切だね。
さらに、このようにも述べられていた。
「5年後、10年後の自分の人生をつくるのは、今の自分です。自己が確立されることで、将来の夢も目標も明確になるのです」
大切な指摘だ。
  
孝弘さん 後ろ向きの考え方になるのではなく、“未来に向かって、いかに前進していくか”、プラス思考が大切ですね。
学会の中で、何でも話せる先輩、同志がいることは、本当に幸せなことだと、あらためて思います。
  
康夫さん その通りだね。心から励まし合える仲間は、最高の宝だね。
とともに、大切なのが、確固たる人生哲学を持っているかどうかという点だ。
日蓮大聖人の御一生を見ても、いかなる苦難にも立ち向かい、妙法を根本に信念の生き方を貫かれた。
仏法とは、だれもが人生のゴールに向かって、過つことなく進んでいくことのできる、いわば“人生の羅針盤”だ。
有名な御聖訓に「生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず」(日蓮大聖人御書全集1448ページ)とある。妙法によってこそ、生死という根本の苦悩を乗り越えていくことができると教えられている。
また、法華経は人々を向こう岸へ渡す船であると説かれている(法華経597ページ)。
人生は航海に例えられる。航海に羅針盤が必要なように、人生にも羅針盤は不可欠だ。
  
孝弘さん “人生の羅針盤”を持つことによって、結局は、自分が本当に納得のいく人生、これ以上ない喜びと充実と満足の人生を送れる、ということですね。
  
康夫さん 池田先生は、幸福の条件として、「深き哲学をもつ」ことを挙げて、述べられている。
「より具体的には、信ずるに足る宗教をもつことでもある。それは、人生のバックボーンであり、人生の羅針盤となる。自分はどういう生き方をしようとするのかという、人生の規範となる。何が起ころうと、動揺することなく、毅然と立ち向かっていける確信となる。自分を律し、精神を高めうる力となる。そうした精神の支柱のある人生は幸福である」
一個の人間として、最も正しく、強く、美しい生き方を実現できる拠り所が、仏法なんだ。
  
孝弘さん そして、自身の成長の目的が、自身のためだけでなく、人々のためでもあるという点に、仏法の素晴らしさを感じます。
  
康夫さん 自他ともの幸福を実現していくために、仏法はある。
この羅針盤を持つことで、私たちは人生観、世界観を一変させていける。
例えば、自分一人だけの幸福を追い求める生き方から、“人々の幸福が実現されずして自らの本当の幸福はない”と、“人のために”行動する生き方へと人間革命できる。
また、曇りなき眼で現実をとらえて、人々の幸福のために、その現実の状況を、どう切り開いていけばいいかが、わかるようになることも、素晴らしい成長だ。
  
孝弘さん 経験を重ねてきた人生の先輩の言葉には、重みがあります。
  
康夫さん 先生は、過酷な運命を切り開いていった楽聖ベートーベンの信念について、それは宗教的信念ともいえるほど強靱なものであったと想像するとして、述べられている。
「われわれ自身のことを考えれば、誰でもそのような確固たる信念をいだき続けるというわけにはいかないかもしれません。そこに、私は、人生の羅針盤としての宗教の役割があると思うのです」
人生の岐路に立たされた時、“羅針盤”を持つ人は、自身の力を存分に発揮していける。それは、日々、月々に、信心根本の行動によって自分を鍛えた結果でもある。
そして、先生は、“創価学会の強さ”は人間の連帯を広げ、一人一人の力を引き出してきたことにあると述べて、こう続けられている。「それぞれが人間として自立し、社会建設の主体者となって正義を具現してきたのだ」と。
  
孝弘さん 自信がもてました。一人一人の自立は、社会の発展へと、つながっていくのですね。
“私たちの手でより良い社会を築いていく”――この信念を、勇気をもって友人に語っていきます。
(聖教新聞から)


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2008年10月04日

人の身には同生同名

人の身には同生同名と申す二のつかひを天生るる時よりつけさせ給いて影の身にしたがふがごとく須臾もはなれず、大罪小罪大功徳小功徳すこしもおとさずかはるかはる天にのぼて申し候
(同生同名御書p1115)


あなたの肩にも監視が、でも絶対逃れられない監視です!
自分以外を騙せても、心は騙せないと教えられました。
こういう人、実に多いですね。
だから言うべき事は言う!
心こそ大切なれ・・・師匠が何度も何度も御指導して下さってる。




posted by ハジャケン at 01:48| ☔| 教学の世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月24日

[BOOK] 宇宙と地球と人間

宇宙と地球と人間

4-267-01720-4.jpg


■ 著者名:池田大作、アレクサンドル・セレブロフ
■ 編訳者:
■ シリーズ名:
■ 発刊日:2004年11月12日
■ 体裁:四六判
■ 税込価格:1,890 円(本体 1,800 円)
■ ISBNコード:4-267-01720-4


「宇宙」に向き合うことなくして、「地上」の平和は確立できない。「外なる宇宙」と「内なる宇宙」を貫く普遍の法則に迫る、宇宙飛行士と仏法者との対話。

まえがき 池田大作
尊敬する読者へ アレクサンドル・セレブロフ

壮大なロマン「宇宙」―少年時代の夢と感動
宇宙飛行士への道―必要条件と訓練の日々
人類の英知の結晶―宇宙ステーション
宇宙のフロンティアへ―先駆者たちの挑戦
地球は生きている―宇宙を貫く法則
尊き生命の揺籃を守れ―環境破壊を防ぐ知恵
「宇宙哲学」の時代へ―万物との共生目指して
「生命の海」宇宙―仏法からのアプローチ
生命の起源と進化―壮大な宇宙のドラマ
大宇宙との対話―生命の永遠性をめぐって
生命は限りなく尊い―宇宙からの視座



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2008年08月22日

教学 十界論2 餓鬼界

十界論2 餓鬼界 (7月の勉強会)

欲望が満たされずに苦しむ境涯である。
餓鬼の意味は、「死者」のことである。
死者が常に飢えて食物を欲するとされていたことから、とどまるところを知らない激しい欲望の生命状態である。
大聖人は「餓鬼悲むべし飢渇にうへて子を食う」(1439ページ)

貪るは餓鬼と仰せです。

際限のない欲望に振り回され、心が自由にならず、苦しみを生じる。
満足を知らない。
時間に追われる・・・心+亡 忙殺
名聞名利・・忘恩、慢心、傲慢

欲望の中には善悪の両面があります。
人間は、食欲などの欲望がないと生きていかれないことも事実である。
また、欲望が人間を進歩、向上させるエネルギーとなる場合もあります。しかし、欲望を創造の方向に使えず、欲望の奴隷となって自分自身が苦しみ、他人をも傷つけてしまう状態が「餓鬼界」です。
(大白蓮華)

昨今の事件を考えると、まさに餓鬼界の境涯でしょう。
後で反省をしても、自分の心の境涯をあげることです。

地獄・餓鬼・畜生・・・三悪道
この境涯から脱皮する為に信行学の行動があるのです。

誰もが、こんな世界は嫌だと思っていても、すべては、因・縁・果によって瞬時に変わってしまうのが人間なのです。

posted by ハジャケン at 23:54| ☁| 教学の世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月13日

盂蘭盆の意義 パート2

再アップ
盂蘭盆・・・先祖や故人を供養する「盂蘭盆会」お盆

中国から入ったが、釈尊は説いていません。とはいえ、仏法の本義に背むかなければ、地域の習俗や、時代の風習に従うべきである。
「随方毘尼(ずいほうびに)」の法理

「随方毘尼」とは、仏法の本義に違わない限り、それぞれの地域の習俗や、時代の風習に従うべきであるという法理である御聖訓。
 「成仏の理に大きく違わないのであれば、とりあえず、一般社会の道理を用いるべきである」(1015)

四条金吾殿御返事(盂蘭盆由来御書)
抑 盂蘭盆と申すは源目連尊者の母青提女と申す人慳貪の業によりて五百生・餓鬼道にをち給いて候を目連救ひしより事起りて候、然りと雖も仏にはなさず其の故は我が身いまだ法華経の行者ならざる故に母をも仏になす事なし・・・云云(1111)

回向
現在生きている人が正しい法を根本に実践し、最高の尊い人生を歩んでゆく。仏道修行を故人に「回らし向ける」のが本来の回向である。

「孟蘭盆御書」の有名な一節には、こうも仰せである。
 「悪の中の大悪は、その報いの苦しみを、わが身に受けるだけでなく、子と孫と末代に七代までもかかるのである。
 善の中の大善もまた同じである。目連尊者が法華経を信じられた大善は、目連尊者自身が仏になっただけでなく、目連尊者の父母も仏になられたのである。
 また上(かみ)七代、下(しも)七代、上(かみ)無量生、下(しも)無量生の父母たちまでも、思いがけなく成仏されたのである。
 さらには、子息、夫妻、従者、檀那、無量の衆生が三悪道を離れただけでなく、皆、ことごとく(菩薩の修行の中で最初の不退の位である)初住(しょじゅう)の位に昇り、また(極果〔ごくか)〕である)妙覚の仏となったのである」(1430)


先生の御指導より(一部抜粋)
戸田先生は、こうも論じられた。
「日本人の多くは仏教の各宗派に属していて、先祖伝来の墓を守り、盆や彼岸にはそこへ参詣して、僧侶に供物でもあげたり、墓の掃除をすることなどが宗教であると考えている者が多い。
もしこれが宗教であるならば、十二因縁、六波羅蜜(ろくはらみつ)、三種の教相(きょうそう)などという哲学や修行は、まったく必要がなかったのである」 人々を惑わし、誑(たぶら)かしてきた「葬式仏教」への胸のすくような破折であった。

朝晩に追善 毎日が「お盆」
日蓮大聖人の仏法においては、朝晩の勤行が常に追善回向の機会であり、毎日の勤行が盆であり彼岸であるという「常盆(じょうぼん)」「常彼岸(じょうひがん)」が本義となる。
 その意義からいえば、「彼岸会」や「孟蘭盆会」など、特別の追善の機会は、本質的には必要ではない。
 しかしながら、それぞれの社会や時代の慣習に鑑(かんが)みながらへ特別の機会を定めることが、追善回向の心を起こさせ、信心に目覚めさせる契機ともなる。
 ゆえに、それらを用いるか否かは「随方毘尼」に即して決めていけばよい。
 日本の夏のお盆休みは、実家や親戚、また懐かしい旧友などと交流を深める機会として、深く暮らしに根づいているといってよいだろう。

posted by ハジャケン at 13:30| ☁| 教学の世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月10日

御書 うるし千ばいに蟹の足一つ

御書の有名な御文に「うるし(漆)千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故は是なり」(1056頁)

――1000ばいものたくさんの漆も、わずか蟹の足一つ混じっただけで性質が変わってしまう――と仰せである。


先輩から初めて御書として教わった御文です。
自分だけはならないと思っても、そうは問屋が卸さない!
弱い心では、流されてしまうようだ。
何度も聞いて、やっと理解出来た次第です。
----------------------------------------

 適当な正義を叫んでいる奴等は山ほどいるが、苦しむ会員の声に耳を傾ける者は少ない。悪を見抜いたところで、ケリをつけることができる人はもっと少ない。悪い幹部を糾弾したのはいいけれど、とばっちりを受けて尻尾を巻いてしまう者が大半だろう。

 組織の抱える問題が象徴しているのは、「序列によって炙(あぶ)り出された人の心の恐ろしさ」である。大体のケースが、無責任な幹部の不作為によって放置されている。悪と戦っていない幹部の言葉は、吹けば飛ぶように軽い。あまりの軽さで空の彼方に消えてしまう。

 純粋なまでの正義感は、絶対に悪を許さない。なぜなら、悪を容認すれば、自分自身が悪に染まってしまうことを知悉(ちしつ)しているからだ。(創価王道より 一部抜粋)


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2008年07月29日

[再度] 同生同名御書

同生同名御書御書P:1115

御書本文

人の身には同生同名と申す二(ふたり)のつかひを天生(うま)るる時よりつけさせ給いて影の身に・したがふがごとく須臾(しゆゆ)も・はなれず、大罪・小罪・大功徳・小功徳すこしも・おとさず・かはる・かはる天にのぼ(上)て申し候

通解

人間に生まれたときから同生(どうしょう)天・同名(どうみょう)天という二人の使いが天からつけられていて、影がいつも体についているように、一瞬の間も離れず、その人の大罪・小罪・大功徳・小功徳を少しも残すことなく、かわるがわる天に昇って報告しているのです。

同生同名御書御書P:1115


何度も教えられた御文です。
他人に嘘を言ってだませても 自分の心は だませない。
すべては、自分に罰が くだります。こわい事です。


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2008年07月26日

=カビとの付き合い方=

生活に生きる仏教講座
=カビとの付き合い方=


免疫力、生命力を 強化することが重要
真菌などの侵入の「挑戦」にどう「応戦」するか
住居の気密化、洋風化から増えるアレルギー疾患
皮膚科医 西山千秋



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2008年07月18日

業について

昨夜 業について教わりました。

こんな会社だから自分を発揮出来ない。
あんな奴がいるから いつも邪魔される。
ここに住んでると、ロクなことはない。

もっと よい会社に行けば、今居る場所から他の地に移ろう
自分も よく考えた事がある。
しかし、今夜教わったのは、
どこに移っても 環境が変わっても 己の心の業は
どこまでも付いて廻る。
それは、自分の業は、自分の心にあるからです。
では、その業を断ち切れるのでしょうか?
出来るのです。正しい仏法を受けて、正しい振舞をすること。
この正しい仏法修行とは、自身の心の鏡を磨くことである。
正しい信心をすることで、業の皮が一枚一枚剥がす事です。
業にも 定業 不定業などがあります。
はじめて知りました。また ご報告致します。



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2008年07月15日

お盆の意義

夏になると 「お盆」ですが、
この「お盆」多少なりとも考えたことありますか?

七月十五日に十方の聖僧をあつめて百味をんじきをととのへて母のくをはすくうべしと云云、目連・仏の仰せのごとく行いしかば其の母は餓鬼道一劫の苦を脱れ給いきと、盂蘭盆経と申す経にとかれて候、其によつて滅後末代の人人は七月十五日に此の法を行い候なり、此は常のごとし

盂蘭盆御書より

胡瓜、ナスに、割り箸で足を付け、上にそうめんを乗せたり
迎え火 送り火で、お迎えする風習。
中国 儒教からの一説もあり。
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2008年07月14日

教学 十界論1

先月から 教学学習会 十界論を始めました。

十界論1 地獄界
地獄とか仏の世界といっても、どこか遠くにあるのでなく
自分の生命の中にある。

人間は六道輪廻から逃げる事は出来ない。
すべては 縁によって心が変わるのである。

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六つの世界がある。

今回は 地獄界について講義をうけました。
いや〜 空恐ろしい世界である。
「地」とは、最低を意味します。「獄」は、不自由な状態をいう。
苦しんで苦しんで、どこにも逃げ場のない最低な状態であり、
生きてるのが苦しい状態をいう。

「䐜(いか)るは地獄」

昨今の事件の機縁は、これではないかな。

では、次回を
posted by ハジャケン at 16:57| ☁| 教学の世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする