2015年07月20日

革心68 完

革心68

 答礼宴は、感動のなかに幕を閉じた。

 山本伸一は、帰途に就く一人ひとりと握手し、再会を約した。峯子も隣で、満面の笑みで御礼の言葉を述べ、見送っていた。

 ケ穎超は、その峯子の手を、何度も強く握り、じっと目を見つめながら語った。

 「今日は本当にありがとうございました。心に残る一夜でした。山本先生のご健康と、お仕事の成就を祈ります」

 「こちらこそ、わざわざお出でいただき、本当にありがとうございました」――続けて峯子は、「どうか、ご無理をなさらず、ご静養なさってください」と言おうとして言葉をのんだ。ケ穎超の小さな体から、“私は安穏など欲しない。命ある限り、人民のために働く!”という、無言の気迫が感じられたからだ。

 峯子が、「四月のご来日をお待ちしております」と言うと、柔和な笑みと、「私も楽しみにしていますよ」との言葉が返ってきた。

 翌二十日は帰国の日である。伸一たちは午後一時過ぎ、北京の空港に到着した。見送りに来てくれた人たちと対話が弾んだ。廖会長夫人の経普椿との語らいにも花が咲いた。ケ穎超のことに話が及ぶと、彼女は言った。

 「周総理が亡くなられて、どれほど寂しかったことかと思います。しかし、亡くなられた時も、涙はこぼされませんでした。夫人の泣いたのを見たことがありません。“自分が泣いたら、皆を、さらに悲しませてしまう”と、ご自身と闘い、感情を押し殺していたんです。強い人です。人民の母です。

 最愛の人を失った悲しみさえも、中国建設の力にされているように思います」

 ケ穎超は、まさに“革心の人”であった。

 常に自らの心と闘い、信念を貫き通してこそ、人間も、人生も、不滅の輝きを放つ。

 彼女は、「恩来戦友」と書いて、夫の周恩来を追悼した。そこには、生涯、革命精神を貫くとの万感の決意が込められていた。

 眩い陽光のなか、友誼の握手を交わし、一行は機上の人となった。新しい日中友好の希望の大空へ、機は飛び立った。

 (この章終わり)
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2015年07月18日

革心67

革心67

 答礼宴の最後に、訪中団が、心からの感謝の気持ちを込めて、日本語で「愛する中国の歌」と、中国語で「春が来た」を合唱した。

 歌のあとで山本伸一は、ケ穎超に言った。

 「明春、桜の満開のころ、ケ穎超先生が日本に来られることをお待ちしています」

 大きな拍手が起こった。

 続いて、伸一は、周志英を促した。

 「あの歌を歌おうよ!」

 あの歌≠ニは、「敬愛する周総理」という、北京大学での交歓の折に、周志英が披露した中国の歌であった。伸一は、ケ穎超への御礼として、ぜひ、聴いてほしかったのである。

 よく通る中国語の歌声が響いた。

  

 ■<歌印>敬愛する周総理

  私たちはあなたを偲びます

  数十の春秋の風と雨を

  あなたは人民とともに

  真心は紅旗に映じ

  輝きは大地を照らす

  あなたは大河とともに永久にあり

  あなたは泰山のようにそびえ立つ

  

 ケ穎超は、テーブルの上の一点を、じっと見つめるようにして聴き入っていた。

 視線を上方に向けている廖承志の目には、うっすらと光るものがあった。夫人の経普椿も、あふれる涙をナプキンで拭った。

 料理を運んでいた人たちも、立ち止まって耳を傾けていた。偉大な指導者への敬慕の念が、皆、自然にあふれ出てくるのであろう。

 伸一が今回の旅で、ただ一つ残念で寂しかったことは、既に周総理がいないことであった。彼は、日中友好の永遠なる金の橋を築き、総理との信義に生き抜こうと、強く心に誓いながら、目を閉じて静かに聴き入っていた。

 歌が終わった。万雷の拍手が起こった。

 席に戻ってきた周志英に、ケ穎超は、「ありがとう!」と言って、ことのほか嬉しそうに手を差し伸べるのであった。歌は魂の発露であり、心をつなぐ懸け橋となる。
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2015年07月17日

革心66

革心66

 ケ穎超は、周志英が香港の出身であると聞くと、広東語で話し始めた。周恩来と結婚したあと、広東省で活動した経験をもつ彼女は、広東語も堪能であったのだ。

 母国語でない北京語と日本語を駆使して通訳に奮闘してきた周志英にとって、広東語を使えることで、どれほど気持ちが軽くなったか。生き生きとした表情で通訳を続けた。

 ケ穎超の語る広東語を日本語に訳す彼の言葉に、真剣に耳をそばだてていたのが、中日友好協会の孫平化秘書長や、中国側の通訳たちであった。皆、広東語がよくわからないために、周が訳す日本語を聞くまで、ケ穎超が何を話しているのか理解できないのである。

 ケ穎超は、山本伸一に言った。

 「山本先生は、一生懸命に若い人を育てようとされているんですね。それが、いちばん大事なことです。どんなに大変でも、今、苗を植えて、育てていかなければ、未来に果実は実りません。十年、二十年とたてば、青年は大成していきます。それなくして中日友好の大道は開けません。楽しみですね」

 孫平化たちは、周志英の通訳ぶりを、じっと見てきた。そして、しばしば、周に発音などのアドバイスをしてくれた。

 彼が日本で、日本語と北京語を猛勉強したとはいえ、中国の一流の通訳には、どちらの言葉もたどたどしく、心もとなく感じられていたのであろう。“山本会長は、どうして彼を通訳に使っているのだろう”と、疑問にも思っていたようだ。

 周志英も、実際に中国に来て、通訳としての力不足を思い知らされ、自信を失いかけていた。しかし、ケ穎超の話に、伸一の深い思いを再確認し、勇気が湧くのを覚えた。

 また、孫平化も、永遠なる中日の平和友好を願い、若い通訳を育成しようという伸一の心を知り、強く共感したという。

 孫平化らは、以後、周志英に、公式の場で使う言葉や表現などを、懇切丁寧に教えてくれるようになった。未来に果実を実らせたいと、伸一と同じ心で臨んでくれたのである。
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2015年07月16日

革心65

革心65

 食事の途中、廖承志会長の夫人・経普椿が、そっと夫に薬を渡した。ケ穎超は、その様子を温かい目で見つめた。 

 「廖承志は、良い看護婦≠ェついていて幸せですね」

 すると、経普椿が言った。

 「実は、いつも、ちゃんと薬を渡しているのに、帰って来たあとにポケットを見ると、そのまま入っていることが多いんです」

 「それでは、廖承志に、少し自主性を持つように、指導しないといけませんね」

 この言葉に、さすがの廖会長も、頬を赤らめた。姉にたしなめられた弟のように、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

 そのやりとりを見て、伸一は、ケ穎超が、ケ大姐(ケ大姉さん)≠ニ多くの人たちから慕われ、敬愛されている理由がわかる気がした。

 こまやかな気遣いと深い配慮があり、素朴で、ユーモアにあふれ、人を包み込む温かさ、明るさがある。それは、人民の解放のために、新中国建設に身を投じ、社会の不正や差別、そして、何よりも自己自身と戦い続けるなかで、磨き鍛え抜かれた、人格の放つ輝きといえよう。

 その美しさは、着飾り、外見を取り繕うことによる、時とともに失せていく美しさではない。人生の年輪を重ねれば重ねるほど、ますます輝きを放つものだ。

 人間の真実の美しさとは、魂の美である。それは、われらのめざす人間革命の道と、軌を一にする。

 ケ穎超は、今回、伸一の通訳として同行した、周志英にも気遣いの目を向けた。人民大会堂では、主に中国側の通訳によって語らいが行われたので、彼は、この時、初めて、ケ穎超と伸一の本格的な通訳を担当した。彼女は、周志英の使う中国語(北京語)を聞くや、すぐに尋ねた。

 「あなたは、香港の出身ですね」

 「はい。そうです」

 微妙な発音の違いから、北京語の通訳に不慣れなことや、出身地まで洞察していたのだ。
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2015年07月15日

革心64

革心64

 答礼宴のあいさつで、山本伸一は、関係者の厚情に包まれ、実り多き九日間を送れたことに謝意を表し、話を続けた。

 「今回、私どもは、多くの人民の生き生きとした姿のなかに、『四つの現代化』へのたくましい前進と、それが見事に結実していく様子を見ることができました。また、北京大学、復旦大学、上海の少年宮を訪れ、未来の世代が、すくすくと成長している様子も拝見することができました。日本に帰りましたら、こうした心に映じたすべての事柄を、できる限り、多くの人びとに伝えてまいります。

 そして、日中間の『金剛の道』『金の橋』を、人民と人民の友情と連携を、地道に、着実に、強く積み重ねて構築していきたいと思っております。日中友好の『第二章』ともいうべき新しき歴史を、信義と友誼を貫き通して、ともどもに綴っていきたいと念願する次第です。洋々たる未来へ、友好の手と手を携え、晴れ晴れと前進しようではありませんか」

 伸一は、最後に、列席者のますますの健康を祈念し、乾杯を提唱した。

 続いて、中日友好協会の廖承志会長があいさつに立った。彼は、伸一への感謝の思いを語ったあと、中日両国に平和友好条約は結ばれたが、真の友好関係の発展は、これからであると強調。両国の友好と友情が、年ごとに発展することを願っていると述べ、訪中団の帰路の安全を祈り、話を結んだ。

 平和友好の道もまた長征≠ナある。風雨の吹き荒れる時も、未来に向かって、信義の歩みを運び続けてこそ、栄光の踏破がある。

 食事が始まると、ケ穎超は言った。

 「食事がとてもおいしいですね。人民大会堂では、いつも同じ物が多いので、別の料理も食べたいと思っていたところなんですよ。願いが通じました。山本先生に感謝いたします。特に、今日のメニューは、西太后の晩年の食事を真似たもので、おばあさんに食べやすいように、柔らかく調理されています。私に、ぴったりの食事ですよ」

 飾らず、ユーモアあふれる言葉であった。
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2015年07月14日

革心63

革心63

 李先念副主席との会見が行われた十九日の午後六時半、中国側の関係者を招待して、山本伸一主催の答礼宴が開かれた。会場は、故宮博物院の北西に位置する北海公園の瓊華島にあるレストラン「仿膳飯荘」であった。

 北海公園は、現存する中国最古の宮廷庭園とされ、十世紀に建造されている。約七十ヘクタールといわれる公園の半分以上が人造の湖からなっており、蓮池もある。

 千年にわたって歴代王朝の御苑となってきたが、清朝滅亡後、一般に公開されるようになった。しかし、文化大革命の時には閉鎖され、この年の春から、再び開放されたという。

 一行が仿膳飯荘に到着した時には、夕日が空と湖面をオレンジ色に染め上げていた。伸一は、その美しさに目を見張った。

 彼には、日中の未来よ、かく輝け! 美しき友情で染め上げよ≠ニ、天が語りかけているように思えた。

 伸一と峯子は、レストランの入り口で、一人ひとりを出迎え、滞在中、お世話になった感謝を込めて、固い握手を交わした。

 答礼宴には、中日友好協会の廖承志会長や夫人の経普椿理事、張香山・趙樸初副会長、林麗韞理事、孫平化秘書長、北京大学の季羨林副学長、通訳や車両の運転担当者など、多くの人たちが参加してくれた。

 また、周恩来総理の夫人であり、全国人民代表大会常務委員会副委員長のケ穎超が招待に応じ、歓迎宴に続いて、再び出席してくれたのだ。国家的な指導者との会見は、滞在中に一度という慣例を破っての出席であった。

 席に着く時、伸一は、中央の席をケ穎超に勧めた。すると、彼女は固辞した。

 「それは、いけません。今日は、あなたがホスト役ではありませんか。私は、あなたに心からの祝福を申し上げるために、出席させていただいたのですから」

 その謙虚さ、気遣いに、彼は恐縮した。

 謙虚さは、高潔な人格の証である。それは、人への敬い、広い心、揺るがざる信念の芯があってこそ、成り立つものであるからだ。
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2015年07月11日

革心62

革心62

 李先念副主席との会見で山本伸一は、中国と米国の関係についても、率直に質問した。

 「国交正常化を前提として、中米条約のようなものを結ぶ考えは、おもちでしょうか」

 中米の国交については、一九七二年(昭和四十七年)二月に、ニクソン大統領が訪中。それまでの敵対関係に終止符が打たれ、国交正常化へ向けて、関係の緊密化に努めることになった。相互に連絡事務所を設置し、大使級の所長を置くなど、前進がみられた。

 七五年(同五十年)十二月にはフォード大統領が訪中し、両国は国交正常化に努力する意思を再確認している。七七年(同五十二年)一月、カーター大統領が誕生し、中米の国交樹立へ動きだすが、交渉は難航。先行きは不透明であるといえた。

 伸一は、日中の平和友好条約が調印された今こそ、膠着状態にある中米関係が正常化することを、強く願っていたのだ。

 伸一の問いに、李副主席は端的に語った。

 「国交正常化を前提とした中米条約を結ぶ用意はあります。これは相手のあることで、カーター大統領の胸三寸にかかっています」

 伸一は、両国の関係正常化を確信した。

 さらに彼は、「中国は、ジュネーブの軍縮委員会に参加するか」「社会主義民主化の基礎である法律整備について」「『四つの現代化』に呼応しての宗教政策」「核兵器廃絶への方途」など次々と質問し、意見交換した。

 会見の最後に、伸一は尋ねた。

 「日本に最も期待することはなんですか」

 「両国が仲良くすることです。われわれの世代だけでなく、子々孫々まで仲良くしていくことです。両国は戦争をしてはならない」

 語らいは一時間十分に及んだ。会見の模様は、「一万人の留学生派遣」(朝日)、「中米条約結ぶ用意」(読売)等の見出しで、新聞各紙が大々的に報じた。

 この直後、カーター大統領はワシントン駐在の中国連絡事務所長と接触。両国が国交樹立を電撃的に発表したのは、その三カ月後、十二月十六日(日本時間)のことであった。
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2015年07月10日

革心61

革心61

 山本伸一は、李先念副主席の話に、思わず身を乗り出していた。

 「大事なご意見です。それで、留学生の数は、何人ぐらいをお考えでしょうか」

 「留学生は数百にとどまらず数千、いや、一万人ほどになるかもしれません」

 「それは、日本だけの数でしょうか」

 「そうです。日本が受け入れてくださるのであれば、送りたいと思っています」

 「大賛成です。尽力させていただきます」

 文化大革命の間、知識人や学生は地方に追いやられ、十分な高等教育がなされなかった。十年余にわたる文革≠フ嵐は、ようやく収まりはしたが、「四つの現代化」に取り組むにあたって、深刻な人材不足に直面していた。伸一は、今こそ日本は、中国からの留学生を全面的に支援し、教育交流を実施する大事な時を迎えていると思った。

 ――日中の留学生交流の歴史は遠く、遥か千四百年前にさかのぼる。日本は、遣隋使、遣唐使として大陸に使節を派遣し、国際情勢や文化を学んだ。また、清朝末期から中華民国の時代にあたる、明治の後期から日中戦争の開戦まで、今度は、日本が、中国から多くの留学生を受け入れた。多い時には、一万人近い留学生が来日したという。

 終戦、そして、中華人民共和国の成立を経て、再び日本が正式に中国の留学生を迎えたのは、一九七五年(昭和五十年)のことであった。創価大学が、国交正常化後、初となる六人の留学生を受け入れたのである。 

 もし、李先念副主席の言葉が実現すれば、史上三度目の日中留学生交流の高潮期を迎えることになる。日本への留学は、中国の国家建設に役立つだけではない。青年たちが信頼に結ばれれば、政治や経済が困難な局面を迎えても、時流に流されない友情を育む、万代の友誼の土台となるにちがいない。

 そのためには、留学の制度を整えることはもとより、受け入れる日本人も、また、留学生も、さまざまな違いを超えて、友≠ニして接していこうとする心をもつことである。
posted by ハジャケン at 10:13| 山梨 ☁| 新・人間革命 革心 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

革心60

革心60

 帰国前日の九月十九日、山本伸一は、午前九時半から人民大会堂で、副総理でもある李先念党副主席と会見した。副主席とは初訪中の折、二時間余にわたって語り合っている。

 伸一は、激務の日々を送る副主席の健康を気遣い、こう語り始めた。

 「私は政治家ではありませんから、閣下も今日は、ゆっくりと、くつろぐようなお気持ちでいてください」

 そして伸一が、副主席の来日を希望し、その予定について尋ねると、今のところ、予定はないが、「私としては一度は行きたいと思っています」との答えが返ってきた。

 会見の会場に大拍手が響き渡った。

 さらに、文化大革命についての質問に副主席は、こう答えた。

 「社会主義の建設が階級闘争である限り、激動はあり得ます。しかし、今は、党も団結しています。闘争はやめてはならないが、今後は、こうしたかたちは取らないでしょう」

 また、現在、中国が進めている農業、工業、国防、科学技術の「四つの現代化」の柱は何かを尋ねた。

 「まず農業です。第二に工業です。この二つの現代化が、先進的な科学技術の基礎の上に築かれなければなりません。

 人間は、ご飯を食べなければ生きていけない。中国では、ご飯を食べる口が八億をはるかに上回ります。そのためにも、まず、農業の生産高を高めることが必要です。

 農業は国民経済の基礎であり、工業は国民経済の導き手です。工業がなければ農業も十分に発展しない。それには先進的な科学技術を必要とします。すべて、これを基礎にしないと現代的とはいえません」

 そして、日本から科学技術などを学びたいとして、こう語った。

 「留学生や研修生を貴国に送るとともに、こちらで講義をしていただくために、日本からも来ていただきたい」

 教育は、国家建設の礎である。教育の交流は、共に未来を築く共同作業である。
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2015年07月08日

革心59

革心59

 図書贈呈式に続いて、山本伸一たちは北京大学構内にある「臨湖軒」に招かれ、交歓のひと時をもった。日本語科の学生らが、沖縄民謡の「安里屋ユンタ」や、「故郷」を日本語で披露。教職員らの歓迎演奏もあった。

 その夜、宿舎の北京飯店に、四人の青年が訪ねて来た。八月に日本で交流を結んだ「中国青年代表団」の団長らであった。

 伸一は、団長を抱き、満面の笑みで迎えた。

 「ありがとう。再会できて本当に嬉しい。

 未来を考える時、いちばん大切なのが、青年との交流です。青年は最高の宝です。やがて新しい時代が来ます。二十年先、皆さんが立派になる姿が、はっきりと目に映ります」

 ――「青年よ! もしも美しき世界を実現したいなら、何よりも君自身を創造するのだ!」(注=2面)とは、文豪・巴金の励ましである。

 団長を務めた青年が、申し訳なさそうに口を開いた。

 「一カ月前に、私たちが創価学会本部や聖教新聞社を訪れた折には、思い出に残る、真心こもる大歓迎をしていただきました。それに対して、今回、多数の学会の代表団が来られたのに、私たちの歓迎は、あまりにもささやかです。お詫びしなくてはなりません」

 すかさず、伸一の声が響いた。

 「何をおっしゃいますか。歓迎というのは人数や形式ではありません。真心です。友情の炎がどれほど大きいかです。皆さんが、ここに、こうして来てくださったこと、また、そのお気持ち、お心遣いこそが、最高の真心であり、最大の歓迎です。今日は、美しい一幅の、友情の名画を頂戴した思いです。私は皆さんのことを、永遠に忘れません」

 青年は、心なしか目を潤ませて言った。

 「ありがとうございます。これからも多くの中国の青年が、創価学会を訪問することになると思います。先生が架けられた友好の橋を、さらに立派なものにしていきます」

 「頼みます。学会の青年は、誠心誠意、最大の真心をもって皆さんを歓迎します」

 若き魂と魂の結合が、未来を開く力となる。
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2015年07月07日

革心58

革心58

 十八日の午後四時過ぎ、山本伸一は、創価大学の創立者として北京大学を訪問した。

 四年前の訪中で、日中の文化交流のために、同大学へ五千冊の日本語書籍を贈呈したのに続いて、今回は、自然科学の専門書など千二百冊を寄贈することになっていた。

 周培源学長は日本訪問中で不在であったが、季羨林副学長、沈克〓副学長をはじめ、教授、学生の代表が盛大に歓迎してくれた。

 季副学長は、中国を代表する知識人であり、仏教学、言語学、インド学の碩学である。しかし、文化大革命では、「走資派」のレッテルを貼られ、残酷な暴行や拷問を受けた。石を投げられ、唾を吐きかけられ、筆舌に尽くせぬ迫害と屈辱にさらされた。学者として働き盛りの五十五歳から十年間、強制労働させられ、雑用にも酷使された。

 そんな逆境のなかでも、学問への情熱を失うことなく、四年の歳月をかけて、古代インドの大叙事詩「ラーマーヤナ」の翻訳を完成させている。サンスクリットの詩句を中国語の散文に翻訳し、紙切れに書きなぐっていった。それをポケットにしのばせて、労働の合間に、推敲作業を続けたのだ。

 人類の精神遺産を、人びとに、後世に伝え残すため、過酷な状況のなかでも全身全霊を注ぐ――そこにこそ、学問の心≠ェある。

 後年、伸一は、季羨林と、彼の教え子で法華経研究の権威・蒋忠新と共に、文明鼎談『東洋の智慧を語る』を発刊することになる。

 伸一は、北京大学を訪れるたびに、日本語を学ぶ学生たちと交流を重ねてきたが、この図書贈呈式の会場で、嬉しい再会があった。

 終了後、一人の女性が語りかけてきた。

 「先生。私は今、日本語の教師をしています。先生は、四年前に来学された折に、クイズのようにして質問を出され、日本語を教えてくださいました。それが忘れられません」

 「そう、教師になったの! すごいことです。本当に嬉しい。日中間の友好往来の懸け橋になってください」

 青年には、限りない希望の未来がある。
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2015年07月06日

革心57

革心57

 ケ穎超は、自分のことだけでなく、中日友好協会の林麗ウン理事も、全国婦女連合会の執行委員に就いたことを語った。林麗ウンは、周恩来総理と山本伸一が会見した際、通訳を務めた女性である。

 歓談の半ば、伸一と同じテーブルに着いていた孫平化秘書長が、二人の青年を手招きした。近づいてくる二人を見て、伸一は、懐かしさに、思わず両手を広げた。

 一九七五年(昭和五十年)に、新中国からの最初の国費留学生として創価大学に入学し、別科日本語研修課程を修了して帰国した、滕安軍と李冬萍の二人であった。

 滕安軍は外交部(外務省)に勤務し、「日中平和友好条約」調印のレセプションでは、黄華外相の通訳を務めたという。李冬萍は中日友好協会のスタッフとして活躍していた。また、一緒に留学した他の四人も、それぞれ中国と日本の友好を担う第一線で仕事をしているという。伸一は創立者として、留学生の健闘が嬉しかった。

 「みんな、頑張っているんだね。嬉しいです。皆さんは創価大学の、私の誇りです。日中友好の体現者です。私は皆さんを見守り続けます。ますますのご活躍を祈ります」

 彼は、二人と祝福の固い握手を交わした。その光景を、ケ穎超も、廖承志も、笑みをたたえて見つめていた。友好交流の種子は、ここでも大きく育っていたのだ。

 種は小さい。しかし、その種を丹念に育んでいくならば、やがて芽を出し、良き苗となり、いつか大樹へと育っていく。

 伸一は、未来のために、これからも友好のあらゆる種子を蒔き続けていくことを、あらためて心に誓うのであった。

   

 翌十八日は快晴であった。午前十時、伸一は、前日の歓迎宴の御礼に、中日友好協会を表敬訪問し、張香山副会長らと中国の現状を取り巻く諸問題や今後の教育・文化交流について語り合った。午後には、趙樸初副会長を訪ね、中国の宗教事情をテーマに懇談した。
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2015年07月04日

革心56

革心56

 歓迎宴は、和気あいあいとした雰囲気のなか、各テーブルで語らいが始まった。

 山本伸一は、ケ穎超に尋ねた。

 「『日中平和友好条約』の批准書交換のために、廖承志先生が、副総理のケ小平閣下と共に来日されると伺っています。大変に嬉しいことです。ケ穎超先生も、日本にいらっしゃいませんか」

 「ええ、日本へは、ぜひ行きたいと思います。日本の多くの友人の方々にお礼を申し上げるために、訪問したいと考えています」

 テーブルの同席者から大きな拍手が響いた。全国人民代表大会常務委員会副委員長であり、周恩来の夫人であるケ穎超が、訪日の意向を明らかにしたのだ。

 伸一は、「嬉しいです! いつごろお出でくださいますか」と重ねて尋ねた。

 「ケ小平副総理は、十月に日本へ行きますが、私がその団に参加すると、高齢でもありますので、皆様に迷惑をかけかねません。

 それで、周恩来も桜が好きでしたので、桜の一番美しい、満開の時に行きたいと思います。山本先生は、賛成されますでしょうか」

 「もちろん、大賛成です!

 創価大学には、周総理を讃える『周桜』が植樹されております。来日の折には、ぜひ、ご覧いただきたい。できれば、周総理と恋愛をされていた時のような気持ちで、日本を訪問していただければと思います」

 「まあ……。でも、恩来同志が日本にいた時は、まだ知り合っていませんでしたよ」

 笑いが広がった。ケ穎超は、伸一と峯子を見て、「今回は、日本の友人と友情を深めるためにまいります」と言って微笑んだ。

 さらに彼女は、この日閉幕した中国婦女全国代表大会で、宋慶齢らと共に、全国婦女連合会の名誉主席に就任したことを伝え、女性の幸せのために人生を捧げたいと語った。

 ケ穎超は七十代半ばであったが、人民に奉仕し抜こうとの気概は、いささかも後退することはなかった。思想、信念が本物であるかどうかは、晩年の生き方が証明するといえよう。
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2015年07月03日

革心55

革心55

 歓迎宴が始まった。

 主催者である中日友好協会の廖承志会長があいさつに立った。

 彼は、中国と日本の平和友好条約締結の佳節に訪中団を迎えた喜びを伝えたあと、両国の友好関係は新しいスタートラインに立ったとして、感慨を込めて語った。

 「この時にあたり、私は、私たちの敬愛する周恩来総理が中日国交樹立の時に言われた、『水を飲む時に、井戸を掘った人を忘れてはならない』という言葉の深い意味を、ひしひしと感じております。

 山本先生は、以前から、中日国交正常化のために尽力され、また、中日平和友好条約の早期締結のために、多くの努力を払われ、貴重な貢献をされてきました。私たちは、このことを、永遠に忘れることはありません」

 そして、「両国人民は、この友好の大橋を渡って、中日友好事業を絶えず発展させていきたい」と述べ、乾杯に移った。

 答礼のあいさつに立った山本伸一は、真心こもる歓迎に、深く謝意を表するとともに、周総理との思い出を語っていった。

 「総理は、亡くなる一年前にお会いしてくださり、日中の平和友好条約の早期締結を訴えておられたことが、昨日のことのように鮮明に思い出されます。総理がご健在であれば、どれほど喜ばれたことか……。

 今後、条約に盛られた平和を守る精神をどのように構築していくか――これこそが、この条約の意義を真実に総仕上げしていく、最も重要な課題であります。

 私どもは、尊き先人が切り開いた『金剛の道』『金の橋』を、さらに強く、固く、広く、長く構築していく努力をしていかなくてはならない。その道を、新しき未来の世紀の人びとに、立派に継承していくべき使命と責任があることを、痛感するものであります。

 その軸となる根本は、『信義』の二字であると申し上げたいのであります!」

 信義の柱あってこそ、平和の橋は架かる。信義がなければ、条約は砂上の楼閣となる。
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2015年07月02日

革心54

革心54

 「山本先生! 嬉しいです。お会いできる日を、指折り数えて待っていました!」

 九月十七日夜、訪中団一行の歓迎宴が行われる人民大会堂の会場入り口で、中日友好協会の廖承志会長は、こう言って大きく両手を広げ、山本伸一を迎えた。

 「廖先生! 『日中平和友好条約』の締結、大変におめでとうございます。遂に、廖先生の長年の苦労が報われましたね」

 伸一も、廖承志も、共に平和友好条約の締結を悲願として、苦労を重ね、行動し続けてきた。だからこそ、二人とも、その実現には、ひとかたならぬ喜びがあった。

 同じ目的に進み、互いの思いと労苦を知るからこそ、感動もまた分かち合える。立場は異なっても、それが同志≠ニいえよう。

 廖承志は、隣にいた、柔和な笑みをたたえた老婦人を紹介した。質素な濃紺の服に身を包んだ、この小柄な女性こそ、全国人民代表大会常務委員会副委員長であり、周総理の夫人として大中国を担う柱を支え続けてきたケ穎超その人であった。

 伸一は、彼女の差し出した手を、ぎゅっと握りながら言った。

 「初めまして山本伸一です。お会いできて光栄です。この日を楽しみにしておりました。

 周総理のご厚情に、深く感謝申し上げるとともに、亡き総理に、心から哀悼の意を捧げさせていただきます。ケ穎超先生におかれましては、中国人民のために、お体を大切になさり、いつまでもご健康でいてください」

 「ありがとうございます。私も、お会いできて嬉しく思っております」

 歓迎宴に先立って懇談が行われた。

 ケ穎超は、もの静かに語り始めた。

 「山本会長を団長とする皆様の、このたびの中国訪問を熱烈に歓迎いたします。

 中国と日本の平和友好条約の調印は、山本会長、また、公明党の方々などの多大なご尽力と切り離すことはできません。

 私は、皆さん方をお迎えして、嬉しいだけでなく、感謝の気持ちでいっぱいなんです」
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2015年07月01日

革心53

革心53

 趙樸初副会長の話に、山本伸一は頷いた。

 「おっしゃる通りです。仏の真意は何かを正しく知らなければ、混乱を招きます」

 趙樸初は、ニッコリして言った。

 「その点、創価学会の皆さん方は、仏法を正しく理解しています。それは、民衆のなかに、仏法を展開し、人びとの生き方に、その教えを根付かせていることに表れています。

 私は、四月に聖教新聞社を訪れた折、一九六七年(昭和四十二年)に行われた東京文化祭の記録映画を拝見しました。仏法を生き方の基調とした、活気あふれる、躍動した民衆の姿に感動を覚えました。

 本来、仏陀の教えは、民衆と結びついたものです。したがって、民衆、衆生のなかに、その教えを弘め、それが、人びとの人格を磨き、生活、社会を繁栄させるものになっていかなくてはいけません。

 そのことを、皆さんは、実践されてきた。この事実は、皆さんが仏法を正しく理解されていることの証明です。敬意を表します」

 趙樸初は、仏教が単に学問研究の対象にすぎなくなってしまったり、儀式化し、慣習にすぎないものとなったりしていることを、深く憂慮していた。

 それだけに、民衆のエネルギーが満ちあふれた創価学会の運動に、真実の生きた仏法の存在を感じていたようだ。

 新しき時代・社会を建設し、革新していくには、その担い手である人間自身の精神の改革が不可欠である。人間の精神が活性化していってこそ、社会も活性化し、蘇生していくからだ。宗教は、その人間の精神のバックボーン(背骨)である。

 定陵から訪中団メンバーは、万里の長城に向かったが、伸一と峯子は宿舎の北京飯店に戻った。彼には、新聞や雑誌など、さまざまな原稿の依頼があり、わずかな時間でも、その執筆にあてたかったのである。

 人生の大闘争といっても、一瞬一瞬の時間を有効に使い、日々、なすべきことを着々と成し遂げていくことから始まる。
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2015年06月30日

革心52

革心52

 山本伸一たち訪中団一行が、南京から北京空港に到着したのは、午後七時四十分(現地時間)であった。秋冷えのするなか、空港では、中日友好協会の張香山・趙樸初副会長、廖承志会長の夫人である経普椿理事をはじめ、多数の友人≠ェ出迎えてくれた。

 既に四度目となる宿舎の北京飯店に着くと、外は雷雨となった。

 翌十七日も、激しい雨が降り続いていた。 「天が大地を清めてくれているんだ。すばらしいじゃないか! 雨に感謝だよ」

 宿舎を出発する時、伸一は、皆にこう言って、笑いの花を咲かせた。一行が向かったのは、前年九月、天安門広場の南側に完成した毛主席記念堂であった。車を降りた時には、雨はあがっていた。

 記念堂には、毛主席の遺体が納められている。一行は献花して追悼の祈りを捧げた。

 その後、北京の北西約五十キロにある明の十三陵の一つである定陵を見学した。

 定陵を巡りながら、伸一と趙樸初副会長の語らいが弾んだ。

 趙副会長は、中国仏教協会の責任者でもあり、これまでにも、何度か仏教談議を重ねてきた。この年の四月にも、中国仏教協会訪日友好代表団の団長として来日し、聖教新聞社で語り合っていた。

 定陵で二人は、「一大事因縁」「五味」「開示悟入」などについて意見を交換したあと、法華経を漢訳した鳩摩羅什をめぐって、翻訳論が話題となった。趙樸初が言った。

 「仏法の翻訳という作業においては、言葉を言葉として伝えるだけの翻訳では『理』であると考えています。自身の生き方、行動を通して、身をもって示し伝えてこそ、『事』の翻訳といえるのではないでしょうか。

 また、大切なことは、仏法の教えの心を知り、それを正しく伝えることです。翻訳者が言葉の表層しかとらえられなければ、仏法の法理を誤って伝えてしまうことにもなりかねません。崇高な教えも、翻訳のいかんで、薬にもなれば、毒にもなってしまいます」
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革心51

革心51

 廖仲トが国民党の右派によって暗殺された時、子息の廖承志は十六歳であった。仲トの妻・何香凝は、自宅の門に「精神不死」(肉体は殺せても、精神を殺すことはできない)との横幕を掲げて抗議し、毅然として新中国の建設のために戦い抜いた。その彼女の闘争を、若きケ穎超は支え続けてきた。

 廖承志は、父の遺志を受け継ぎ、社会改革の道を歩み、長征にも加わった。しかし、なんと味方である紅軍からもスパイの嫌疑をかけられ、手枷をつけて行軍させられたこともあった。また、文化大革命では、理不尽な攻撃にさらされ、四年間の軟禁生活を送った。

 中国の要人たちの誰もが、激動の荒波にもまれ、苦渋の闘争を展開し、時に非道な裏切りにも遭い、肉親や同志を失っていた。

 革命の道は、あまりにも過酷であり、悲惨であった。そして、それを乗り越えて、新中国が誕生し、さらに、「四つの現代化」が開始されたのである。

 貧しさにあえぐ人民に幸せな生活を送らせたいというのが、廖仲ト、何香凝を活動に駆り立てた願いであったにちがいない。忘れてはならないのが、その革命の原点である。

 山本伸一たち訪中団一行は、「廖陵」で献花し、追悼の深い祈りを捧げた。

 伸一は、空を仰ぎながら、皆に語った。

 「ご両親の追善をさせていただいたことを聞けば、廖承志先生も、きっと喜んでくださるでしょう。

 私が、日中友好に全力を注ぐのは、こうした平和と人民の幸福を願った方々の志を無にしたくないからです。そのためには、経済的な利害や、政治的な駆け引きに翻弄されることのない、友誼と信頼の堅固な基盤を築かなくてはならないからです。

 どうか、その私の心を、永遠に忘れないでほしい。特に青年部、頼むよ」

 一行は、孫文の「中山陵」を訪れ、ここでも献花をし、冥福を祈り、題目を三唱した。

 そして、夕方には、空路、南京から最終訪問地の北京へ向かったのである。
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2015年06月27日

革心50

革心50

 山本伸一は、梅園新村記念館を見学しながら、妻の峯子に言った。

 「中国の改革のために奔走された周総理とケ穎超先生が、一緒に過ごされた時間は、世間一般の夫婦と比べれば、決して長くはなかったはずだ。しかし、互いに、深い愛情と尊敬、信頼で結ばれていたといわれている。それは、お二人が夫婦≠ニいうだけでなく、同志≠フ絆に結ばれていたからだろうね」

 夫婦≠焉A相手を見つめ合うだけの関係であれば、その世界は狭く、互いの向上も、前進も乏しい。しかし、二人が共通の理想、目的をもち、共に同じ方向を向いて進んでいく同志≠フ関係にあるならば、切磋琢磨し、励まし合いながら、向上、前進していくことができる。

 夫婦愛、そして同志愛に結ばれた夫婦の絆ほど、強く、美しいものはない。

 周恩来・ケ穎超夫妻の間には、「八互原則」があったという。

 一、互愛(互いに愛し合う)

 二、互敬(互いに尊敬し合う)

 三、互勉(互いに励まし合う)

 四、互慰(互いに慰め合う)

 五、互譲(互いに譲り合う)

 六、互諒(互いに諒解し合う)

 七、互助(互いに助け合う)

 八、互学(互いに学び合う)

 夫妻は、常に、この精神に立ち返って、愛と信頼の絆を、より強く結び合いながら、新中国の建設をめざしてきたのであろう。

 峯子は、伸一を見て言った。

 「ケ穎超先生にお会いしたら、お伺いしたいことが、たくさんありますね」

 伸一も、笑顔で、大きく頷いた。

 続いて訪中団一行が訪れたのは、南京東部郊外の紫金山であった。ここは、孫文の墓所「中山陵」があることで有名だが、まず伸一たちが訪れたのは、中日友好協会の廖承志会長の両親であり、孫文や周恩来らと共に新しい中国の建設のために戦った、廖仲ト・何香凝夫妻の墓所「廖陵」であった。
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2015年06月26日

革心49

革心49

 ケ穎超の母・楊振徳は、一九四〇年(昭和十五年)十一月、病のため、六十五歳で世を去る。身なりも質素で、清貧に甘んじ、雑草のごとく強く、いかなる迫害にも屈することのない、気高き信念の生涯であった。

 彼女は、娘にこう語ってきた。

 「人は周夫人と言ってきっと大事にしてくれるわ」「でもあなたは一生懸命学んで、努力して、周夫人としてではなく、穎超として尊敬される人になりなさい」(注1=2面)

 独立した人間であれ――それが、母の教えであった。

 ケ穎超が悲しみの淵に突き落とされた時にも、泣いても何も変わらないのだから、歯を食いしばってでも頑張るようにと、励ました。

 母親は、人生で最初の教師であり、娘にとっては、生き方の範を示す先輩である。

 フランスの作家アンドレ・モーロワは言う。

 「数々の失敗や不幸にもかかわらず、人生に対する信頼を最後まで持ちつづける楽天家は、しばしばよき母親の手で育てられた人々である」(注2=同)

  

 第二次国共合作のあとも、国民党には反共的な考えが根強く、共産党との対立が続いていた。周恩来、〓穎超にも、常に監視の目が光り、脅迫なども日常茶飯事であった。

 安徽省では、国民党軍が共産党軍を襲撃する事件も起こった。しかし、周恩来たちは、いきり立つ同志に、今は団結して抗日の戦いを進めることを懸命に説いた。

 四五年(同二十年)、日本の無条件降伏によって中国の対日戦争は終わる。ところが、それは新たな国共の内戦の始まりであった。

 周恩来とケ穎超は、梅園新村を事務所、宿舎として、国民党との和平交渉を行った。だが、和平はならず、内戦は激化し、悲惨な全面戦争となっていった。

 そして、共産党が国民党を制圧し、四九年(同二十四年)十月、中華人民共和国が成立するのである。一方、国民党の蒋介石は、台湾へ移っていった。
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2015年06月25日

革心48

革心48

 長征は肉体の限界を超えた行軍であった。

 食糧もほとんどなく、野草、木の根も食べた。ベルト等の革製品を煮てスープにした。

 敵の銃弾を浴びるなか、激流に架かるつり橋も渡った。吹雪の大雪山も越えた。無数の川を渡り、大草原を、湿地帯を踏破した。

 「奮闘すれば活路が生まれる」(注1)――それが周恩来の信条であった。

 そして、第一方面軍は、一九三五年(昭和十年)十月、陝西省保安で陝北根拠地の紅軍と合流。遂に、「長征」に勝利したのだ。しかし、総勢八万六千余人のうち、残ったのは、七、八千人とも、四千人ともいわれる。

 やがてケ穎超は、瑞金で別れた母の楊振徳が国民党に捕らえられ、「反省院」に入れられたことを知る。「反省院」といっても、思想犯が入れられる牢獄にほかならない。

 楊振徳がケ穎超の母であり、周恩来の岳母であることは知れ渡っている。拷問も受けているにちがいない。ケ穎超は、胸が張り裂けそうになるのを堪えながら、闘争を続けた。

 自分も、家族も、いつ命を奪われるかわからない――それが、革命の道であった。

 三七年(同十二年)七月、盧溝橋事件が起こり、日中戦争へ突入していく。共産党は、再び国民党と手を結び、国共合作をもって抗日戦を展開することになった。

 ケ穎超が母の楊振徳と再会したのは、三八年(同十三年)の冬であった。母子は、瑞金で別れて以来、四年ぶりに、武漢で対面したのである。

 「反省院」での過酷な歳月は、彼女をいたく老けさせていた。しかし、気丈な魂が光を失うことはなかった。

 ある時、「反省院」で彼女は、娘のケ穎超と娘婿の周恩来に、革命をやめるように手紙を書けと迫られた。だが、毅然と胸を張り、こう言い放ったという。

 「私は革命をやっている娘を誇りに思っている。殺すなら殺しなさい」(注2)

 ケ穎超という不世出の女性リーダーを育んだ最大の力は、この母にあったといえよう。
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2015年06月24日

革心47

革心47

 「長征」――それは、一九三四年(昭和九年)十月、蒋介石の国民党軍に、江西省瑞金の中央根拠地を包囲、猛攻撃された中国共産党軍が、陝西省北部へと移動していく大行軍をいう。大西遷ともいわれている。

 行程は、広西、湖南、貴州、雲南、四川などの各省を経て、約一万二千五百キロメートルにわたった。しかも、国民党軍と戦闘を続けながらの行軍である。

 毛沢東、朱徳、そして周恩来らの第一方面軍は、党職員や、その家族など合わせて八万六千余人であり、女性も、老人も、傷病者もいた。

 ケ穎超は、病に侵されながら、この長征に加わった。担架で運ばれての行軍であった。

 敵の攻撃を避けるために、移動は主に夜間に行われた。微熱、咳、血痰と、彼女の結核は癒えなかった。しかし、担架を持ってくれている青年たちのためにも、断固、生き抜き、人民の時代を築かねばならぬと固く決意した。

 彼女は、必死に考える。

 “今私にできることはないだろうか。私がすべきことは何だろう。そうだ、今最も大事なのは、精神的に負けないことだ、勇気を奮い起こすことだ、みんなを励まして、団結を固めることだ”(注)

 ケ穎超は、病と闘いながらも、努めて明るく振る舞い、自身が体験してきた闘争の数々を語り、皆を勇気づけ、希望の光を注いだ。闘争を開始した“初心”を確認し合い、同志の心を鼓舞した。

 彼女の人生の勝因は、自分に負けずに戦い続けてきたことにあったといえよう。病に侵され、担架に身を横たえ、窮地に立たされても、その心は、決して屈しなかった。

 彼女には、自身の闘争を先延ばしにして、“状況が好転したら、何かしよう”という発想はなかった。「今」を全力で戦い抜いた。

 いつか、ではない。常に今の自分に何ができるのかを問い、なすべき事柄を見つけ、それをわが使命と決めて、果たし抜いていくのだ。そこに、人生を勝利する要諦もある。

■引用文献

注 西園寺一晃著『ケ穎超』潮出版社

■主な参考文献

 西園寺一晃著『ケ穎超』潮出版社

 『人民の母――ケ穎超』高橋強・水上弘子・周恩来 ケ穎超研究会編著、白帝社

 ハン・スーイン著『長兄――周恩来の生涯』川口洋・美樹子訳、新潮社
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2015年06月23日

革心46

革心46

 一九三一年(昭和六年)、中国共産党は、中央根拠地を江西省の瑞金に置き、中華ソビエト共和国臨時中央政府を樹立する。だが、国民党軍は、大軍をもって、この中央根拠地を包囲したのだ。周恩来も、ケ穎超も、瑞金にあって苦闘を続けた。

 ケ穎超は、髪を切り、共産党の革命軍である紅軍の帽子、軍服に身を固めた。食糧も満足にないなかで、皆を励ましながら、働き通した。しかも、冗談を絶やさず、苦労を笑いのめすかのように、いつも周囲に、明るい笑いの輪を広げた。

 なぜ、彼女は、あれほど明るいのか――皆は不思議でならなかった。

 ケ穎超は、周恩来に、こう語っている。

 「私は根が楽天的なのよ。それに私たちが暗い顔をしていたら、みんなに伝染してしまうでしょう。今は苦しいけど、私たちの革命は先々光明に満ちているということを態度で示さなければいけないと思うの。みんなに勝利に対する確信を持ってもらいたいの」(注1)

 理想も、信念も、振る舞いに表れる。一つの微笑に、その人の思想、哲学の発光がある。

 国民党軍は、猛攻撃を開始し、拠点は次々と落とされていった。ケ穎超は、砲弾のなか、物資の運搬や傷病兵らの看護に奔走し、皆を激励し続けた。彼女も、彼女に励まされた女性たちも、自分の着ている衣服を脱いで傷病兵を包み、配給されたわずかな食糧を戦死した兵士の子どもたちに与えた。

 ケ穎超の体は、日ごとに痩せ細り、遂に大量に血を吐いて倒れ、高熱に浮かされた。立つこともできなかった。肺結核であった。当時は、「不治の病」とされていた。

 党は、中央根拠地の瑞金からの撤退を決めていた。母の楊振徳は、動けない傷病兵の看護のために残り、ケ穎超は、死を覚悟で紅軍の撤退作戦に参加する。

 母は告げた。「最後まで生きなさい、革命はあなたを必要としている」「命あるかぎり戦いなさい」(注2)と。娘は、数歩歩いては倒れ、よろめきながら「長征」を開始する。
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2015年06月22日

革心45

革心45

 孫文亡きあと、国民党に亀裂が走る。共産党を敵視する右派によって、孫文の遺志を継いで国共合作を推進してきた、国民党左派の中心であった廖仲トが暗殺された。彼は、中日友好協会の会長となる廖承志の父親である。

 ケ穎超は、廖仲トの夫人・何香凝を支え続け、夫人が推進してきた女性解放運動を大きく発展させていった。

 当時の中国には、南の広州に国民政府があり、北の北京に軍閥の政府があった。国民革命軍は北伐を開始した。周恩来は列強支配の中心地・上海に潜み、共産党の地下組織を指揮し、労働者を蜂起させる。制圧した上海に、蒋介石率いる国民革命軍が到着する。

 この上海で、国民党右派の蒋介石らは、反共クーデターを起こす。共産党員を次々と捕らえ、殺害していった。また、北伐の伸展にともない、国民党左派の主導で移された武漢政府に対して、蒋介石は南京に政府を樹立。国共合作にピリオドが打たれた。

 共産党への弾圧は激しさを増し、周恩来には、多額の懸賞金が懸けられた。広州にいたケ穎超の身も危険にさらされた。彼女は、母の楊振徳と共に変装して広州を脱出し、周恩来が身を潜めている上海へ向かった。

 上海で夫妻は再会できたものの、周恩来は、共産党の再建に奔走し、ほとんど一緒に過ごすことはなかった。

 一九二七年(昭和二年)八月、共産党は、周恩来の指揮のもと、南昌で蜂起する。だが、何倍もの力をもつ蒋介石軍の激しい追撃を受け、広東へ南下していった。

 周恩来は、この時、マラリアによる高熱で苦しみ、三日間も昏睡状態に陥っている。ようやく一命を取り留めて上海に戻るが、夫妻は、五年間にわたって地下活動を展開しなければならなかった。その間、多くの同志が殺されていった。裏切りにもあった。それでも、二人は、闘争を続けた。

 苦渋の忍耐の日々にあっても、一歩も引かず、赤々と闘魂を燃やし続ける人こそが勝利者であり、そこに、目的の成就もある。
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