2014年09月03日

求道 六十九

求道  六十九

西春別(にししゅんべつ)の個人会館を出発した山本伸一(やまもとしんいち)は、車で一時間ほど走り、午後四時過ぎ、十一年ぶりに釧路(くしろ)会館を訪問した。
飛行機に間に合うぎりぎりの時刻まで、釧路の同志(とも)と唱題し、語らい、励ましたのである。
夜、札幌(さっぽろ)の北海道文化会館に戻った伸一は、翌十七日には、再び厚田(あつた)の戸田記念墓地公園(とだきねんぼちこうえん)に向かった。
この厚田滞在中、第一回北海道合唱祭に出席したほか、北海道女子部教学大学校生との記念撮影などにも臨んだ。
さらに、わずかな時間を見つけては、会員の家庭訪問に力を注(そそ)いだ。
厚田村の望来(もうらい)や石狩町(いしかりちょう)の会員宅にも足を運び、懇談し、指導を重ねた。
一方、峯子(みねこ)は、十七日には、戸田城聖(とだじょうせい)と同級生であったという老婦人の激励や、厚田第一大ブロック、厚田第三大ブロックの婦人部総会へと走った。
二十日、二人は、札幌創価幼稚園を訪問したあと、活動の舞台を函館(はこだて)に移した。
函館文化会館での開館五周年記念勤行会や函館広布二十五周年の記念勤行会、函館研修道場での諸行事に出席し、寸暇を惜しんで会員宅の訪問や懇談を行った。
強行スケジュールの長旅を終え、伸一たちが東京の土を踏んだのは、六月二十三日夕刻のことであった。
この北海道指導は、道内(どうない)を東西に横断(おうだん)する、十六日間に及ぶ渾身(こんしん)の激励行であった。
共に記念撮影した人の数は約五千人、延べ二万人を超える会員と会い、励ましたのである。
このころ、宗門(しゅうもん)は、若手(わかて)の僧らが急先鋒(きゅうせんぽう)となって、衣(ころも)の権威(けんい)を振りかざし、各寺院(かくじいん)で常軌(じょうき)を逸(いっ)した学会批判(ひはん)を繰り返していた。
大聖人(だいしょうにん )の御遺命(ごゆいめい)である広宣流布(こうせんるふ)の大願(だいがん)に生きる仏子(ぶっし)を、“大聖人の末弟(まってい)”と名乗る僧がいじめ抜(ぬ)く。
伸一は、悪逆非道(あくぎゃくひどう)の濁世(じょくせ)なれば、全同志(ぜんどうし)の胸中(きょうちゅう)に、何ものをも恐れぬ真(しん)の信仰の炎をともそうと、わが身を燃やして戦った。
烈風(れっぷう)が猛(たけ)れば猛るほど、創価の正義の闘魂(とうこん)が、赤々と、強く、激しく燃え盛(さか)る――
それが広布誓願(せいがん)の勇者(ゆうしゃ)だ。 
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2014年09月02日

求道 六十八

求道  六十八

山本伸一(やまもとしんいち)は、深い感謝の思いをもって、谷沢千秋(たにさわちあき)と記念のカメラに納まった。
それから、居合わせた人たちと唱題し、出発前にも、皆で一緒に記念撮影をした。
その時、伸一は、「谷沢のおばあちゃん、どうぞ」と、千秋を隣に招いた。
彼女は、自分の来(こ)し方(かた)を振り返るように目を細め、感慨(かんがい)を込めて言った。
「信心のおかげで、学会と山本先生のご指導のおかげで、今は、もったいないぐらい、幸せなんです。感謝、感謝です」
感謝の心は、歓喜(かんき)を呼び覚まし、幸福境涯(きょうがい)へと自らを高めゆく原動力となる。
谷沢家では、その夜、千秋と息子の徳敬(のりたか)、そして徳敬の妻が、伸一から贈られた句(く)を見て、決意を嚙(か)み締(し)めていた。
「長者たれ」との言葉が、徳敬の心に、深く刻まれた。
必ず長者になる! 先生のご期待にお応えするんだ。
それには、自分の店だけでなく、地域全体(ちいきぜんたい)を活性化させなくては……
彼は誓(ちか)った。
働きに働いた。
懸命(けんめい)に祈り、知恵を絞り、オリジナルの土産品(みやげひん)の試作に取り組んだ。
「別海牛餅(べっかいべこもち)」「別海牛乳煎餅(ぎゅうにゅうせんべい)」「別海牛煎餅(べこせんべい)」と、何十品目もの新商品を、次々と開発していった。
そのなかから幾つもの商品がヒットし、飛ぶように売れていった。地域のスーパーやホテル、空港、デパートなどへも、販路(はんろ)が広がった。
また、ドライブインの建物も十二坪から二百十坪に増築した。
さらに、二百五十台収容の駐車場、土産品製造工場、二百五十人収容の食堂も造った。
文字通り、上春別(かみしゅんべつ)の、別海の、長者となったのである。
谷沢千秋は、亡くなる少し前まで、店で接客を続けた。
伸一との約束通り、看板娘(かんばんむすめ)≠ナあり続けた。そして一九九一年(平成三年)、大満足のなかに、八十九歳十一カ月の生涯の幕を閉じたのである。
誓い、決意こそ、願いを成就(じょうじゅ)する種子(しゅし)である。
励ましとは、心の大地を耕(たがや)し、心田(しんでん)に、その種子を植(う)える作業である。
posted by ハジャケン at 10:37| 山梨 ☁| 新・人間革命 求道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月01日

求道  六十七

求道  六十七

山本伸一(やまもとしんいち)は、谷沢徳敬(たにさわのりたか)を見つめて言った。
「すばらしいお母さんですね。
あなたは、最高の母親をもったんです。
お母さんとは、あとで記念撮影をしますので、ここでは、あなたと二人で写真を撮りましょう」
「いや、あの……。すみません」
徳敬がためらったのは、伸一が背広にネクタイを締めているのに、自分がネクタイもしていないことを申し訳なく思ったからだ。
二人が並ぶと、同行していた「聖教新聞」のカメラマンがシャッターを押した。
「お元気で。また、お会いしましょう」
伸一は、急いで、谷沢千秋(ちあき)らの待つ、西春別(にししゅんべつ)の個人会館へ向かった。
徳敬は、夢を見ているような思いにかられた。
個人会館に到着するや伸一は、「谷沢のおばあちゃんは、いらしていますか」と尋(たず)ねた。
和服姿の凜(りん)とした老婦人が手をあげた。
「はい、私です。長旅、お疲れでございましょう。
私は、先生とお会いできるこの時を、心から、心から待っておりました……」
老婦人の目が、見る見る潤(うる)んでいった。
伸一は、握手を交わしながら語った。
「今、お宅に、おじゃましてきました。
おばあちゃんが縫ってくださった座布団にも、座らせていただきました。
そして、お題目を唱えてきました。湯飲み茶碗もありがとう」
「願いが、遂に叶いました。こんなに嬉しいことはありません……」
「私もです。おばあちゃんは、お幾つ?」
「七十七歳です」
「まだまだ、お若い。うんと、長生きしてください。
いつまでも、若々しく、ドライブインの看板娘(かんばんむすめ)≠ナいてください」
「まあ!」と言って、千秋は、弾(はじ)けるように笑った。
清らかな求道心(きゅうどうしん)によって潤(うるお)された肥沃(ひよく)な生命に、美しき笑みの花は咲き、幸(さち)の果実はたわわに実る。
伸一は、原稿用紙に一句を認(したた)めて贈った。
「いざ祈り 上春別(かみしゅんべつ)の 長者(ちょうじゃ)たれ」
谷沢一家に、地域で信仰の実証を示してもらいたいという、伸一の熱願(ねつがん)の句であった。
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2014年08月30日

求道 六十六

求道  六十六

谷沢徳敬(たにさわのりたか)は、山本伸一(やまもとしんいち)に語った。
「母は、山本先生をわが家にお迎えするのだと言って、前々から準備し、祈り続けておりました。
二階にお上がりください」
徳敬は、伸一を、座談会などの会場として提供している二階へ案内した。
仏壇の前には、真新しい紫色の座布団が置かれていた。
「母が、『先生に使っていただくのだ』と言って、縫ったものです」
老いた母親が、真心を込め、目をしばたたかせながら、一針一針縫い上げてくれたのであろう。
伸一は胸が熱くなった。
彼は、徳敬に言った。
「では、一緒にお題目を三唱しましょう。
真心にお応えするために、この座布団を使わせていただきます」
伸一は、感謝の思いを込め、谷沢一家の繁栄を願い、題目を唱えた。
千秋は、伸一を迎えることを思い描いて、部屋の畳替(たたみが)えもし、湯飲み茶碗等も用意していたという。
彼女は、伸一とは、会ったこともない。
しかし、心のなかには、常に、信心の師としての伸一がいた。
よく、「もっと、もっと、山本先生のお心を知る自分になりたい」と語り、日々、真剣に唱題を重ねてきた。
そして、今日も弟子らしく戦い抜きました≠ニ、心の師に、胸を張って報告できる自分であろうとしてきた。
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)は、「若(も)し己心(こしん)の外(ほか)に法(ほう)ありと思はば全(まった)く妙法(みょうほう)にあらず」(御書三八三n)と仰せである。
師もまた、厳(げん)として己心にいてこそ仏法である。
師弟(してい)の絆(きずな)の強さは、物理的な距離によって決まるのではない。
己心に師が常住(じょうじゅう)していてこそ、最強の絆で結ばれた弟子であり、そこに師弟不二の大道があるのだ。
伸一は、谷沢千秋の真心(まごころ)を実感しながら、「ありがたいね。本当にありがたいね」と、何度も口にした。
徳敬は、二階の窓を開け、指をさした。
「あそこの建物が、ドライブインです。すべて母が、元気に取り仕切っています」
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2014年08月29日

求道 六十五

求道  六十五

谷沢千秋(たにさわちあき)の弘教(ぐきょう)は、やがて、五十世帯を超えることになる。
また、彼女は、学会員に会うと、常にこう言って励ましてきた。
「どんなに厳(きび)しい冬でも、必ず春が来るではありませんか! 苦しい日が、いつまでも続くわけがありません」
一九七一年(昭和四十六年)、谷沢一家の営(いとな)む雑貨店の前の道が整備され、標津(しべつ)から釧路(くしろ)に至る国道二七二号線として全面開通した。
交通量が増加し、店の利用客も増えた。
翌年、雑貨店から二百メートルほど離れた国道沿いにドライブインを開いた。
その店の一切を、千秋が担うことになった。
彼女の夫は、七六年(同五十一年)に、安らかに世を去った。
子どもは末子(ばっし)の徳敬(のりたか)のほかに三人おり、それぞれ道東(どうとう)で、教育界や建築業界などで活躍していた。
千秋と徳敬は、二つの店の収入で、生活に窮(きゅう)することはなかった。
しかし、徳敬は、過疎(かそ)のこの地で、このまま、この商売を続けていいのか、迷っていた。
店を継ぐ決意自体が、固まってはいなかったのである。
雑貨店の谷沢商店を訪れた山本伸一(やまもとしんいち)は、徳敬の心を見通したかのように語っていった。
「人口も少ない別海(べつかい)の地で、商店を経営していくことは難しいかもしれません。
でも、人間の知恵は、力は無限(むげん)なんです。
それを引き出していく根源(こんげん)の力が信心です。
広宣流布(こうせんるふ)のためのわが人生であると心を定め、唱題(しょうだい)し、創意工夫(そういくふう)を重ねていくならば、必ず道は開けます」
そして、伸一は、徳敬の手を、ぎゅっと握り締めて言った。
「どうか、この上春別(かみしゅんべつ)の、別海の、大長者になってください」
「はい!」
徳敬は、決意のこもった声で答えた。
この時、彼は、心にわだかまっていた迷いが、霧が晴れるように消えた思いがした。
伸一は、谷沢一家には、別海の同志(とも)のためにも、必ず活路(かつろ)を開き、地域に勝利(しょうり)の実証(じっしょう)を示してほしかったのである。
posted by ハジャケン at 16:11| 山梨 ☁| 新・人間革命 求道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月28日

求道 六十四

求道 六十四

創価学会に入会した母親の谷沢千秋は、息子の徳敬以上に、真剣に信心に励んだ。
彼女は、秋田県の生まれで、幼少期に両親と共に北海道へ渡った。
小樽、函館、札幌などを転々とした。十三歳の時に両親と生き別れになり、北見の親戚の家に身を寄せた。
愛情、温かい家庭とは、無縁な青春時代であったといってよい。
十八歳で結婚したものの、夫は病弱であった。肝臓、腎臓、心臓……と病み、入退院の連続であった。
生活費の大半は、医療費に消えた。家計は、いつも火の車であった。
”自分の人生は、なぜ、不幸にまつわりつかれているのか……”
そんな疑問が頭をよぎった。草原の上に広がる果てしない大空を見ながら、”翼があれば、何もかも捨てて、どこかに飛んでいってしまいたい”と思うこともあった。
そのうえ、柱と頼む息子の徳敬が、アルコール依存症になってしまったのだ。
千秋の心は、来る日も、来る日も、暗雲に閉ざされていた。
そのなかで、日蓮大聖人の仏法と巡り合ったのである。「必ず宿命は転換できる」「誰もが幸福になるために生まれてきた。それを実現できるのが仏法である」──その話に、彼女は、信心にかけてみようと決意した。
懸命に唱題した。「聖教新聞」に掲載されている山本伸一の指導を貪るように読み、弘教にも挑戦した。
六時間、七時間と歩いて、仏法対話や同志の激励に出かけた。
信心を始めると、家業の雑貨店の客が減っていった。学会への偏見に基づく流言飛語を真に受けた人たちが、
店に来なくなってしまったのである。
“難だ! 御書に仰せの通りだ!”
彼女の胸には、むしろ、仏法への確信と、歓喜の火が燃え盛った。
彼女は、日々、心で伸一に語りかけた。
”先生! 私は負けません。必ず幸せになってみせます。どうか、ご安心ください!”
師弟の道は、わが胸中にある。
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2014年08月27日

求道 六十三

求道 六十三

 谷沢千秋の子息・徳敬は、四十代半ばの壮年であった。初夏の太陽が照りつける国道を見ながら、ワイシャツ姿で雑貨店の店番をしていた。すると、乗用車が止まった。一人の男性が息を弾ませて駆けてきた。顔見知りの北海道長の高野孝作であった。
 「谷沢さん! 山本先生が来られたよ」
 徳敬は、高野の言っていることの意味が、のみ込めなかった。
 「はあ?」と、聞き返した時、山本伸一の「おじゃましますよ」と言う声がした。
 「よ、ようこそ、おいでくださいました」
 口ごもりながら、彼は答えた。
 「徳敬さんですね。いつも、お世話になっています。お母さんの千秋さんは、いらっしゃいますか」
 「それが、この先の個人会館に行っております。あそこで、山本先生をお迎えするのだと言って、喜んで出ていきました」
 「そうですか。では、このあとで、お会いできますね。ところで、お仕事は順調ですか」
 「……頑張っております」
 徳敬は、母の千秋と共に、この雑貨店とドライブインを経営していたが、どこか、力を注ぎ切れぬものがあった。
 もともと彼は、雑貨店を継ぐつもりなど全くなかった。獣医を志し、十勝にある農業高校の畜産科に学んでいたが、胸膜炎にかかってしまった。進路の変更を余儀なくされ、教員の免許を取り、小学校の教壇に立った。だが、雑貨店を営む父が腎臓病で倒れた。不本意ながら、自分が店を継ぐしかなかった。
 獣医への夢が破れた悔しさと悲哀を、夜ごと酒で紛らせた。アルコール依存症になり、入退院を繰り返した。
 経済的な困窮はなくとも、精神が満たされなければ、魂は飢餓にさいなまれる。心を豊かに、強くするなかに、人生の幸福はある。
 そのころ彼は、帯広にいた兄の勧めで、藁にもすがる思いで入会した。
 父も、母も、続いて信心を始めた。一九六〇年(昭和三十五年)のことであった。
posted by ハジャケン at 10:43| 山梨 ☁| 新・人間革命 求道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月26日

求道 六十二

求道  六十二

勤行会を終えた山本伸一(やまもとしんいち)は、直(ただ)ちに車で北海道研修道場を出発した。
札幌(さっぽろ)に戻るため、再(ふたた)び百四十キロの道のりを、釧路空港(くしろくうこう)へと走った。
海岸沿(かいがんぞ)いの国道に出ると、北方四島の一つである国後島(くなしりとう)が見えた。
沖縄本島よりも大きな島で、標津(しべつ)から二十四キロほどの距離にある。
伸一は、島影を見つめながら、日ソの平和条約の締結(ていけつ)と領土問題の解決のため、一民間人として尽力していこうと決意しつつ、心で唱題した。
海岸沿いを北上した車は、標津町で左折し、国道二七二号線に入った。
道の左右には、広々とした牧草地帯が続いていた。
車は、緩やかなアップダウンを繰り返しながら、緑の大地を貫く国道を快走していった。
釧路に行くには、中標津町(なかしべつちょう)を抜け、再び、別海町(べつかいちょう)に入ることになる。
伸一たちは、往路(おうろ)に立ち寄った西春別(にししゅんべつ)の個人会館を再び訪問することにしていた。
近隣(きんりん)の会員たちが集まると聞いたからだ。
車が、西春別に隣接する上春別(かみしゅんべつ)へ入った時、同乗していた田原薫(たはらかおる)が言った。
「この国道沿いに、雑貨店とドライブインを営む、谷沢徳敬(たにさわのりたか)さんという壮年とお母さんがおります。
雑貨店の二階を、会場に提供してくださっています。
母親の千秋(ちあき)さんは、七十代後半ですが、大変にお元気で、ドライブインの方を、すべて切り盛りされているんです。
草創期(そうそうき)から、地道に地域広布の開拓に取り組まれてきた、強い求道心(きゅうどうしん)をおもちの方です。
このお母さんは、『山本先生をわが家にお呼びしたい。
それが私の夢です』と言われ、ずっと祈ってこられたそうです」
伸一の胸に、感謝の思いがあふれた。
「ありがたいことです。御礼のごあいさつに伺いましょう。申し訳ないもの……」
誠実は、即行動となって表れる。
どんなに疲れていようが、機会(きかい)を逃さず、全力で友を励ます――
彼の、そのひたぶるな生き方が、創価の絆(きずな)をつくり上げてきたのだ。
posted by ハジャケン at 10:06| 山梨 ☁| 新・人間革命 求道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月25日

求道 六十一

求道 六十一

別海指導最終日の十六日、昼前には、青空が広がった。気温も二二度を超えた。
北海道研修道場には、前夜に開催が決まった勤行会に参加するため、別海、中標津、標
津、羅臼の友が、喜び勇んで集って来た。
山本伸一と会うのは、初めてという人がほとんどである。役職がないために、幹部会等
には参加したことのない壮年や青年、日ごろは留守を守っている年配者、幼子を連れた若い母親……。どの顔にも笑みが光っていた。
なかには、未入会の友人の姿もあった。
当初、予定していた研修道場での主要行事は、前日で終了していたため、ほんの一部の
運営役員しか残っていなかった。
そこで、最高幹部が、受付や場内の整理を担当することになった。
伸一は、最高幹部らに言った。
「さあ、合掌する思いで、仏子である皆さんをお迎えしよう。それが本来の姿だもの」
やがて、勤行会が始まった。勤行、幹部あいさつなどのあと、伸一は語った。
年配者には「長寿と悔いない充実した人生を」と念願。若い婦人部には「未来の宝であ
る子どもさんを忍耐強く、立派に育てていってもらいたい」と望んだ。
青年部には「毎日、少しでも御書を読む習慣をつけ、強い信心と求道心をもち、地域の立派なリーダーに」と指導。
壮年部には「地域社会の柱である自覚を忘れず、御本尊とともに生き抜き、信仰と生活力、強い生命力で、一家を守りきっていただきたい」と訴えた。
最後に、皆が研修道場を守り、尽力してくれていることに深謝し、共々に、一段と成長した姿での再会を約した。
伸一は、あいさつのあとも、さらに参加者の中に入り、励ましの言葉をかけていった。
連日の指導・激励で、彼の体は著しく疲労していた。しかし、それを、はね返す活力がみなぎっていた。
人を懸命に励ます利他の実践によって、自らの魂が鼓舞され、勇気が、歓喜が、湧き上がるのである。

北海道縁の思想家・内村鑑三は言明する。
「自己に勝つの法は人を助くるにあり」(注)
posted by ハジャケン at 11:18| 山梨 ☁| 新・人間革命 求道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月23日

求道  六十

求道  六十

幹部会に引き続いて、北海道研修道場の広場で、「燎原友好(りょうげんゆうこう)の集い」が行われた。
空は晴れ、鮮やかな緑の光彩(こうさい)が目に染みた。
合唱あり、勇壮(ゆうそう)な空手の演武(えんぶ)あり、民謡踊りあり、和太鼓(わだいこ)の演奏あり、野点(のだて)ありの、楽しいひと時となった。
山本伸一(やまもとしんいち)は、終始、皆の輪の中に入り、対話を重ねた。
婦人部の合唱団の名前をつけてほしいと頼まれれば、「白夜(びゃくや)合唱団」と命名。
さらに、皆が喜んでくれるならと、自らピアノを演奏した。
また、参加者が釧路(くしろ)から貸切バスを連ねて来たことを知ると、運転手の労をねぎらい、野点の席に招くのであった。
伸一は、多くの参加者と、直接、語り合い、握手し、共にカメラに納まった。
全員に、忘れ得ぬ思い出をつくってもらいたい。
発心の原点としてもらいたい≠ニ、一期一会の思いで奮闘したのである。
そして、峯子(みねこ)と一緒に、バスを見送った。
「ご苦労様! お元気で! 必ずまた、別海にまいります」
参加者は、「先生! 先生!」と、口々に叫びながら、腕もちぎれんばかりに手を振るのであった。
彼もまた、最後のバスが見えなくなるまで、盛(さか)んに手を振り続けた。
この夜、伸一は、標津町(しべつちょう)の学会員が営む食堂に足を運び、地元のメンバーと懇談した。
その折、一人の壮年が、懸命に訴えた。
「先生、お願いがあります! 私は、こうして先生にお目にかかることができましたが、まだまだ、お会いできない人が、たくさんおります。
どうか、そういう人たちが、お会いできる機会を設けてください」
「わかりました。それは、私の望みでもあります。
明日、札幌に戻りますので、出発前に勤行会を行うことにしましょう。
正午に研修道場へ来ることができる方は、全員、お呼びください」
ビクトル・ユゴーは叫んだ。
「黙ってはならない、疲れてはならない、止ってはならない」(注)
――力の限り、語り、動き、戦い続ける。そこに、広布の前進もある。


(注)「追放」(『ユーゴー全集九巻』所収)神津道一訳
ユーゴー全集刊行会=現代表記に改めた。
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2014年08月22日

求道 五十九

求道  五十九

別海滞在(べつかいたいざい)三日目の十五日、山本伸一(やまもとしんいち)の熱は、いくらか下がっていた。
この日は、午後一時前から、釧路圏(くしろゾーン)と道東(どうとう)圏の支部長・婦人部長らが参加し、北海道幹部会(ほっかいどうかんぶかい)が開催された。
幹部会では、出来上がったばかりの、支部長・婦人部長バッジの授与式(じゅよしき)が行われた。
全国で初めてとなる授与である。
このバッジは、支部制発足(せいほっそく)の際に製作が発表されたもので、桜の花びらのなかに八葉(よう)の蓮華(れんげ)がかたどられていた。
伸一は、全支部長・婦人部長待望のバッジを、風雪(ふうせつ)に耐えながら、求道(きゅうどう)の炎を燃やしてきた、日本本土の最東端(さいとうたん)の地で戦う凜々(りり)しきリーダーたちに、まず授与しようと、首脳幹部に提案。
決定をみたものである。
授与式の折、彼は自ら、代表の背広の襟にバッジをつけた。
大拍手が起こった。
伸一は、この極寒(ごっかん)の地方で妙法(みょうほう)を唱(とな)え、弘(ひろ)め、懸命(けんめい)に激励に走るわが同志に、地涌(じゆ)の菩薩(ぼさつ)の出現を実感していた。
その瞳に、濁世(じょくせ)を照(て)らす尊貴(そんき)なる仏の慈光(じこう)を見る思いがした。
伸一は、別海訪問初日、愛する友に、万感の思いを込めて歌を贈っている。
  
 別海の 天地を走る 友ありき
      幸の風をば 共々おくらむ
  
幹部会のあいさつで彼は、「我等(われら)が居住(きょじゅう)の山谷曠野皆皆常寂光(せんごくこうやみなかいじょうじゃっこう)の宝処(ほうしょ)なり」(御書七三四n)の御文(ごもん)を拝(はい)して訴(うった)えた。
「どこであろうが、私たちが御本尊を持(たも)って、広宣流布(こうせんるふ)のために活躍(かつやく)するところは、即(そく)常寂光の宝処であり、仏国土(ぶっこくど)となるのであります。
したがって環境(かんきょう)がどうあれ、自分が今いるところこそ、人間革命、宿命転換(しゅくめいてんかん)の場所であり、仏道修行(ぶつどうしゅぎょう)の道場(どうじょう)なのであります。
そして、そこが、幸福の実証を示していく舞台なんです。
どうか、今いる場所で勝ってください。
信頼の大樹(たいじゅ)に育ってください。
それが、大仏法(だいぶっぽう)の正義(せいぎ)の証明(しょうめい)となるからです」
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2014年08月21日

求道 五十八

求道  五十八

懇談会には、経済苦と格闘している大ブロック長もいた。
彼の経営していた水産加工の工場は、前年、アメリカとソ連が自国の漁業専管水域(ぎょぎょうせんかんすいいき)を二百カイリとし、実施に踏み切ったことから大きな打撃を受けた。
経営は不振となり、やむなく工場を畳(たた)み、山菜(さんさい)を採(と)って塩漬けにしたものなどを販売し、生計を立てていた。
子どもは六人で、息子二人が創価大学に在学しており、末の娘は、まだ小学校の三年であった。
彼は、この子も、やがて創価の学舎(まなびや)で学ばせたい≠ニ、歯を食いしばり、奮闘していたのである。
山本伸一(やまもとしんいち)は、大ブロック長に語った。
「ここから、子どもさんを創価大学に送り出してくださったんですね。ありがとう。
親御(おやご)さんのその真心は、必ずお子さんに通じます。
皆、立派に育ちますよ。
苦労したご一家から、偉大な民衆の指導者が出るんです。
息子さんとは、遠く離れていても、お題目を送ってあげれば、生命はつながります。
また、商売は、工夫(くふう)・研究しながら、地道(じみち)に頑張っていくことです。
どうにかなるだろうなどと、甘く考えてはいけません。
信用と信頼を、着実に勝ち得ていくことが大事です」
皆が過酷(かこく)な状況のなかで、懸命(けんめい)に信心に励み、勝利の実証(じっしょう)を勝ち取る。
その積み重ねが難攻不落(なんこうふらく)の創価の大城(だいじょう)を築いてきたのだ。
伸一は、なんとしても、この一家を応援したかった。
個人的に、一斗缶(とかん)に入った山菜の塩漬け二十缶を購入した。
「製品ができた時に、少しずつ送ってくだされば結構です。
急ぐ必要はありません。
ともかく、何があっても、絶対に、信心の道を見失ってはなりませんよ」
一人の人が、この一家が立ち上がれば、標津(しべつ)まで来た意味はある
伸一は、真剣勝負(しんけんしょうぶ)の激励を続けた。
学会員が営む喫茶店にも足を運び、対話を重ねた。
彼の背筋(せすじ)に悪寒(おかん)が走った。
体が震えた。
この日、研修道場に戻って体温を測ると、三八度五分であった。
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2014年08月20日

求道 五十七

求道 五十七

山本伸一は、六月十四日夕刻には、北海道研修道場開設五周年を記念する勤行会に出席した。
開会前、彼は、屋外で参加者を出迎え、集って来た、根室、厚岸の二本部のメンバー一人ひとりに声をか
けた。
「ようこそ! お会いできて嬉しい」
「本当にご苦労様です」
「お達者で! ご長寿をお祈りします」
肩を抱き、握手を交わし、そして、共に記念のカメラに納まる。”今しかない!”と、
必死の思いで、伸一は、皆を激励し続けた。
開会となった勤行会で、彼は訴えた。
「一人の人を、心から慈しみ育てようとする慈愛の精神に立った行動によってのみ、自身の信心の功徳を無量に開花させていくことができるんです。
大切なことは、自行化他にわたる実践です。
その行動を、勇んで起こされた皆様方にこそ、日蓮大聖人の大精神が脈打っていると、断言しておきます」
この勤行会終了後、伸一は、峯子と共に、標津町を訪れた。
学会員が経営する食堂で、地元の功労者らと懇談するためであった。
体調不良に悩む支部長には、健康管理の基本を語るとともに、信心の在り方について懇々と語っていった。
「まず、題目を唱え抜いていくことです。広宣流布という最も崇高な大目的を心にいだき、わが使命を果たし、走り抜くために、”健康な体にしてください”と祈ることです。
そこに大生命力が涌現するんです。
学会のすべての役職には、広宣流布推進のための重責がある。その役職を全うしていくことは大変かもしれない。
しかし、あえて労苦を担っていくなかに、より大きな功徳があり、宿命の転換もあるんです。
役職を疎かに考えてはなりません。幸福への、わが使命の大道ととらえ、勇気と情熱をもって活動していくことです」
伸一は、真剣だった。烈風に一人立ち、妙法の旗を掲げて、懸命に戦う同志である。一瞬に全生命を注ぐ思いで、彼は指導した。
posted by ハジャケン at 10:10| 山梨 ☁| 新・人間革命 求道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月19日

求道 五十六

求道  五十六

菅山勝司(すがやまかつじ)は、牛舎(ぎゅうしゃ)に次いで、サイロ、二階建てのブロック造りの住居を完成させた。
農機具も中古を購入し、自分で修理をしながら使った。
飼料(しりょう)も自給(じきゅう)に努め、牧草を研究し、栄養価の高い草を育てた。
見事な黒字経営となった。
人びとの奇異(きい)の目は、感嘆(かんたん)と敬意(けいい)の目へと変わった。
開墾(かいこん)も進め、六十ヘクタールの牧草地をもつようになり、当初、数頭にすぎなかった牛が、搾乳牛(さくにゅうぎゅう)五十頭、育成牛(いくせいぎゅう)二十頭にまでになった。
牛乳の衛生管理にも努力を重ね、優秀賞も受けるにいたったのである。
別海(べつかい)の北海道研修道場で、山本伸一は、菅山に尋(たず)ねた。
「地域が広いから、活動も大変でしょう」
「走行距離は計算していませんが、オートバイ六台、車は五台を、乗りつぶしました。
別海の幹部は、皆、そのぐらい走っていると思います。
メンバーと会うためでしたら、零下二○度ぐらいは、なんでもありません」
活動の帰りに吹雪(ふぶき)になり、土管(どかん)の中で一夜を過ごした人や、部員宅を訪問し、吹雪のために三日も帰れなかった人もいるという。
別海での活動は、大自然との闘いなのだ。
「私は、『人間革命の歌』の『吹雪に胸はり いざや征(ゆ)け』の一節が、大好きなんです」
菅山は、こう言って微笑(ほほえ)んだ。
「まさに、その通りの実践だね」
それから伸一は、同行の幹部に語った。
「誰が広宣流布(こうせんるふ)を進めてきたのか。
誰が学会を支えてきたのか――
彼らだよ。
健気(けなげ)で、一途(いちず)で、清らかな、菅山君たちのような無名無冠の王者≠ナあり、庶民の女王≠セ。
ある人は貧しく、ある人は病身(びょうしん)で、辛(つら)く、厳(きび)しい環境のなかで、時に悔(くや)し涙を流し、時に慟哭(どうこく)しながら、御本尊(ごほんぞん)を抱き締(し)め、私と共に広宣流布に立ち上がってくださった。
自(みずか)ら宿命(しゅくめい)の猛吹雪(もうふぶき)に敢然(かんぜん)と挑みながら、友を励まし、弘教(ぐきょう)を重ねてこられた。
その方々が、広宣流布の主役です。
末法出現(まっぽうしゅつげん)の地涌(じゆ)の菩薩(ぼさつ)です。学会の最高(さいこう)の宝(たから)なんです」
posted by ハジャケン at 12:58| 山梨 ☀| 新・人間革命 求道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月18日

求道  五十五

求道  五十五

第十九回男子部総会で大きな感動を呼んだ杉高優(すぎたかまさる)の体験談をもとに、学会本部では映画を製作した。
タイトルは「開拓者」である。
作品を観賞した山本伸一は言った。
「別海(べつかい)から、こうしたすばらしい体験が生まれる背景には、皆を励まし、指導してきた信心の開拓者≠ェ、必ずいるはずだ」
伸一の眼(まなこ)は、陰で黙々(もくもく)と友を支えるリーダーに向けられていた。
その信心の開拓者≠アそ菅山勝司であった。
伸一は、万感(ばんかん)の思いを込めて、試練の道を開き進んできた菅山の敢闘(かんとう)を讃える一文(いちぶん)を、書籍に記(しる)して贈った。
伸一の励ましに、菅山は泣いた。
こんな俺のことまで、気にかけてくださり、賞讃(しょうさん)し、励ましてくださる! 
先生にお応えしたい。
地域に、もっと信心の実証を示したい。
地域にあって模範(もはん)となるような、充実した酪農経営(らくのうけいえい)をしよう
そう決意はしたが、諸設備(しょせつび)を充実させる資金は、いたって乏(とぼ)しかった。
借金をすれば、自分の首を絞めることになる。
離農者(りのうしゃ)の多くは、過剰投資(かじょうとうし)による借金苦が原因であった。
彼は、少ない自己資金を最大限に活用するために、牛舎(ぎゅうしゃ)も、サイロも、すべて自分の手で造ることにした。
祖父が植林(しょくりん)していた原木(げんぼく)の伐採(ばっさい)から始め、製材や加工、建築などを独力で学びながら、作業を開始した。
周囲の人びとは、奇異(きい)な目で菅山を見ていた。
大気(たいき)も凍る厳寒(げんかん)の原野を、友の激励のために、バイクで駆け巡ってきた菅山には、その建設作業が苦労とは感じられなかった。
真実の信仰をもって、生命の鍛錬(たんれん)を重ねた人は、人生の、また、社会の、あらゆる局面で、驚くほど大きな力を発揮していく。
「人生は強さにおける、また強さを求めての訓練である」(注)とは、北海道で青春を過ごした新渡戸稲造(にとべいなぞう)の信念の言葉である。
建設の槌音(つちおと)が小気味(こきみ)よいリズムを奏で、希望の鼓動となって、別海の天地に響いた。
家族の応援も得て、一九七三年(昭和四十八年)に、三年がかりで約四百平方メートルの牛舎が出来上がった。

(注)「編集余禄」(『新渡戸稲造全集 第二十巻』所収)
佐藤全弘訳、教文館
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2014年08月16日

求道  五十四

求道  五十四

菅山勝司(すがやまかつじ)は、一九六五年(昭和四十年)、男子部の支部の責任者である「部隊長」となり、九月二日、学会本部で山本伸一(やまもとしんいち)から部隊旗を受けた。
彼は、闘魂(とうこん)を燃え上がらせた。
菅山が担当したのは、別海(べつかい)をはじめ、中標津(なかしべつ)、標津(しべつ)、羅臼(らうす)、標茶(しべちゃ)、弟子屈(てしかが)まで広がる広大な地域であり、面積は福岡県に匹敵(ひってき)した。
ここを“戦野”に走りに走った。
三百数十人で出発した陣容(じんよう)は、一年後、四百七十人へと拡大する。
彼の地道で粘り強い行動と精神は、後輩たちに脈々と受け継がれていった。
「別海」の名が、一躍、全国に轟いたのは、七〇年(同四十五年)十二月、「開拓」をテーマに行われた第十九回男子部総会であった。
席上、酪農家(らくのうか)を志し、東京から新天地・別海に移住した杉高優(すぎたかまさる)が、苦節八年で得た勝利の歩みを、体験発表したのである。
――希望にあふれて入植(にゅうしょく)し、結婚する。
彼は、入会していたが、真面目に信心に励もうという決意は全くなかった。
当初、酪農は順調だった。
しかし、三年続いた冷害で牧草などの飼料が不足し、十頭いた牛のうち五頭を失う。
大自然の非情な力を呪った。
また、二歳の長男も事故で他界したのだ。
絶望のなかで、“信心だけは忘れてはいけないよ”との、母親の言葉を思い起こす。
その杉高のもとへ、学会の先輩が、往復約百キロの道のりを、厳寒のなか、バイクで激励に通い続けた。
中標津(なかしべつ)で小学校の教員をしている、あの青年であった。
杉高は、真心と情熱に打たれ、信心で立とうと心を定める。
経営を立て直すために、祈りに祈り、努力と工夫を重ねた。
農場は約四十三ヘクタールに増え、生まれた牛は、皆、高値のつくメンタ(雌牛(めうし))で、乳牛は三十頭にもなった。
また、男子部大ブロック長となった杉高は、先輩が自分にしてくれたように、地道に訪問指導を続けた。
メンバーは、一人、二人と立ち上がり、二十三人の部員全員が座談会に出席するまでになったのだ。
入魂(にゅうこん)の個人指導が伝統として継承(けいしょう)されてこそ、地域広布の未来は燦然(さんぜん)と輝く。
posted by ハジャケン at 11:16| 山梨 ☔| 新・人間革命 求道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月15日

求道  五十三

求道  五十三

酪農家(らくのうか)の朝は早い。
午前五時には、牛舎を掃除し、牛に配合飼料を食べさせ、搾乳(さくにゅう)して牧草を与える。
搾乳は日に二回。
その間、季節ごとに、牧草地に肥料をまいたり、牧草を収穫したりするなどの作業がある。
それ以外にも、自給のための畑仕事などもあり、するべきことは山ほどある。
菅山勝司(すがやまかつじ)は、経済的にも苦闘(くとう)を強いられていた。
郵便配達や板金工場などのアルバイトをし、必死になって働きながら、学会活動に励んだ。
五分、十分が貴重だった。
一九六一年(昭和三十六年)、彼は、学会の組織にあって、男子部の「班長」を経て、地区の男子部の責任者である「隊長」の任命を受けた。
別海の男子部は百二十人になっていた。
菅山の活動の足も、自転車からオートバイへと変わっていた。
百キロ、二百キロと走る日も珍しくなかった。
この人を育てようと思ったら、何日でも通い続ける≠ニいうのが、彼の信条(しんじょう)であった。
六四年(同三十九年)、学生部員であった青年が教員となり、中標津(なかしべつ)の小学校に赴任してきた。
広大な地域と厳しい自然は、彼の学会活動への意欲を萎(な)えさせた。
菅山は、その彼のもとにも、七十キロの道のりを、毎日、バイクで通い続けた。
語らいを続けて一週間目。
会合を終えて、彼の家に駆けつけた。
戸を叩いても返事はない。
せっかく来たのだから待ってみよう≠ニ、玄関の前に腰を下ろし、御書を開いた。季節は四月である。
周囲には雪が残り、外気はまだ、肌を刺すように冷たい。
教員の青年は、既に就寝していたのだ。
数時間が経過した。
青年は目を覚まし、窓から玄関を見た。
白い息を吐きながら座っている人影があった。
ドキリとした。菅山だった。
寒気(かんき)のなか、待ってくれていたのだ!
「菅山さん!」
思わず、叫んだ。
その目に、涙があふれた。
二人は語り合った。
菅山の思いやりと真剣さに打たれ、青年は立ち上がった。
凍(い)てた友の心を溶かすものは、炎の情熱だ。
posted by ハジャケン at 15:12| 山梨 ☔| 新・人間革命 求道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月14日

求道 五十二

求道 五十二

雨脚は、次第に激しさを増していく。しばらく行くと、道の傍らに何かが、うずたかく積まれているのがわかった。
干し草の山だ。菅山勝司は、自転車を止めて、潜り込んで雨をしのいだ。ほどなく雨はあがった。
また、自転車を漕ぎ始めた。喉が渇くと、道端に生えていた山ブドウを食べた。
やがて夜が白々と明け始めた。朝霧のなかに、釧路の街が見えた。
”もう少しだ。みんなと会える!”
彼は安堵した。すると、途端に全身から力が抜け、どっと疲労に襲われた。自転車を止め、道端の草むらに横になり、背筋を伸ばした。そのまま眠り込んでしまった。
太陽のまぶしさで目を覚ました。二、三時間、眠っていたようだ。疲れは取れていた。
再び、勢いよく自転車のペダルを踏んだ。市街に入ったのは、午前八時ごろであった。
一晩がかりの、百キロを大幅に上回る走行であった。菅山の顔は、汗と埃にまみれていたが、心は軽やかであった。自らの弱い心を制覇した?求道の王者?の入城であった。
男子部の会合では、全参加者が、この”別海の勇者”を、大拍手と大歓声で讃えた。
彼らは、菅山の姿に、男子部魂を知った。北海の原野に赫々と昇る、太陽のごとき闘魂を見た。感動が青年たちの胸を貫いた。
この会合で菅山は、当時、男子部の最前線組織のリーダーであった「分隊長」に任命されたのである。
その夜、彼は、別海に向かって、再び自転車を走らせた。体は軽く、足には力がこもった。頬は、感動と決意で紅潮していた。
別海の天地で、一人の青年が、久遠の使命を自覚し、立ち上がったのだ。地域で、家庭で、職場で、最初の一人が立ち、そして、万朶と咲き薫る花のごとく、陣列を広げていく。それが、広宣流布の不変の原理だ。
酪農の仕事には、時間的な制約が多い。しかし、菅山は”断じて環境に負けまい”と、
真剣に題目を唱え、仕事を手際良くこなし、学会活動の時間をつくった。
posted by ハジャケン at 10:22| 山梨 ☁| 新・人間革命 求道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月13日

求道 五十一

求道  五十一

釧路(くしろ)で男子部の会合が開かれる前日(ぜんじつ)、菅山勝司(すがやまかつじ)は、牛の餌になる牧草を刈り取りながら、迷い続けていた。
釧路までは列車で三時間ほどである。
この時、彼は、一円の金もなかった。
“来(こ)いと言ったって、どうやって行けばいいんだ……”
空を見上げては、ため息をついた。
作業着のポケットに入れた、会合開催の葉書を、何度も取り出しては読み返した。
そのたびに、行くべきではないか……≠ニいう思いが、強くなっていった。
夕方、家に戻ると、ゴロリと横になった。
釧路の先輩たちの顔が、次々と浮かんだ。
待っているよ!∞信じているよ!∞立ち上がるんだ!
――そう言っているように思えた。
彼は、起き上がった。
そうだ! 自転車で行けばいいんだ! 環境に負けていていいわけがない。
皆と会い、山本先生のこともお聴きしたい
そんな気持ちが、心のなかで頭をもたげた。
今から出れば、間に合うだろう……
自転車にまたがると、迷いを振り切るように、思いっきりペダルを踏んだ。
舗装(ほそう)されていない道が続く。
木の根っこにタイヤを取られないよう、ハンドルを強く握り締める。
辺(あた)りには、街灯(がいとう)も人家の明かりもない。
月も、星も、分厚い雲に覆われていた。
自転車のライトの明かりだけを頼りに、必死にペダルを漕(こ)ぎ続けた。
走るにつれて、息が苦しくなっていった。
しかし、彼は、俺に期待を寄せ、待ってくれている先輩がいるんだ。
負けるものか!≠ニ自分に言い聞かせた。
足に力がこもる。額(ひたい)から汗が噴(ふ)き出す。
自分を信じてくれている人がいれば、勇気が湧(わ)き、力があふれる。
その信≠もって人と人とを結び、互いに育(はぐく)み合っていく人間共和の世界が創価学会である。
四、五時間、走り続けた。
ピシャッと、冷たいものが顔に当たった。
彼は、漆黒(しっこく)の空を見上げた。
雨であった。
posted by ハジャケン at 10:15| 山梨 ☔| 新・人間革命 求道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月12日

求道 五十

求道  五十

菅山勝司(すがやまかつじ)が、信心を始めた動機は、食べるのがやっと≠ニいう生活から、抜け出したかったからである。
未来には、なんの希望も見いだせなかった。
また、もともと内気で、口べたであることに劣等感をいだき、それを克服したいとの、強い思いもあった。
そんな彼を、男子部の先輩は、確信をもって励ましてくれた。
「信心して学会活動に励んでいくならば、必ず生命力が強くなり、どこへ出ても恥ずかしくない立派な人材になれる。
皆、そうなっているんだよ。それを人間革命というんだ。
私たち青年の双肩(そうけん)には、日本の未来が、いや、世界の未来がかかっている。
君には、この別海(べつかい)の地から、日本を、世界を担い、支えていく使命があるんだよ」
力強い言葉に、彼は魅了された。
自分の世界が、大きく開かれた気がした。
青年の魂を覚醒(かくせい)させるのは、確信と情熱にあふれた生命(いのち)の言葉である。
菅山は、学会活動を始めた。
当時、別海には、男子部員が四人しかいなかった。
彼らは札幌支部(さっぽろしぶ)の所属で、道東(どうとう)の活動拠点(きょてん)は釧路(くしろ)であった。
経済的にも、時間的にも、釧路に行くことは難しく、四人で、たまに連絡を取り合うことしかできなかった。
一九六〇年(昭和三十五年)九月、男子部の先輩から、釧路で男子部の会合が行われるという連絡の葉書(はがき)が届いた。
参加するのは無理だと思った。
汽車賃(きしゃちん)がなかったからだ。
葉書には、第三代会長の山本伸一(やまもとしんいち)先生のもと、学会は怒濤(どとう)の大前進を遂(と)げていることも記(しる)され、さらに、こう訴えていた。
「環境(かんきょう)に負けて、いつまでも会合に参加できないと言っていては、成長は望(のぞ)めません。
困難(こんなん)を乗り越え、弱い自分に勝って、まず会合に参加することです。
さあ、発心しよう。実行に移そう。
そして、別海の中心にふさわしい人材に成長するのです……」
「環境に負けて」という言葉が、深く心に突(つ)き刺(さ)さった。
しかし、会合参加への心は定(さだ)まらぬまま、当日が近づいていった。
posted by ハジャケン at 10:25| 山梨 ☁| 新・人間革命 求道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月09日

求道 四十九

求道  四十九

翌六月十四日、山本伸一(やまもとしんいち)は、北海道研修道場訪問の記念植樹をしたあと、構内を散策した。
研修道場は、別海町北部(べつかいちょうほくぶ)に位置し、標津町(しべつちょう)との境界(きょうかい)になる当幌川下流(とうほろがわかりゅう)の右岸(うがん)にある。
霧のなかに、緑の森が続き、湿原(しつげん)には白い水芭蕉(みずばしょう)が微笑んでいた。
伸一は、湿原の小道を歩きながら、田原薫(たはらかおる)に言った。
「すばらしいところだね。研修道場のいたるところに、整備にあたってくださった方々の真心が感じられます。
ありがたいことです。冬の作業は、大変だっただろうね」
すると、同行していた北海道の青年部幹部が、別海の厳しい寒さについて語った。
――冬、零下三〇度近くになると、飛来(ひらい)した白鳥の足が川の水に凍りついてしまい、飛べなくなって、もがいている姿を目にすることもあるという。
さらに彼は、役員をしていた一人の青年を、伸一に紹介した。
「先生。根室本部(ねむろほんぶ)の男子部本部長をしている菅山勝司(すがやまかつじ)さんです。
菅山さんは、研修道場の整備にも献身してくれました」
「ありがとう! 君のことはよく知っています。
別海広布(べかいこうふ)の開拓者だもの。
三、四年前、『聖教新聞』に体験が載っていたね。
読みましたよ。すばらしい内容でした」
瞬間、菅山は自分の耳を疑った。
先生が、俺のことをご存じだなんて!
感動が胸を貫(つらぬ)いた。
励ましは、相手を知ることから始まる。
伸一は、菅山と握手を交わした。
小柄で、見るからに純朴(じゅんぼく)で誠実そうな青年であった。
別海で生まれ育った菅山が入会したのは、一九五七年(昭和三十二年)のことである。
菅山の家は、二八年(同三年)に祖父が福島県から開拓者として移住。
やがて、でん粉工場を始めたが、経営が行き詰まり、酪農に切り替えた。
だが、それも軌道に乗らないうえに家族の病気が重なり、生活苦に喘(あえ)ぐ日々が続く。
そのなかで祖父らが入会し、勝司も信心を始めた。
十七歳の春である。
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2014年08月07日

求道 四十七

求道  四十七

山本伸一(やまもとしんいち)は、石沢清之助(いしざわせいのすけ)・ヤス夫妻の信心(しんじん)の勝利(しょうり)を讃(たた)えた。
学会員の功徳(くどく)の体験を聞くことこそが、伸一の最高の喜びであった。
そのあと、彼は、石沢の自宅と隣接(りんせつ)している店に顔を出し、従業員にも声をかけた。
見送る一家に、彼は言った。
「今日は、ありがとう。嬉しい、いい思い出をつくらせてもらいました。あなたたちのことは、一生忘れません。お元気で!」
翌日、伸一は、ヤスに句を贈っている。
「讃えなむ 釧路(くしろ)の母の 歴史見む」
午後六時過ぎ、石沢宅を出た伸一たちが向かったのは、約七十キロ先の別海町(べつかいちょう)の西春別(にししゅんべつ)にある個人会館であった。
別海広布(こうふ)≠願う同志(とも)の尽力(じんりょく)によって、誕生した会館であるという。
伸一は、その真心(まごころ)に応えるためにも、ぜひ訪問したいと思った。
伸一の乗った車は、暮れなずむ緑の根釧原野(こんせんげんや)を疾駆(しっく)した。
やがて、雲のベールに包まれていた太陽が沈むと、夜の漆黒(しっこく)が訪れた。
個人会館に到着した伸一たちを、地元の代表が満面(まんめん)の笑みで迎えた。
「とうとう来ましたよ。憧れの別海に来ました。でも、遠いね」
伸一は、こう言いながら車を降りた。
その瞬間、ゾクッと震(ふる)えが走った。
外気が冷たく感じられた。
体調を崩(くず)していたのだ。
別海町は、根室市(ねむろし)の北に隣接(りんせつ)し、面積は、東京二十三区の二倍以上である。
主な産業は酪農(らくのう)と漁業で、なだらかな丘陵地(きゅうりょうち)には牧場風景(ぼくじょうふうけい)が続き、人口の数倍の牛がいる。
降雨(こうう)や降雪(こうせつ)は少ない方だが、冬季(とうき)の最低気温は、マイナス三〇度に達する日もある。
伸一は、個人会館で、地元のメンバーと懇談した。
語らいのテーマは、別海をどのように繁栄(はんえい)させていくかになった。
彼は、皆と共に、真剣にその対策を考えていった。
いかなる地域、いかなる産業も、繁栄のためには、常に、改善と工夫がなされなければならない。
現状(げんじょう)に安住(あんじゅう)し、その努力を怠るならば、待っているのは衰退(すいたい)である。
posted by ハジャケン at 09:27| 山梨 ☁| 新・人間革命 求道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月06日

求道  四十六

求道  四十六

  石沢清之助とヤスは、釧路会館で山本伸一の指導を受けると、決意を新たにした。
 彼らは、一九五八年(昭和三十三年)に入会してからの来し方を思った。そもそも夫妻が信心を始めたのは、次男の宏也の心臓病を治したい一心からであった。入会してほどなく、見事に、その願いは叶った。
 そして、入会一年五カ月後、火事によって、営んでいた製麺業の工場と自宅が全焼してしまった。着の身着のままで焼け出されたが、その時も再起することができた。
 大小、さまざまな試練があった。しかし、御本尊を疑わず、広宣流布に生きようと決め、唱題と弘教に励むことによって、すべてを乗り越え、変毒為薬してきたのである。
 「今度も、健康を取り戻せぬわけがない。次に山本先生が釧路に来られる時には、必ず元気はつらつとした姿でお会いしよう!」
 夫妻は、共に、こう心を定め、伸一との再会をめざして信心に励んできたのだ。  
 ヤスは、伸一たちを部屋に案内すると、贈答品の店は繁盛し、次男が結婚して二人の孫にも恵まれたことを、嬉しそうに語った。
 しばらくして、外出していた嫁と孫娘が帰宅し、さらに、主の清之助も孫の手を引いて帰ってきた。しっかりとした足取りである。
 彼は、伸一を見ると、「先生!」と言って正座し、頭を下げた。
 それから背筋を伸ばし、「脳出血で……」と言いかけ、声が途切れた。目に涙があふれ、嗚咽が言葉をさえぎるのだ。
 涙、涙で何も言えない夫に代わって、妻のヤスが語った。
 「脳出血で倒れたことが?のように、今では、このように健康になりました」
 伸一は、ぎゅっと清之助の手を握った。
 「よかった。本当によかった。真面目にやってきた人が最後は勝つ――それが仏法です。
 広宣流布を使命とする創価学会とともに生き抜くなかにこそ、信心の正道があります。だから、こうして病に打ち勝てたんです」

■語句の解説
変毒為薬/「毒を変じて薬と為す」と読む。苦しみの生命(毒)が、そのまま幸福の生命(薬)に転ずる、妙法の大功力を表した言葉。
posted by ハジャケン at 10:38| 山梨 ☀| 新・人間革命 求道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月05日

求道  四十五

求道  四十五

山本伸一(やまもとしんいち)の乗った車は、再(ふたた)びスピードをあげた。
彼は、同乗していた田原薫に尋ねた。
「途中、私が訪問すべきお宅があったら、お訪ねしますので、言ってください。次は、いつ来られるかわからないからね」
「ありがとうございます」
田原が最初に案内したのは、釧路市中園町(くしろしなかぞのちょう)の石沢清之助(いしざわせいのすけ)・ヤス夫妻(ふさい)の家であった。
石沢家は、置物などの贈答品店(ぞうとうひんてん)を営(いとな)んでいた。
伸一は、自宅の玄関に回って、チャイムを鳴らした。
ドアを開けた妻のヤスは、「先生!」と言って、しばらく絶句(ぜっく)した。
「こんにちは! おじゃましますよ」
「……み、みんなで、祈っていたんです。
先生、奥様が、ご無事に到着されるように」
「ありがとう。雲が急に晴れて、着陸できたんですよ。
皆さんのお題目の力です」
「まあ! ところで先生。主人は、今では本当に元気になり、店も繁盛(はんじょう)しております」
十一年前の一九六七年(昭和四十二年)八月、伸一は釧路(くしろ)会館を訪問し、幹部会に出席した折、石沢夫妻と会い、励(はげ)ましていた。
実は、その前年の九月、北釧路支部の支部長をしていた清之助が脳出血(のうしゅっけつ)で倒れたのだ。
右半身が麻痺(まひ)し、ろれつも回らなくなった。
やむなく、高校を卒業して浪人中だった次男(じなん)の宏也(ひろや)が、進学をあきらめ、家業を担った。
医師は「トイレに行けるようになれば、幸いだと思ってください」と、夫妻に告(つ)げた。
俺は、学会員だ。負けるものか!
清之助は、真剣に祈り、懸命(けんめい)にリハビリに励んだ。
体は少しずつ回復し、なんとか歩けるようになった。
そして、伸一の釧路訪問を聞くと、夫妻で釧路会館に駆(か)けつけたのだ。
その時に、伸一は、強い確信(かくしん)を込めて、二人に訴(うった)えた。
「祈りとして叶わざるなし≠フ御本尊です。
必ず治ります。
次に私が釧路へ来る時には、元気な姿を見せてください。
断固(だんこ)、長生きしてくださいよ」
確信が確信を呼び覚(さ)ます。
指導とは、生命(せいめい)の共鳴(きょうめい)をもって信心(しんじん)を覚醒(かくせい)させる作業である。
posted by ハジャケン at 09:56| 山梨 ☁| 新・人間革命 求道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする