2014年12月07日

青年抄 人材を育てる

青年抄
池田大作
人材を育てる
ある日、駐日英国大使と懇談したが、心に残る話を聞いた。大使は、毎日、夜になると、小さなお子さんに、その日あったことを、わかろうがわかるまいが、一つ一つ話すという。子どものなかに、一個の大人の人格を認めることから生まれたくるこの父子対話は、いろいろなことを考えさせてくれるようだ。
本日を持って、青年抄終わり
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2014年12月06日

青年抄 人材を育てる

青年抄
池田大作
人材を育てる
わが家にも近所のちっちゃな子が遊びにくることがある。家宅侵入をしてくるなり、とっとと台所の冷蔵庫に直行し、中身の宝物をさらっていく。本部にも、私の幼い友達はやってくる。彼らは、自由に動き、ときには粗相もする。親はあわてて子を叱ろうとするが、私は、叱る親を止める。いいんだ、いいんだ、と。未来からの使者は、のびのびと奔放に育てたい。ただし、転んでも一人で起き上がるのを待つ。他に頼らないという自立心を育てたいからだ。
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2014年12月05日

青年抄 人材を育てる

青年抄
池田大作
人材を育てる
軌道にのると、さらに次の布石、また次の布石というように、私の目は少年に向けられていった。三十九年六月には高等部、中等部を結成。四十年九月には少年部を発足させた。なかに鳳雛会、未来会などをつくり、二十世紀の残された四半世紀のために、また来る二十一世紀をいかに生きるかを語り合った。
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2014年12月04日

青年抄 人材を育てる

青年抄
池田大作
人材を育てる
次の時代を託す若者たちと、対話をつづけていった。結成五年をへた学生部の代表に、三十七年の夏から「御義口伝講義」を始めたのも、その一つである。「御義口伝」は、日蓮大聖人の仏法の骨髄が説かれている御書で、法華経の文々句々を大聖人がみずからの立場で講義されたものを弟子の日興上人が筆録したものである。
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2014年12月03日

青年抄 人材を育てる

青年抄
池田大作
人材を育てる
私がいつも魅せられる画家の一人である東山魁夷氏が「私は白い紙に向かい合う。それは紙ではなくて鏡である。その中には私の心が映っている。描くことは、心の映像を定着させようとする作業である」と語っておられるが、その心境がうかがえる味わい深い言葉である。青年や少年、少女と対話するときは、まさに純白な生命のキャンバスに向かうようなものであり、それはみずからの心を映す鏡である。
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2014年12月02日

青年抄 人材を育てる

青年抄
池田大作
人材を育てる
若き日に読んだゲーテの言葉に「いつかは目的地に到達しようなどぐらいの気持ちで歩んでいては不充分です。その一歩一歩が到着地であり、その一歩としての価値があるべきだ」とあったが、まさにそのような歩みが要請される日々の連続であった。二年半後の昭和三十七年十一月に三百五万世帯を達成。全国的な自信に満ちた上げ潮の動きを見て、私は次の手を打ち始めた。若い人材の育成である。後継者の育成をしないときは、必ず行き詰まるという方程式を知っていたからである。
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2014年12月01日

青年抄 人材を育てる

青年抄
池田大作
人材を育てる
関西を皮切りに、日本の各地を回り、七月にはアメリカ軍政下の沖縄に飛んだ。活動を始めた学会の軸になったのは、座談会と教学であった。この二つは、創価学会の草創以来の伝統の実践方式である。
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2014年11月30日

青年抄 人材を育てる

青年抄
池田大作
人材を育てる
私は、会長就任の日の総会で、戸田前会長の七回忌を当面の目標として学会員三百万の達成、宗教界の覚醒運動などの方針を発表した。私は二年間が勝負と思った。二年間というものは、席が温まる暇がないというよりは、席そのものがないといってもよいほど動いた。動くことしか、道は開けないと信じたからである。
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2014年11月29日

青年抄 人材を育てる

青年抄
池田大作
人材を育てる
私が会長になった当時は、創価学会も現在のような社会的存在には遠く、多くの人々は関心もなく、またその名もよく知られなかったように思われる。さまざまな風潮で見られてもいたようだ。信濃町の学会本部の目と鼻の先に、いまは故人となられた元総理・池田勇人が住んでおられたが、隣近所へのあいさつということもあって、尋ねたことがある。氏は「会長さんになられたって・・・・・・。この町の青年会の会長さんですか。まあ、同じ池田ですから仲良くやりましょう」と言われていた。同姓の池田氏に他意はなかったのであろうが、この“青年会の会長”という言葉は至言であった。ある意味で創価学会の存在イメージは、このようなものであったといってよい。また、事実、私も「若輩ではございますが、本日より・・・・・・」と総会で就任のあいさつをしたごとく、三十歳を幾つか過ぎた文字どおりの青年会長であった。あれから十五年たったいま、私は四十七歳になったが、生涯、青年という気持ちに変わりはない。
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2014年11月28日

青年抄 第三代会長

青年抄
池田大作
第三代会長
現在、上の二人が大学へ、下の一人が高校へ行っている。子どもの意思をそれぞれ尊重していくというのが父親の教育方針であり、母親は平凡でも健康で暮らしていってもらいたいと願っているようだ。ある婦人雑誌の正月号(1974年)に「子どもに託して」と題して一文を寄せたが、最後に私は書いた。「彼らにもやがて恋人ができ、結婚するでしょう、そのときに私はただ一言いいたいのです。『パパのことはいい。ママだけは大切にしてあげてくださいよ』と」。それは、“五月三日”を、“わが家の葬式”と感じ、以来、いつも微笑を絶やさないで尽くしてきてくれた妻への償いの心である。
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2014年11月27日

青年抄 第三代会長

青年抄
池田大作
第三代会長
旅先の京都から、小さいカブトを長男におみやげとして買ってきてやったことがあるが、毎年、節句の日には、そのおもちゃのようなカブトがわが家には飾られていた。子どもたちは、留守がちな父親が知らないうちに、いつのまにか大きくなっていた、というところである。それでも、父親の面目を大いにほどこしたことがある。長男が幼稚園にあがるときである。妻のおふくろさんが、道を歩きながら、聞いた。「家のなかで誰が一番好きか」と。おばあちゃん子なので、かなり自身が会っての問いであったらしい。ところが、長男が答えるには「パパ」ということであった。「その次は」には「ママ」。三番目にやっと「おばあちゃん」という答えが出てきて、こんなに朝から晩までかわいがって面倒みてやっているのに、と妻のおふくろがたいへん悔しがっていたと聞いた。
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2014年11月26日

青年抄 第三代会長

青年抄
池田大作
第三代会長
その夜、大田区小林町の自宅に帰ったところ、ささやかながら赤飯でも炊いていてくれるのかとも思っていたが、何も用意はされていなかった。「今日からわが家には主人はいなくなったと思っています。きょうは池田家の葬式です」というのが妻の言い分であった。実際、妻や三人の息子たちにとっては、五月三日は“葬式”といってもよかろう。かつては、月に一度か二ヵ月に一度ぐらいは、妻を連れて映画などに出かけることもできたが、そんなことはできなくなった。夕方、家に帰り、ひとフロ浴びて家族団欒の夕食をともにすることも人生の楽しみの一つとは思ってはいるものの、あれやこれやと、なかなかくつろいだ機会はもてなくなった。三人の男の子の教育は、妻まかせであるが、幸い皆、健康にのびのびと育ってくれているようである
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2014年11月25日

青年抄 第三代会長

青年抄
池田大作
第三代会長
五月三日、東京・両国の日大講堂で創価学会第三代会長に就任。会長になることはいやでいやでたまらなかったが、就任した以上は、全責務を全うしなければならない。だが、体がどこまでつづくか。当時三十二歳の私に課せられた課題はあまりにも大きかった。
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2014年11月24日

青年抄 第三代会長

青年抄
池田大作
第三代会長
昭和三十五年当時の日記には、その間の事情が記されてある。「全幹部の意向なりと、また機熟したので、第三代会長就任を望む話あり。・・・・・我儘なれど、きっぱり断る。疲れている」(三月三十日)「本部にて、遅くまで臨時理事会を開催。第三代会長の推戴を決定の由、連絡を受く。丁重にお断りする」(四月九日)。「午後、・・・・・・第三代会長就任への、皆の強い願望の伝言あり。私は、お断りをする」(四月十二日)十四日になって、とうとう断ることができなくなり、やむなく、承認の格好となってしまった。この日の日記には「万事休す。・・・・・・やむをえず。やむをえざるなり」とある。
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2014年11月23日

青年抄 第三代会長

青年抄
池田大作
第三代会長
風、月、緑の北海道。大波のなかに浮かぶ佐渡。詩情あふれる京都へ。また炭鉱のボタ山に現実社会の貧しさを思う九州へ。豊橋、大津、福井、福知山、岐阜と五日で駆ける日程。はてしなき強行軍はつづいた。大阪、名古屋、仙台・・・・・。一日、一日が大事であった。こうして一年が過ぎ、二年が過ぎようとしていた。私にとっては、困ったことがおきてきた。周囲から、創価学会の第三代会長にとの声があがってきたのである。私は、何回も断った。しかし、結局は、押し切られてしまった。
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2014年11月22日

青年抄 第三代会長

青年抄
池田大作
今日から第三代会長
「わしの死んだあと、あとは頼むぞ」との戸田先生の遺言が胸奥に轟き、響きわたる。恩師から受けたかぎりなき薫陶は、私にとって、なにものにも代えがたい。思索に思索の針はとまらず、遅くまで起きている日もつづく。六月、創価学会の初の総務に。そして学会建設への激務と激闘が、日々の回転のなかに織りこまれていった。ともかく布教と組織拡大に全国を駆けずり回ったことは言うまでもない。
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2014年11月21日

青年抄 恩師逝く

青年抄
池田大作
恩師逝く
戸田先生と恩師・牧口常三郎初代会長とのあいだを仏法が結んだ師弟の道は、強靭な永遠の絆であった。先生が、判事から、牧口会長の獄死を聞かされたときかと思われる。私も、及ばずながら恩師の死を機に、師の偉大な構想を実現することを誓った。私は、私なりに全魂を尽くして、一直線に進んできたつもりである。
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2014年11月20日

青年抄 恩師逝く

青年抄
池田大作
恩師逝く
お酒は好きであったので、忘年会などの宴も半ばになると、洋服を裏返しに着て、ノリヒゲをつけ、帽子を逆にかぶり、ほうきを持って踊られた。皆は大喜びで喝采をしていたが、その直後、まったく次元の異なったことなのであろう、毅然と眼光鋭く、なにやら一人で思索をされている厳しい姿もよく見られた。辛労のかぎりを尽くして、未来の構想に心を砕かれていたにちがいない。
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2014年11月19日

青年抄 恩師逝く

青年抄
池田大作
恩師逝く
先生は、よく朝早く起きて、フトンのなかで、一時間、二時間の思索に耽っておられた。ある日などは、朝の四時ごろ、電話がかかってきて、すぐ来るようにということである。タクシーにとび乗って飛んでいったものだ。四六時中、思索をされていたのであろう。
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2014年11月18日

青年抄 恩師逝く

青年抄
池田大作
恩師逝く
初七日のとき、詠んだ歌は――。「恩師逝き 地涌の子等の 先駆をば われは怒涛に 今日も進まむ」。この色紙は、いまも自宅に掲げている。思えば、二十二年から十一年間、朝となく夜となく、それこそたたきこまれるようにして薫陶を受けた。その指導は峻厳であり、惰弱を許さなかった。あの調子であと二、三年つづいたら、私自身がまいってしまったかもしれない。
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2014年11月16日

青年抄 恩師逝く

青年抄
池田大作
恩師逝く
師は逝き、残った弟子たちは、寂しく、悲しんだ。自分たちのはてしない悲しみに思いをいたし、呆然とするのも当然であったにちがいない。しかし、私は次の時代展開への誓いをはたさねばならなかった。
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2014年11月15日

青年抄 恩師逝く

青年抄
池田大作
恩師逝く
「先生、お休みください。お疲れだったことでしょう」。ご遺体にあいさつ。私の脳裏には、師が亡くなる前日四月一日の刻々の状況が、走馬灯のように浮かんでは消えていった。午前一時四十分、先生を東京にお連れする準備。午前二時、出発。フトンのまま。「先生、出発いたします。私がお供いたします」と申し上げると、「そう。眼鏡、眼鏡」と言われた。担架にて車に。奥様と医師同乗。二時二十分、月おぼろにして、静寂な田舎道を、沼津駅へ。三時四十五分、沼津駅に到着。四時十五分発急行「出雲」に乗る。「先生、これで安心です」と申し上げたところ、「そうか」との微笑が忘れられない。早朝、六時四十五分、東京駅着。一睡もせず。日大病院へ・・・・・・。そして、二日を迎えて――。
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2014年11月14日

青年抄 恩師逝く

青年抄
池田大作
恩師逝く
四月二日は、先生の命日。昭和三十三年のこの日は、私の人生にとって、決して忘れることのできない、永遠の歴史の日となった。体が極度に衰弱された先生は、富士を仰ぐ静岡の地で、広宣流布の模擬試験ともいうべき式典等の指揮をとっておられたが、四月一日、富士宮から帰京され、日大病院へ入院された。二日夕刻、私は信濃町の旧学会本部で、首脳と連合会議を開いていた。午後六時四十五分、私に、病院から先生の子息・喬久君より電話との知らせ。私は立った。受話器の向こうから、落ち着いた語調で「ただいま、父がなくなりました」と――。愕然。この一瞬の思いは、筆舌には尽くせない。師の逝去――こんな悲しみが世の中にあろうか。断じて後にも先にもない。また、これからも、決してないであろう。厳父であり、慈父であり、私にとっては一切であった。
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2014年11月13日

青年抄 恩師逝く

青年抄
池田大作
今日から恩師逝く
二月は厳寒の季節――。この凍りつくような月の十一日は、戸田先生の誕生日である。先生逝いて、十七年いまも私の家では、毎年、この日に赤飯などを炊いて祝う。私にとっても、また妻にとっても、生涯にわたる師であるからである。
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