2012年08月25日

厚田 61

厚田 61

 参加者たちは、山本伸一が、自分たちの置かれた状況を、あまりにも的確に語っている
ことに感嘆しながら、話に耳を澄ました。
 「大聖人は、『一生成仏抄』のなかで、『仏の名を唱え、経巻を読み、華を供え、香をた
くことまでも、すべて自分自身の一念に功徳・善根として納まっていくのだと、信心を起
こしていきなさい』(御書三八三p、通解)と仰せになっています。
 つまり、勤行をはじめ、広宣流布のための私どもの活動の一つ一つが、自身の、また一
家の、功徳、福運となり、幸せを築く大切な根っこになっていることを、強く確信してい
ただきたいのであります。
 そして、活動に際しては、常に積極的であることです。さらに、組織としての目標だけ
でなく、自分個人の目標を明確にし、その成就と、自身のさまざまな苦悩の転換をかけて、
祈り抜いて戦っていくんです。『広布の勝利』は『生活の勝利』になります。『活動の歓喜』
は『人生の歓喜』になります。
 『学会活動が大好きだ!』『折伏が大好きだ!』という人の境涯は、仏なんです」
 喜びの大拍手が響いた。
 「皆さんのなかには、自分たちの上には総ブロック幹部や本部幹部もいるので、役職的
には低いように感じている方もいるかもしれない。しかし、それは組織上の役割の問題で
あって、信心の厚薄や境涯の高低ではありません。私どもの信心は御本尊直結です。
 むしろ、広宣流布を決する最も重要なポジションであり、信心を深める理想的な立場が、
大ブロック幹部ではないかと、私は思っています。もし、可能ならば、私も大ブロック長
として戦いたいんです。苦労も多い分だけ、最も喜びがあるではありませんか!」
 伸一が指導を終え、退場したのは、午後一時四十分であった。その五分後、彼は厚田の
戸田講堂を出発し、東京へ向かったのだ。
 ”世界広布誓願の師弟の天地・北海道に勝利あれ! 栄光あれ!”と祈りながら──。
 (この章終わり)
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2012年08月24日

厚田 60

厚田 60

 北海道幹部会で山本伸一は、皆の健康と長寿、一家の繁栄を願って、ともに勤行した。
 この席上、伸一は、北海道の研鑽御書を「御義口伝」と定め、皆で学んでいってはどう
かと提案。賛同の大拍手が会場を包んだ。
 さらに彼は、大ブロック組織の重要性などについて語っていった。
 「大ブロックこそ、創価学会の縮図であり、大ブロック幹部は、地域広布の要です。
 学会活動のさまざまな事柄が、大ブロックに集約される。弘教や機関紙誌の購読推進、
座談会の結集等々、日々、あれもこれも、たくさんのことが滝壺に降り注ぐように集まっ
てくる。それを受けて立ってくださっているのが皆さんであることを、私は、よく知って
おります。しかも、生活のうえでも、さまざまな悩みをかかえておられるでしょう。
 ともすれば、疲れて、歓喜も失せてしまい、ただ言われたことをこなしているという感
覚に、陥ってしまうこともあるかもしれない。しかし、受け身になってしまえば、力は出
ないし、喜びもありません。
 そんな自分を、どう鼓舞していくか──実は、そこからが本当の信心の戦いなんです。
 受け身の生命を打ち破るために、私たちの活動は、すべて広宣流布の聖業であり、仏に
代わって、仏の使いとしての誉れの行であること、また、最高の社会建設の実践であるこ
とを思い起こしていただきたい。

 そして、わずかな時間を見つけては、真剣に唱題していくことです。さらに、一行でも、
二行でも御書を拝し、学会の指導を学び、なんのための信心であり、仏道修行であるかを、
確認していくことです。
 また、信心の触発を与えてくれる先輩など、同志の存在が大事です。人間は孤立し、一
人になると、どうしても弱くなってしまいがちです。そうならないために、互いに励まし
合っていける善友が必要なんです」
 ゆえに大聖人も、法華経を引かれて、「悪知識を捨てて善友に親近せよ」(御書一二四四
p)と叫ばれているのである。
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2012年08月23日

厚田 59

厚田 59

 山本伸一は、さらに、戸田城聖が姪に送った別の手紙を紹介した。
 「『私は仏教を信じている。仏教の極意は仏の道を行ずる事だ。仏には怨みや怒りやそね
みはない。人を助ける事が仏の道だ。だからお前も上京したら仏道を行じて、仏を信じて
もらいたい』
 戸田先生のお手紙は、自然に仏法対話になり、指導になっております。
 仏法を持った私どもの信念、言動は、本来、『人を助ける事』に貫かれていなければなら
ない。信心即生活です。日々の生き方、生活それ自体が、仏法を表現し、弘教につながっ
てこそ、真の仏法者といえます。
 また、先生は、このお手紙では、『仏には怨みや怒りやそねみはない』と言われながら、
先ほど紹介したお手紙には、『敵味方を峻別せよ』とある。実は、ここに、重大な意義があ
ります。
 『敵・味方』とは、悪か善かということです。その峻別ができなければ、姪御さんの幸
せも、また、私どもの信仰も攪乱され、現実において敗北してしまいます。
 大聖人は『悪知識と申すは甘くかたらひ詐り媚び言を巧にして愚癡の人の心を取って善
心を破る』(御書七p)といわれている。
 悪知識というのは、仏道修行を妨げ、幸福への道を誤らせる悪徳の者であり、悪友です。
この悪知識という敵は、甘く語らい、嘘をつき、媚びて、言葉巧みに近づき、心を許すよ
うに仕向け、退転させていくんです。
 ゆえに、悪を悪と見破り、戦うことが大事なんです。悪と戦わぬ善はありません。悪を
打ち破ることが、慈悲にもなるんです」
 ──「悪人の敵になり得る勇者でなければ善人の友とはなり得ぬ」とは、初代会長・牧
口常三郎の珠玉の指導である。
 東京に戻る十月九日の午後、伸一は、戸田講堂での北海道幹部会に出席した。参加者は、
広宣流布の前線基地を担うリーダーである大ブロック長、大ブロック担当員(現在の地区
部長、地区婦人部長)の代表であった。
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2012年08月22日

厚田 58

厚田 58

 山本伸一は、厚田での一回一回の集いに、全身全霊を注いだ。激風にも、激浪にも、微
動だにせぬよう、北海道の同志に、黄金の指針を残しておきたかったのである。
 伸一は、十月八日も、記念勤行会に出席した。彼は、初めに、戸田城聖の親戚から届け
られた、戸田の手紙を読み上げていった。
 「人生は不幸なものではない。居る所、住む所、食う物、きる物に関係なく人生を楽し
む事が出来る。人生の法則を知るならば、人生は幸福なのだ。何事も感情的であるな。何
物も畏れるな。何事も理性的、理智的であれ。そして、大きな純愛を土台とした感情に生
きなくてはならぬ。敵味方を峻別せよ」
 この手紙は、一九三八年(昭和十三年)に姪に送ったもので、便箋には「時習学館長 戸
田城外」と印刷されている。まだ、「城聖」と名乗る以前の手紙である。
 「このなかで先生は、『人生は不幸なものではない』と宣言されています。しかし、経文
には、この世は娑婆世界と説かれており、耐え忍んで生きていかねばならない。その意味
からいえば、末法の現実社会に生きる人間は皆、不幸といえるかもしれない。それなのに、
なぜ『居る所、住む所、食う物、きる物に関係なく人生を楽しむ事が出来る』のか。
 そこには”富を手にし、衣食住に恵まれることが、真実の幸福ではない。本当の崩れざ
る幸福とは、わが胸中から泉のごとく湧き出る歓喜であり、生命そのものの充実感である
”との、戸田先生の達観があります。
 そして、その生命の充実感を涌現せしめる人生の法則を知り、実践する道が信心であり、
御本尊への唱題なんです。
 さらに先生は、感情的になってしまうことを戒められています。それは、自分で自分が
制御できず、怨みや憎悪や嫉妬、また衝動的な欲望に振り回されて、自分を破滅させてし
まうことになるからです。
 まさに仏典に説かれた、『心の師とはなるとも心を師とせざれ』(御書一○二五p)の文
につながる言葉といえましょう」
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2012年08月21日

厚田 57

厚田 57

 十月五日、山本伸一は予定通り、札幌に行き、諸行事を終えると、翌六日午後には、厚
田の戸田記念墓地公園に向かった。
 その途次、札幌市西区にある花田会館を訪れた。花田会館は、花田洵弥・光枝夫妻が提
供してくれている個人会館である。
 この年の三月、静岡の牧口園で行われた会場提供者の集いに参加した花田洵弥に、伸一
は、「北海道を訪問した折には、必ず花田さんの個人会館にお伺いします」と約束していた
のである。
 花田夫妻は、会場を提供する一方、大ブロック(現在の地区)幹部として、地道に、懸
命に、学会活動に励んできた。
 ”本当にありがたい。こうした方々がいらしてこそ、広宣流布の前進がある。大切な、
大切な創価の宝の人たちだ!”
 そう痛感していた伸一は、せめてもの御礼にと、自ら「妙」と認めた書を掛け軸にして
持参した。どこまでも妙法広布に生き抜き、幸せに満ち満ちた人生を歩んでほしいとの祈
りを込めて、揮毫したものである。
 彼は、仏を仰ぐ思いで、夫妻を讃えつつ、励ましの対話を交わした。
 伸一は、田原薫に語ったように、七日には、厚田の戸田講堂での記念勤行会に出席した。
ここでは、広宣流布の総仕上げの、三つの指針を示した。
 「第一に、あくまでも自身の人間革命を活動の根本としていくことです。自身を磨き、
人格を輝かせていくことが、信仰の最大の実証となるからです。
 第二には、地域を大事にし、近隣との深い信頼関係を結ぶ、友好活動の継続です。友好、
信頼の拡大は、仏縁の拡大になります。
 第三には、一家の信心継承です。子に、孫に、甥や姪にと、信心が受け継がれていって
こそ、広宣流布の永遠の流れがつくられ、一族の永続的な繁栄もあります。
 これらがなされていくならば、必ずや北海道広布の盤石な総仕上げがなされると、私は
声を大にして訴えておきたいのであります」

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2012年08月20日

厚田 56

厚田 56

 山本伸一は、田原薫に言った。
 「『御義口伝』は難解かもしれない。それでも挑戦し、一節でもいいから、身で拝そうと
していくんです。すごい力になるよ。
 私も、戸田先生にお仕えして以来、深く心に刻んできた『御義口伝』の一節がある。
 『一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進
行なり』(御書七九〇p)の御文です」
 ──ここには、一生成仏の要諦が説き明かされている。「本来無作の三身」とは、一言す
れば、自身に具わった仏の大生命である。その大生命を、瞬間、瞬間、湧き出していくた
めの要件とは、わが一念に「億劫の辛労」を尽くすことだ。「億劫」とは、長遠の時間を意
味する。その長い間にわたる無数の辛労を一瞬に凝縮したような、全身全霊を傾けた仏道
修行のなかに、仏の智慧と生命力が湧き上がってくるのである。
 「この御文は、苦難を恐れぬ、真剣勝負の戦いがあってこそ、自身の一生成仏、人間革
命、境涯革命があることを教えられているんです。私の日々は、ある意味で、大地にわが
身を叩きつけるような、苦闘の連続だった。涙も涸れるような悲痛な時を、何度も経験し
てきました。
 そのなかで、この御文を心の支えに、わが心を燃え上がらせ、唱題に唱題を重ね、すべ
て乗り越えてきたんです。私は勝ちました。
 君も、広宣流布のため、人びとの幸せのため、自身の未来のために、勇んで辛労を尽く
していくんだよ。
 そういえば、田原君は、私が学生部の代表に行った、『御義口伝』講義の受講生じゃない
か。このメンバーは、私が会長就任後、未来のために育成した後継のグループの第一陣だ。
私は全精魂を注いだんだ。
 世代的にも皆の使命は大きいよ。私と共に戦い抜いて二十一世紀の広宣流布の流れを開
き、さらに、次の後継の世代を育て守って、未来への確かなる大道をつくるんだ。君たち
は、創価新時代の令法久住の先駆なんだよ」

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2012年08月18日

厚田 55

厚田 55

 追善法要が行われた翌日の十月四日午後、山本伸一は、妻の峯子や北海道総合長の田原
薫らと共に、石狩川の渡船場に立った。一九五四年(昭和二十九年)八月、戸田城聖と共
にここに着き、厚田村を訪れたのである。
 滔々と流れる雄大な石狩川の対岸には、色づいた木々が見え、辺りは秋色に包まれてい
た。伸一は、あの師弟旅の折、戸田が船上で川面を見ながら語った言葉を思い起こした。
 「石狩川は大きいな。学会は、まだ渓流のようなものだが、広宣流布の流れを止めるこ
となく、必ず大河の時代を開くんだよ。前進が止まれば、信心の清流も澱み、濁ってしま
う。学会が、戦い続け、進み続けていかなければ、大聖人の仏法は滅びてしまう」
 伸一は、その戸田の言葉を田原に語ったあと、北海道での今後のスケジュールについて確認した。
 「先生には、本日夕刻、青年部の代表や墓苑事務局のメンバーとの懇談会に、ご出席い
ただくことになっております。明日五日は札幌に移動していただき、北海道文化会館での
各部代表との懇談会などが入っております」
 「厚田の戸田講堂では、どんな行事が予定されていますか」
 「記念勤行会が、六日、七日、八日と続き、九日には北海道幹部会が開催されます」
 「それでは、私は六日中には厚田へ戻ります。七日から、全行事に出席し、話をさせて
いただきます。九日には東京へ帰りますが、北海道幹部会に出てからにします。
 それから、北海道として、特に研鑽していこうと決めている御書はありますか」
 「特別に定めた御書はありません」
 「それならば、北海道は『御義口伝』を研鑽御書とするよう提案しようと思うが、どうだろうか。
 戦後、学会の再建に着手された戸田先生は、終戦の翌年の元日、『御義口伝』をもとに法
華経講義を行われている。いわば、学会の再出発は、『御義口伝』とともに始まったといえるんです」
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2012年08月17日

厚田 54

厚田 54

 一九六一年(昭和三十六年)十二月、北海道女子部の部長である嵐山春子が病のために他界した。漆原芳子は、嵐山という、尊敬する先輩であり、苦楽を共にしてきた最愛の同志を失ったのである。
 再び彼女は、友の死の意味を問うた。今度は、答えは明らかであった。
 嵐山さんは私に、生きることのすばらし
さ、ありがたさを教えてくれたんだ
 漆原には、嵐山が私の分まで、生きて、生きて、生き抜きなさい! 私の分まで、戦って、戦って、戦い抜きなさい!≠ニ叫んでいるように感じられた。
 生きて信心に励める人には、他界した法友の志を受け継ぎ、戦う使命がある。それが故人への最高の回向となるのだ。
 嵐山の後を継いで、漆原は北海道女子部の部長となった。また、教職を辞して、北海道本部の職員となり、札幌に移り住んだ。
 彼女は、全道を走り回った。釧路へ行くには、各駅停車の列車で十時間以上かかった。猛吹雪のなか、日本最北端の市・稚内を訪れたこともあった。留萌では、バスが故障し、車内で七時間を過ごしたこともあった。夕張にも、岩見沢にも通った。
 原野を抜け、山を越え、一人の女子部員に会うために走った。
 漆原は、やがて結婚し、斉田芳子となる。婦人部に移行後、七〇年(同四十五年)には北海道婦人部長に就任し、北海道広布の女性リーダーとして活躍してきたのである。
 彼女の入会以来、二十三年がたとうとしていた。斉田は、厚田の戸田講堂で行われた北海道広布功労者の追善法要で、再び決意を新たにするのであった。
 私は、こうして、日々、元気に学会活動に励むことができる。それは、亡くなった同志の分まで頑張るためなのだ。
 嵐山さん! また、亡くなられた多くの先輩の皆さん! 私は、命ある限り、広宣流布のために、人びとの幸せのために、走って、走って、走り抜きます!
posted by ハジャケン at 10:05| 山梨 ☀| 新・人間革命 厚田 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月16日

厚田 53

厚田 53
 
一九五七年(昭和三十二年)夏、戸田城聖と共に北海道を
訪問した山本伸一は、函館にも立ち寄った。
その折、漆原芳子の真剣な活動への取り組みを聞き、激励の歌を贈った。

  東海の
    歌を詩いし
      人よりも
   君ぞ雄々しや
     広布の指揮とれ

 「東海の歌を詩いし人」とは、石川啄木である。
啄木は、「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」
(注)と、わが身の悲哀を詠んだ。
彼は函館で尋常小学校の代用教員をしていたことがある。
彼女も、函館の教員だが、さまざまな苦悩を背負いながら、人びとの
幸せを願い、広宣流布のため、北海の大地を東奔西走している。
伸一は、この健気なる同志を、心から賞讃し、励ましたかったのである。
芳子は、伸一が歌を揮毫してくれた色紙を目にした時、
それまで胸の底に澱んでいたものが、サッーと取り除かれていく
思いがした。それは、自分はなぜ、あの日、「洞爺丸」に乗らずに
救われたのか。それは、どんな意味があるのかという疑問であった。
そうだ! 私には、北海道広布の使命があったからこそ、
生きているんだ! これからは、あの事故で自分の命は終わったもの
と思って、わが人生を広宣流布に捧げよう!
彼女の苦闘は続いたが、両親も健康を回復し、次第に経済苦解決していった。
六〇年(同三十五年)五月三日、伸一が第三代会長に就任し、
学会は怒濤の大前進を開始した。この年十一月、芳子は
北海道女子部の副部長となった。
部長は、嵐山春子である。芳子は、陰の力に徹して、嵐山を
支え抜いた。二人は、北海道の白地図を広げては、広宣流布の
未来図を熱く語り合った。
人のため、社会のため、法のために魂を燃やす時、未来に希望の光彩は広がる。
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2012年08月15日

厚田 52

厚田 52

 助教授候補となった漆原芳子は、小樽や苫小牧へ、御書講義に行くようになった。困っ
たことには、御書を開いてもわからないことばかりである。しかし、身近には、教えてく
れる人はいなかった。
 悩んだ。教学理論誌の『大白蓮華』を第一号から取り寄せ、必死に学んだ。また、東京
などから北海道に来る幹部がいると聞けば、函館の港で待ち受け、乗り換えの列車が出発
するまでの間、懸命に頼んで教えを受けた。帰途は、函館に列車が到着し、青函連絡船が
出航する間際まで、教学を教わった。まさに背水の陣であった。
 支部の女子部の責任者としての活動も多忙を極めていった。そのころ、父母の体調も優
れぬうえに、妹が病の床に就いた。家計のほとんどを芳子が支えねばならず、洋服一着買
うこともできない生活が続いた。
 ある時、女子部員に言われた。
 「漆原さんは、いつも同じ黒いスーツばかりなんですね」
 しかし、そんなことを、気にする余裕さえなかった。
 ”今こそ、宿命転換の時なんだ。すべてをやり抜こう!”
 「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる、いまだ昔よりきかず・みず冬の秋
とかへれる事を」(御書一二五三p)の一節だけでも、身で拝したいと思った。そこに、真
実の教学の深化があると確信していた。
 自分の家庭状況を考えると、猛吹雪のなかを手探りで進んでいるような気がした。だが、
不思議なことに、悲哀は全く感じなかった。彼女の心の暖炉には、歓喜の火が赤々と燃え
ていた。その火は、希望の未来を照らし出していたのだ。
 広宣流布に生きる人の胸には、歓喜の火がある。どんな試練の烈風も、その火を消すこ
とはできない。むしろ、その火は、風が激しさを増せば増すほど、いや増して燃え盛るの
だ。そして、ますます鮮烈に、希望を照らし出すのである。信仰ある限り希望がある。

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2012年08月14日

厚田 51

厚田 51

 漆原芳子が函館支部の女子部の責任者になって三カ月後、再び教学部の任用試験が迫っ
てきた。当時、教学部員になるには、まず教学部員候補採用試験を受けなければならなか
った。この試験に合格したあと、「当体義抄」「撰時抄」、御消息文、「三重秘伝抄」の講義
が行われた。それを受講した人のみが、教学部任用試験を受験することができた。
 漆原は、教学部員候補となり、講義も受講した。そして、任用試験の合格に意欲を燃え
上がらせていた。
 彼女は、女子部のリーダーとして、受験者に訴えた。
 「戸田先生は、女子部は教学で立つように指導されています。今度の任用試験は必ず合
格しましょう」
 東京から指導に来た幹部が、受験者のために勉強会を開いてくれた。その帰り道、前を
歩いていた女子部員の話が、芳子の耳に飛び込んできた。
 「私たちは、落ちても仕方ないわよね」
 「そうよね。幹部である漆原さんだって、教学部員になっていないし……。だから、私
たちは、焦ることはないわよね」
 落雷に打たれたような衝撃を受けた。「率先垂範」といわれるが、そうでなければ、指揮
も、皆の意欲も、低下してしまうことを、身に染みて知った瞬間であった。
 ”絶対に合格しなければ!”
 彼女は、寸暇を惜しんで猛勉強に励んだ。
 任用試験は、第一次となる筆記試験が十一月十一日に実施され、全国で三千六百人余が
受験した。この試験の合格者に対して、さらに、第二次試験として口頭試問が行われた。
 その結果、助師に千三百十八人、講師に百二十九人の登用が決まったのである。
 また、成績優秀者五人が、一挙に助教授候補に登用された。助教授と同様に講義を担当
し、助教授になることができる資格である。
 漆原は、この助教授候補になったのだ。
 リーダーとしての責任の自覚は、人間の力を引き出し、急成長させる原動力となる。

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2012年08月13日

厚田 50

厚田 50

 漆原芳子は、病を克服しようと、懸命に信心に励んだ。すると、入会三カ月余りで、職
場に復帰することができた。
 その直前、あの「小樽問答」が行われた。彼女も、この法論を傍聴した。山本伸一の司
会第一声から相手の誤りを突き、学会が大勝利を収めたのである。
 それを、つぶさに見た彼女は、学会の信心に、ますます強い確信をもった。その喜びが、
さらに芳子を活動に駆り立てていった。
 実は、彼女には、自身や家族の病の克服以外にも、なんとしても知りたい、一つのテー
マがあった。”自分はなぜ、あの日、「洞爺丸」に乗らずに救われたのか。それは、どんな
意味があるのか”ということであった。
 ”もし、「洞爺丸」に乗っていれば、私も死んでいたにちがいない。生死を分けたのは、
東京行きを止めるように諭す母の言葉であった。でも、それでも行くと、私が強く主張し
ていたら、母は認めていただろう……”
 偶然といえば、偶然のようにも思えた。しかし、人生が、すべて偶然で決まってしまう
ならば、努力することさえ、空しくなってしまう。彼女は、心の底から納得し、生命で実
感できる、確かな回答を仏法に求めた。
 しかし、職場復帰を果たした彼女は、仕事に追われ、学会活動を終えると、疲れ切って
しまい、教学に取り組むことができなかった。任用試験も不合格に終わってしまった。
 一九五六年(昭和三十一年)八月、北海道に、旭川、札幌、小樽、函館の四支部が誕生
する。この時、芳子は、函館支部の女子部の責任者に任命された。
 ”自分に、役職を全うできるだろうか”という不安も感じたが、彼女は、心に決めてい
たことがあった。それは、”何があろうと、広宣流布の活動からは逃げない”ということ
であった。”引っ込み思案”である自分の性格を変えたかったからである。
 自分の弱点は何かを見つめ、そこに挑戦していこうと一歩を踏みだすことから、人間革
命が始まるのである。

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2012年08月11日

厚田 49

厚田 49

 座談会では、中心者の婦人が、人間の幸・不幸と信仰の関係について、熱心に語ってく
れた。漆原芳子も母も、心から納得した。そして、二人だけでなく、父、同居している弟、
妹も一緒に入会したのだ。一九五四年(昭和二十九年)十二月のことである。
 最初に、初信の功徳が現れたのは、父であった。交通事故で「再起不能」と言われてい
たが、歩けるようになったのだ。また、寝込んでいた母も、家事ができるようになった。
 この体験を目の当たりにして、芳子は、闇のなかに、光が差した思いがした。自分と妹
の病気も治したいと、懸命に信心に励んだ。
 彼女たちに、信心の基本を徹して教えてくれたのは、地区担当員(現在の地区婦人部長)
であった。
 「日蓮大聖人の仏法の実践の基本は、『勤行』と『折伏』なのよ。
 『勤行』で、お経を読み、題目を唱えるのは、『自行』といって、これだけだと自分のた
めだけの信心になってしまうわ。
 周りの人が苦しんでいては、自分の本当の幸せもないでしょ。だから、親戚や友人など、
周りの人たちに仏法を教え、『折伏』し、みんなを幸せにしていくのよ。これを『化他』と
いうのよ。
 私たちがめざしているのは、すべての人に正法を教えて、人びとの幸福と社会の繁栄を
実現していくことなの。それを『広宣流布』というのよ。『自行』と『化他』の実践があっ
てこそ、功徳、福運を積み、自らの宿命の転換もできるということを忘れないでね。
 だから、あなたも、座談会には、友人を連れて参加できるように頑張りましょうね」
 当時、座談会は、毎日のように行われていた。芳子は、その指導を素直に実践した。
 入会十日後には、最前線組織である「組」の女子部の中心者となった。翌月、十九人の
友人を座談会に誘い、三人が信心を始めたのだ。
 新しき前進の原動力は、新しき力にある。ゆえに、新しい人を、青年を育むなかに、広
宣流布の新天地は開かれるのだ。

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2012年08月10日

厚田 48

厚田 48

 漆原芳子が、割れた窓ガラスで負傷したころ、東京の美術館に向かう友人たちは、青函
連絡船「洞爺丸」に乗船し、函館港防波堤の灯台近くの海上にいた。
 「洞爺丸」の船長は、天候は回復すると判断し、約四時間遅れで、午後六時三十九分に
函館港を離岸した。だが、出航してほどなく、収まると思っていた風が、急速に強まって
いった。危険を回避するため、防波堤付近に投錨したが、激しい風と波に船は流され始め
た。最大瞬間風速は五十メートルを超えた。浸水も始まった。やがて機関が故障し、航行
不能となった。
 船長は、沈没を避けようと、近くの遠浅の浜辺・七重浜に座礁させたが、大波を受けて
船は横倒しとなり、午後十時四十五分ごろに沈没したのである。
 乗客乗員ら合わせて千三百十四人のうち、救助された人は、わずかに百五十九人で、死
者・行方不明者千百五十五人という、日本の海難史上、最悪の大惨事となったのだ。
 このニュースに、芳子は愕然とした。東京に向かった彼女の友人たち十数人のうち、助
かったのは二人であった。
 芳子は、人間の力では抗することのできない、運命の不条理を感じた。そして、割れた
ガラスで傷ついた、痛む足を引きずりながら、葬儀に参列したのだ。
 自分の足の傷も癒えないうちに、今度は父親が交通事故に遭い、「再起不能」と診断され
たのである。母親は、あまりのショックに血圧が上がり、床に伏す日が続いた。同居して
いた妹も、原因不明の意識障害に悩まされていた。
 芳子は、自分の人生が、真っ暗闇のように感じられた。
 そんな時、知り合いの婦人に誘われ、母と共に学会の座談会に参加した。そこには、人
びとの笑顔があり、希望があふれていた。
 「宗教は信頼と希望であり、希望は宗教の本質」(注=2面)とは、チェコスロバキア共
和国の初代大統領マサリクの叫びだ。
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2012年08月09日

厚田 47

厚田 47

漆原芳子は、北海道の函館生まれで、子どものころから画家を志し、東京の美術大学への進学を希望していた。しかし、父親が定年を迎え、家には経済的な余裕がなかった。彼女は、奨学金を受け、地元の北海道学芸大学函館分校(当時)の二年課程に進んだ。美術を専攻し、教員をめざした。
 一九五三年(昭和二十八年)三月、大学を卒業し、小学校の教師になった。年末、体調が優れず、エックス線検査を受けた。すると、結核と判明したのだ。やむなく休職することになった。
 仕事にも慣れ、いよいよ、これから≠ニいう時である。悔しくて仕方なかった。
 これが、彼女の不幸の始まりであった。
 「一寸先は闇」との言葉がある。順風満帆に見えても、何か待ち受けているのか、わからないのが人生という航路である。だからこそ、生き方の羅針盤となり、信念のバックボーンとなる宗教が必要になるのだ。
 芳子は、自宅療養をするうちに、幾分、健康を回復していった。
 療養中の五四年(同二十九年)の秋、絵の好きな大学時代の友人だちから、東京の美術館巡りに誘われた。当初、体を慣らす意味から、一緒に行く約束をしていた。しかし、母親から、「無理をしてはいけない」と諭され、直前になって断ることになった。
 皆が出発した九月二十六日は、台風十五号が北上したことで、天気は昼前から大荒れであった。しかも、夜になると、予報に反して台風は勢力を強め、風は、ますます激しくなっていった。函館の街は停電となった。漆原の家は、強風でみしみしときしんだ。
 ガッチャン!──ニ階から大きな音が響いた。強風のために窓ガラスが割れたのだ。芳子は、暗闇のなか、懐中電灯を手に二階へ駆け上がった。
 痛い!
 割れたガラスを踏んでしまった。懐中電灯で照らした。足は見る見る血に染まっていった。不吉な予感を覚えた。
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2012年08月08日

厚田 46

厚田46

 生命は永遠である。ゆえに、老いとは、終局を待つ日々ではない。今世の人生の総仕上
げであるとともに、次の新しき生への準備期間なのである。
 命の尽き果てるまで、唱題に励み、師と共に、愛する同志と共に、広宣流布の大願に生
き抜いていくのだ。そして、わが生命を磨き高め、荘厳なる夕日のごとく、自身を完全燃
焼させながら、大歓喜のなかでこの世の生を終えるのだ。
 希望に燃えるその境涯が、そのまま来世のわが境涯となるからだ。
 山本伸一は、創価の師弟について語り、追善法要でのあいさつの結びとした。
 「私どもに、直接、一生成仏の大道である大聖人の仏法を教えてくださったのは、初代
会長の牧口先生であり、前会長の戸田先生であります。今日、私たちが、信心の正道を歩
むことができるのは、幾多の弾圧の嵐をくぐり抜け、自ら犠牲になることも顧みず、大法
弘通に殉じた先師、並びに恩師がいたおかげであります。
 既に、新しい生を受け、広宣流布の戦いを進めているであろう故人たちも、創価三代の
師匠の道に続いたがゆえに、最高の生命の大道を歩み、功労者として輝くことができたの
であります。どの師匠に続くかで、人生は決まってしまう。私たちの絆は三世永遠です。
いつも一緒ですよ。
 日蓮大聖人の仰せ通りに、広宣流布に邁進してきたのが、創価学会です。どうか皆さん
は、その創価の師弟の道を貫き、一生成仏の人生を歩んでいってくださいと申し上げ、本
日の私の話とさせていただきます」
 大拍手が轟いた。そのなかに、盛んに拍手を送りながら、自分の来し方を振り返り、決
意を嚙み締める一人の婦人がいた。北海道婦人部長の斉田芳子であった。
 彼女の旧姓は漆原といい、女子部時代には、北海道の部長であった嵐山春子と共に副部
長として、また、後には部長として、北海道広布に奔走してきた女性であった。

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2012年08月07日

厚田 45

厚田 45

 日蓮大聖人は、仏界の生命を確立して亡くなった方は、死後も、すぐに、九界のこの世
界に帰って来て、広宣流布の大舞台に躍り出ると述べられた。生死は不二である。生と死
は、別のものではなく連続しており、いわば表裏の関係にあるといってよい。
 死して「死の仏」となるには、現世において、「生の仏」とならねばならない。
 しかし、今世の時間には、限りがある。
 したがって日蓮大聖人が、「臨終只今にありと解りて信心を致して」(御書一三三七p)
と仰せのように、”今しかない”と心を定め、一生成仏をめざし、一日一日を、一瞬一瞬
を、地涌の菩薩の使命である広宣流布に生き抜くことが肝要なのである。
 第二代会長・戸田城聖は、法華経の方便品・寿量品講義で、生命は永遠であることを強
く訴えている。
 「この世の中へ、また生まれてきて、また死ぬ。また生まれてこなければならない。そ
れがために、仏法ということをやかましく言うのであります。いわざるを得ないのであり
ます。死んでしまえば、おしまいだと言うのなら、仏法は必要はないことになるではあり
ませんか。
 この生命が永遠だと叫ぶ。永遠であるから御本尊をきちんと拝んで、仏の境界をつかま
なければいけないと、やかましく言うのであります。もしも『しち面倒くさい。なんだっ
ていいではないか。私は死んだら、それっきりだ』と言う人なら、そう貧乏したり苦労し
て生きている必要はないではありませんか」
 さらに、戸田は、自殺にも言及し、「この肉体というものは、法の器と申しまして、仏か
らの借り物になっております」と述べ、その大切な仏の入れ物を、勝手に壊してはならな
いと、力説している。
 仏縁を結んだ人は、いつか、必ず御本尊と巡り合える。また、周囲の人びとの題目は、
故人をも救い得る力となる。それが仏法の力であるが、自ら命を絶ち、福運を消してしま
う人を、絶対に出したくなかったのである。
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2012年08月06日

厚田 44

厚田 44

 死の解明は、宗教の使命である。そこから、いかに生きるかという人生観がつくられて
いく。ゆえに日蓮大聖人は、「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(御書一四〇四p)
と仰せになっている。
 また、大聖人は、信心を貫き通した人は、死後も、妙法によって守られることを、譬喩
を用いて、次のように述べられている。
 「けは(嶮)しき山・あしき道・つえを・つきぬれば・たをれず、殊に手を・ひかれぬ
れば・まろぶ事なし、南無妙法蓮華経は死出の山にては・つえはしらとなり給へ、釈迦仏・
多宝仏・上行等の四菩薩は手を取り給うべし」(同一二二七p)
 〈険しい山や悪い道であっても、杖をつくならば、倒れることはない。ことに手を引か
れるならば、転ぶことはない。南無妙法蓮華経は死出の山では杖・柱となり、釈迦仏、多
宝仏、上行等の四菩薩は、あなたの手をとられるであろう〉
 さらに、こう続けられている。
 「日蓮さきに立ち候はば御迎にまいり候事もやあらんずらん、又さきに行かせ給はば日
蓮必ず閻魔法王にも委く申すべく候」(同)
 〈日蓮が、先に霊山へ行くならば、あなたをお迎えにいくこともあるでしょう。また、
あなたが先にお行きになるなら、日蓮は必ず閻魔法王にも、詳しく申し上げましょう〉
 なんと、大慈大悲にあふれた、御本仏の御言葉であろうか。
 強盛な信心を貫いているならば、どこまでも御本仏に守られ、しかも、大聖人と共にあ
ることを明言されているのである。死は、決して恐れるべきものではないのだ。
 また、大聖人は、われらの死後の生命が、どうなるかについても、「滞り無く上上品の寂
光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来って」(同五七四p)と仰せである。
滞りなく最高の寂光世界(仏界)への往生を遂げ、たちまちのうちに、九界の生死の夢の
なか、すなわち人の世に帰って来ると、明言されているのだ。

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2012年08月04日

厚田 43

厚田 43

 追善法要に集った人びとは、目を輝かせながら、山本伸一の話に耳を傾けていた。
 「私たちは、必ず臨終の時を迎えます。しかし、生命は永遠です。自分の生命がなくな
るわけではありません。大宇宙に冥伏するんです。ちょうど、一日を終えて、眠りに就く
ようなものです。時が来れば、また生まれてきます。
 死んでも、三世にわたる生命の原因と結果の法則は一貫していますから、宿業も、福運
も、使命も、境涯も、そのまま続いていくんです。広宣流布に生き抜いた人は、仏・菩薩
の境涯のまま、『死の仏』となるんです。
 生きている時は『生の仏』であり、亡くなってからも『死の仏』となる──それを日蓮
大聖人は、『即身成仏と申す大事の法門』といわれているんです。
 さらに大聖人は、法華経見宝塔品の『若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり』の
文を引かれています。正法を持ち、強盛に信心を貫き通していくことこそ、一生成仏の根
本要件なんです。
 広宣流布の道は、常に険路です。牧口先生のように、殉難を覚悟しなければならないこ
ともあるかもしれない。しかし、最後まで信心の炎を燃え上がらせ、仏法に殉じていった
人の境涯は、悠々、堂々たる絶対的幸福境涯です。大歓喜の人生です。
 また、信心していても、事故や災害等で、他界する人もいるでしょう。しかし、信心を
貫いてきたならば、過去遠遠劫からの罪障を消滅し、一生成仏することができます。
 経文にも、”悪い象に殺されても、地獄などに落ちることはない”とあります。その理
由は、『悪象等は唯能く身を壊りて心を破ること能わず』(御書七p)であるからです。
 悪象等に殺されるとは、広く解釈すれば、事故や災害に遭って命を失うことともいえま
す。しかし、それによって、信心が破られることはないから、成仏できるんです。いかな
る状況で死を迎えたとしても、生命に積んだ福徳は崩れません」
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2012年08月03日

厚田 42

厚田 42

石崎好治は、草創の地区部長、支部長などを歴任する一方、北海道教育部長も務め、一九七五年(昭和五十年)に他界するまで、人間教育の開拓のクワを振るい続けてきたのである。
山本伸一は、石崎をはじめ、名誉称号が授与される故人の名前が読み上げられるたびに、その遺徳を偲びながら、拍手を送り続けた。
追善法要のあいさつで、伸一は、日蓮仏法の死生観について語っておこうと思った。
彼は、「上野殿後家尼御返事」を拝した。
「い(生)きてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり、法華経の第四に云く、『若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり』云云」(御書一五〇四ページ)
伸一は、大確信をもって講義していった。
「この御書は、日蓮大聖人から『上野賢人』といわれた南条七郎次郎時光の母親であり、南条兵衛七郎の妻である上野尼御前への御手紙です。上野尼御前は、夫が死去したあと、たくさんの子どもたちを立派に養育し、純真な信心を貫いてきた女性であります。
ここで大聖人は、亡き夫である南条兵衛七郎は、生きておられた時は『生の仏』であり、亡くなられた今は『死の仏』である。生死ともに仏であると述べられています。
なぜか――それは、広宣流布のために、この世に馳せ参じた私どもは、御本仏・日蓮大聖人の真の弟子であり、地涌の勇者にほかならないからであります。大聖人と同じく法華弘通の大願を起こし、友の幸福のために広宣流布に奔走してきたことは、自身が仏であり、地涌の菩薩であることの証明であります。広宣流布は、仏、地涌の菩薩のみが成し得る聖業だからです。
そして、“学会活動が楽しくて楽しくてしょうがない。折伏が大好きである。唱題するのが嬉しくて仕方ない。新しい挑戦の意欲が満ちあふれてくる。生きていること自体が喜びである”というのが、成仏の境涯であり、『生の仏』の姿なんです」
posted by ハジャケン at 10:37| 山梨 ☀| 新・人間革命 厚田 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月02日

厚田 41

厚田 41

 山本伸一には、石崎聖子の胸の内がよくわかった。彼は、笑顔で包み込むように語った。
 「この座談会は、大成功でしたよ。何も悲観する必要はありません。あの教員の方々の
心には、しっかりと、仏法のこと、学会のことが打ち込まれていますよ。
 それに、私は早く終わって、ご主人とお話しができればいいなと思っていたんです」
 夫の石崎好治も、自分が、あの教員たちを呼んだだけに、申し訳なく思っていた。伸一
は、好治に声をかけた。
 「ご主人は、まだ、入会されていないのに、六人もの友人を座談会に連れて来られた。
仏の使いとしての使命を果たされたんです。
 奥さん、ご主人は、必ず信心されますよ」
 こう言うと、彼は好治の肩を、ポンと叩いた。そして、好治に語った。
 「ご主人も教員をされているそうですが、大事なことは、いかなる教育理念をもつかで
す。教育者であった初代会長の牧口常三郎先生は、教育の目的は、どこまでも、子どもの
幸福にあると明言されています。
 子どもの幸福を実現するには、人間とは何か、生命とは何かを、明確に示した生命の哲
理が必要不可欠です。それを説き明かしているのが仏法なんですよ。
 石崎さんは、どうか、教え子たちの幸福を実現できる教育者になってください」
 石崎好治は、伸一の話に胸を打たれた。いや、何よりも、確信と慈愛にあふれた伸一の
人柄に共感したのだ。
 ”自分も仏法を学び、実践してみよう!”
 三日後、彼は入会した。
 夏季地方指導で多くの弘教が実った札幌では、組織の拡充が図られた。石崎は、学会の
ことも、信心のことも、わからないことだらけであったが、入会一週間後、最前線組織の
リーダーである組長の任命を受けた。
 ”私は、自ら学会についていこうと決めて信心を始めた。一度心を定めたからには、な
んでも引き受け、挑戦していこう”
 彼は、そう心に誓っていたのだ。

posted by ハジャケン at 09:50| 山梨 ☀| 新・人間革命 厚田 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月01日

厚田 40

厚田 40

 山本伸一は、静かだが、力のこもった口調で語り始めた。
 「もし、皆さんが、仏法について、本当にお聞きになりたいのなら、お話しさせていた
だきます。まず、私の話を最後までお聞きください。仏法の概要について述べたあと、質
問もお受けし、懇談いたしたいと思いますが、いかがでしょうか。よろしいですね」
 皆、呆気に取られたような顔で頷いた。
 伸一は、自分の入会の動機から話を起こして、人間は、信じる対象によって、大きな影
響を受けていることを語った。そして、宗教とは根本となる教えであり、宗教のいかんが
人間の生き方、考え方を決定づけるだけでなく、文化、社会の根底をなすことを訴えてい
った。さらに「日蓮大聖人の仏法とは何か」に言及した時、教員の一人が口を挟んだ。
 「日蓮は、仏教のなかでは異端なんじゃないかね」
 別の教員が、勢いづいて叫んだ。
 「日蓮は、排他的なんだよ。宗教間の争いを生む、危険思想じゃないか!」
 伸一は、それを手で制しながら言った。
 「私の話を、最後まで聞いてくださると約束されたではないですか! これでは、まと
もな語らいはできません。今日は、これで終了とします。解散しましょう。
 しかし、本当に話をお聞きになりたいのでしたら、また、いらしてください」
 教員たちは、中傷的な言辞を吐きながら、席を蹴るようにして帰っていった。また、石
崎聖子が連れてきた、三、四人の婦人たちも、あいさつも早々に出て行った。
 聖子は、夫と共に、伸一を別室に案内すると、ひたすら詫びた。
 「山本室長、こんな座談会になってしまって、本当に申し訳ありません!」
 伸一は、さわやかな笑みを浮かべた。
 「広宣流布の戦いには、いろいろなことがあるものです。たくさんの経験、歴史を積ん
でいくことが大事なんです。今日は、忘れ得ぬ座談会の思い出ができたではないですか」
posted by ハジャケン at 10:10| 山梨 ☀| 新・人間革命 厚田 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月31日

厚田 39

厚田 39

 質疑応答に入ると、教員たちは、「信心で幸せになれるというなら、学会員に失業者や、
病気で苦しんでいる人がいるのは、おかしいではないか」などと反論し始めた。
 担当の地区部長は、「今は、そうでも、信心を続けていけば、必ず解決できます」と答え
た。すると、「それは、逃げ口上だろう」「では、いつになったら解決するんだ。明日か、
明後日か!」「結局、宗教はアヘンなんだよ。信じれば、刹那の陶酔が得られるだけの話だ
ろう」と口々に言いだすのだ。
 彼らは、何を言っても、真面目に話を聞こうという態度ではなかった。学会への偏見が
あり、ともかく言い負かしてやろうという感情が先に立っていたのであろう。
 地区部長は、彼らの勢いに押されてか、口ごもり、立ち往生してしまった。額に汗が滲
んでいた。一緒にいた男子部の幹部は、席を外し、外に出て行った。
 青年が出て行くと、教員の一人が言った。
 「若いのは、逃げ出してしまったじゃないか。わしらに負けるのが怖いんだろう」
 ほどなくして、青年は、別の座談会に出席していた山本伸一を連れて帰って来た。
 伸一は、御書を手にして姿を現すと、仏壇に向かって、音吐朗々と題目を三唱した。厳
粛な雰囲気が会場を包んだ。
 それから、彼は、丁重にあいさつした。
 「私は、創価学会の山本伸一と申します。このたび、東京の本部から派遣され、札幌に
来ております。よろしくお願いいたします。
 お名前は、なんとおっしゃいますか」
 教員たちは、伸一から漂う気迫に気圧されたのか、か細い声で名前を言った。
 なかには、名乗ろうとしない人もいた。すると、伸一は、再度、「私は、山本でございま
す」と言い、相手の顔に視線を注いだ。
 すると、しぶしぶ名を告げた。
 仏法対話に際しては、常識豊かに、そして相手を包み込む慈愛の大きな心が大切である。
とともに、何ものをも恐れぬ、毅然とした態度で臨むことである。

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2012年07月30日

厚田 38

厚田 38

 厚田村は、晴天続きであった。
 十月三日も、さわやかな青空であった。この日は、戸田講堂で、北海道の広布功労者に
対する追善法要が営まれた。物故者に名を連ねる百五十二人は、皆、山本伸一にとって、
忘れ得ぬ共戦の同志たちであった。
 勤行の導師を務めた伸一は、故人の冥福と遺族の繁栄を、懇ろに祈念した。
 法要の席上、故人への名誉称号の授与も行われた。そのなかに、「札幌・夏の陣」と呼ば
れる、一九五五年(昭和三十年)八月の、札幌での夏季地方指導が契機となって入会した、
石崎好治の名もあった。
 夏季地方指導の札幌派遣隊の責任者であった伸一は、石崎の家を訪問したことがあった。
主の石崎好治は未入会であったが、二カ月前に妻の聖子が入会していた。彼女は、“この地
方指導で、札幌に弘教の大きな波を起こそう”と決意した。そして、夫の好治に、「わが家
で、学会の座談会を開くんですから、あなたのお友だちにも、参加するように声をかけて
ください」と頼んだ。
 好治は、小学校の教員であった。妻からは、「『創価学会』は、かつては『創価教育学会』
と言い、北海道の師範学校で学ばれた、教育者の牧口常三郎先生が、初代会長ですよ」と
聞かされた。彼は、”それなら、同僚たちを誘ってみよう”と思い、声をかけた。そして、
教員六人が座談会に参加したのである。
 座談会の担当幹部は、東京の地区部長と、男子部の幹部であった。
 座談会では、男子部員や婦人部員の体験発表があった。教員たちは、鼻先でせせら笑う
ような態度で話を聞いていた。彼らは、宗教というだけで、迷信や非科学的なものと思い
込み、教育者である自分たちには、無縁なものと決めつけていたのだ。
 「宗教に基づいていないすべての教育は、実りのないものである」(注)とは、ドイツの
教育家フレーベルの警句である。
 先入観は、真実を見る目をふさいでしまう。

posted by ハジャケン at 09:58| 山梨 ☁| 新・人間革命 厚田 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする