2012年06月14日

人材城 55

人材城 55

 午後二時前、熊本文化会館の大広間に姿を現した山本伸一は、「さあ、皆で万歳を三唱しましょう」と提案した。
 喜びに満ちあふれた参加者の「万歳!」の声が、雷鳴のように轟いた。
 伸一は、皆に視線を注ぎながら言った。
 「今日の私の話は、簡単なんです。
 まず、『勤行はきちんとしましょう』ということです。それが、信心の基本ですから。
 そして、太平洋のような大きな心で信心に励んでください。信心していても、いやな人
と出会うこともあれば、大変なこと、辛いことも、たくさんあるでしょう。しかし、そん
なことに一喜一憂するのではなく、大きな心で生きていくんです。仏の使いですもの。
 悩みは、誰にでもあります。それに心を奪われて、希望をなくし、歓喜をなくしてしまってはなりません。
 怒濤をも包み込む大海の境涯で、悠々と、また堂々と、広宣流布という人類史の大ドラ
マを演じていこうではありませんか!」
 それから彼は、ピアノに向かい、「荒城の月」「厚田村」などを、次々と演奏していった。
さらに、小さな子どもたちがいることから、「春が来た」や「夕焼小焼」などの童謡も弾いた。
 「では、これから勤行をしましょう」
 朗々たる伸一の読経が響き、皆の声が一つになった。
 伸一は祈った。ひたぶるに祈った。
 ”立ち上がれ! わが師子よ!
 君も、君も、あなたも、あなたも……新しい戦いの幕を開くのだ。困難を恐れるな! 
波浪に屈するな! 私と共に、力の限り、生命の限り、広宣流布の使命に生きよう。そこに
人生の勝利と幸福の大道があるからだ”
 伸一は、出発時刻ぎりぎりまで、熊本の同志を励ました。出会いを紡ぎ、心を結び、魂を注ぎ込んだ。
 彼は、愛する同志のために、一身を投げ出す覚悟で激励行を続けたのである。
           (第二十五巻終了)
posted by ハジャケン at 10:17| 山梨 ☀| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月13日

人材城 54

人材城 54

 勤行会のあと、山本伸一は、急いで仕事に取りかかった。どこにいても、さまざまな報
告の書類や、会長として決裁しなければならない事項が山積していた。
 執務の合間を縫うように、慌ただしく食事をし、また、執務を始めた。しばらくすると、
同行の幹部から、「先生にお会いしたいと、さらに、多くの皆さんが詰めかけております」
との報告があった。
 「わかりました。出発前に、また、勤行会をしましょう」
 午後一時半過ぎ、伸一は、熊本文化会館のロビーに顔を出した。そこで、前日、約束し
ていた乃木辰志の母親に会った。母親は、清楚で小柄な婦人であった。
 「昨日、息子さんから、お母さんのことを伺いました。子どもさんは、全部で何人いら
っしゃるんですか」
 「はい。辰志の下に弟がおります。弟も歯医者をめざして、大学の歯学部で学んでおり
ます」
 「そうですか。二人の子どもさんを、広布後継の立派な医師に育ててください。
 ところで、ご主人のお仕事は、うまくいってますか」
 「不景気ですので、必ずしもうまくいってはおりません」
 「そういう時こそ、ご主人に、優しく接していくことが大事ですよ。『信心していないか
ら行き詰まるのよ』などと言って、追い込むようなことをしてはいけません。ご主人も心
の底では、”信心するしかないかな”と思っているんです。でも、格好がつかないんです。
その心をよく理解して、聡明に、ご主人を応援し、一家の幸せを築いていくんです」
 妻が夫の入会を真剣に願うのは、一家の幸福を願う心の、自然の発露であろう。
 しかし、信仰をめぐって争い、仲たがいすることは愚かである。夫に幸せになってほし
いという原点に立ち返ることだ。その愛情と思いやりに富んだ言葉、行為をもって、夫を
包んでいくのだ。そこに仏法がある。

posted by ハジャケン at 10:15| 山梨 ☁| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月12日

人材城 53

人材城 53

 五月二十九日、熊本文化会館の周辺には、朝から大勢の学会員が待機していた。山本伸
一に一目会いたいと、熊本県の各地から来た人たちである。
 文化会館の窓から、そうした人たちの姿を見た伸一は、県長の柳節夫に言った。
 「私は、今日の午後には、東京に戻らなければならない。この機会を逃すと、しばらく
お会いできないだろうから、来られている方々のために、勤行会を開きたいと思う。全員、
会館のなかに入ってもらってください」
 アメリカの哲人・ソローは記した。
 「今こそ好機逸すべからず」(注1=2面)
 ホイットマンは叫ぶ。
 「大事なこと、それは今、ここにある人生であり、ここにいる人々だ」(注2=2面)
 伸一も、「今」の重みを痛感していた。
 午前十時過ぎから、伸一の導師で勤行が始まった。突然の勤行会開催に、集って来た人
たちは皆、大喜びであった。
 勤行終了後、九州担当の副会長が話をしている時、伸一は、熊本の幹部に尋ねた。
 「ここから、阿蘇にできる講堂まで行くには、時間は、どのぐらいかかるの?」 
 「一時間以上かかると思います」
 「そうか。じゃあ、今回は無理だな」
 阿蘇には、七月、女子部の会館として白菊講堂が、オープンする予定であった。
 マイクに向かった伸一は言った。 
 「今度、白菊講堂ができましたら、私も必ず伺います。熊本は、本当に、いいところで
す。すばらしい人材が光っています。また、おじゃまします」
 彼は、可能ならば、日本全国の、いや全世界のすべての会館を訪問し、その地域で広宣
流布のために奮闘する同志と会い、共に語らい、励ましたかった。自分の体が一つしかな
いことに、口惜しさを覚えることもあった。
 伸一は、訪問できない地域の同志には、ひたすら題目を送った。?心は、常に一緒です
よ。私に代わって地域広布を頼みます?と叫ぶ思いで、唱題に唱題を重ねてきたのだ。

posted by ハジャケン at 10:28| 山梨 ☁| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月09日

人材城 52

人材城 52

 熊本の県幹部は、目を輝かせながら、山本伸一の話に聞き入っていた。
 「問題は、多種多様な個性をもつ人材が集まると、ともすれば、個性と個性がぶつかり
合い、団結できなくなりがちだということです。では、どうすればよいのか。
 そこで、『異体同心』の『同心』ということが大事になるんです。『同心』とは、同じ目
的に生きようとする心です。私たちの立場でいえば、広宣流布という崇高な大目的に生き
抜く心です。
 大聖人は、『浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり』(御書三一〇p)の文を引かれて
いる。深きに就くことが大切なんです。
 皆が、自分の面目や、名聞名利など、小さな『我』に執着する心を打ち破り、広宣流布
の大願に立つならば、最強の団結が生まれます。それによって、自分のもつ最強の力を発
揮できるんです。一滴の水では、木の葉も穿つことはできない。しかし、海に連なれば、
大波となって寄せ返し、岩をも削ることができるではありませんか。
 学会の組織にあって、”広宣流布のために団結しよう””団結できる自分になろう”と
懸命に唱題し、努力を重ねていくなかに、自身の人間革命もあるんです。
 反対に、互いに怨嫉し合い、足を引っ張り合うようなことがあれば、それは広宣流布を
破壊する魔の働きになってしまう」
 伸一の声に、力がこもった。
 「また、リーダーは、皆が伸び伸びと力を発揮していけるように、大きく包み込んでい
ってください。
 力がないリーダーというのは、自分の意向に添わない人がいると、すぐに『あの人は駄
目だ』とレッテルを貼ってしまう傾向がある。それでは、人材は育ちません。自らの成長
があってこそ、人材は育つんです。
 教えるべきことは、忍耐強く教え、意思の疎通を図りながら、仲良く前進していくこと
です。仲が良いということが、人材が育っていく土壌なんです」
posted by ハジャケン at 10:47| 山梨 ☁| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月08日

人材城 51

人材城 51

 山本伸一は、人材育成について、さらに掘り下げて語っていった。
 「学会の組織にあっても、陰で頑張ってくださっている方々は、城でいえば『裏込』に
あたります。組織の表舞台に立つリーダーは、そうした方々を心から尊敬し、大切にして
いくことです。その方たちが?うちのリーダーは、自分のことをわかってくれている。心
から、讃え、励ましてくれる。ありがたいな?と思ってくださってこそ、力を発揮しても
らえるんです。
 たとえば、県幹部の皆さんが、座談会を担当したとします。座談会のために、会場を提
供してくださった方や、ポスターなどの展示物を作ってくださった方、あるいは、下足を
整理してくださる方もいるかもしれない。また、聖教新聞の配達員さん、書籍や民音など
を担当し、奮闘してくださっている方もいます。
 そうした方々に、心から御礼を言い、励ましていくことが大事なんです。幹部は、同志
の献身に、鋭く反応していくことです」
 何かで尽力してくださっている同志への御礼と賞讃こそ、人材を育む第一歩となるので
ある。
 伸一は、話を続けた。
 「よく、城の石垣というのは、異なる形の石を組んでつくっているから堅固であるとい
われる。学会の組織も同じです。さまざまな個性、異なる能力をもった人材が育ち、団結
していってこそ、難攻不落の創価城ができるんです。野球だって、優秀なピッチャーばか
り九人集めても、決して強いチームにはなりません。
 団結を示す『一心同体』という言葉があるが、日蓮大聖人は『異体同心』と言われた。
それは、仏法の、また、学会の団結は、一人ひとりを鋳型にはめるのではなく、異体、す
なわち、各人の個性、特質を、最大限に尊重し、生かしていくことを意味しています。
 人材城というのは、多彩な人材の集まりということなんです」
posted by ハジャケン at 10:08| 山梨 ☁| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月07日

人材城 50

人材城 50

 山本伸一は、乃木辰志の母親の近況について尋ねた。
 「母は、東京に住んでおりますが、たまたま今日は、私のところに来ております」
 「せっかくだからお会いしたいね。明日の昼、熊本文化会館に来ていただけるだろうか」
 「はい。大丈夫です」
 熊本に到着してからの伸一の行動を見てきた、県長の柳節夫は思った。
 ”先生は、一人ひとりの話に耳を傾け、真剣勝負で激励され続けてきた。懸命に、人材
を見つけ、育てようとされているんだ。この励ましこそ、創価学会の生命線なんだ。
 私は、同志への地道な激励、指導とは、かけ離れたどこかに、広宣流布の大闘争がある
ように思っていた。しかし、それは違う。先生が、熊本で示してくださっていることは、
ただただ、眼前の一人に、全力を、魂魄を、熱誠を注いで、励ますことだった。
 その一人が希望に燃え、勇気をもって立ち上がることから、一家和楽も、地域広布も、
世界平和も可能となる。広宣流布の直道は、一対一の対話、励ましにこそあるんだ!”
  
 学生部員との語らいを終えた山本伸一は、熊本市内を視察して、午後八時半に熊本文化
会館に到着した。それから、休む間もなく、代表幹部と共に勤行し、さらに、県の今後の
課題などについて語り合った。
 伸一は言った。
 「熊本県創価学会には、今の何倍も、何十倍も、多彩な人材が必要だ。人材というと、
表に立って指揮を執る人のように考えてしまいがちだが、裏で黙々と頑張る人も大切なん
です。いや、そうした人を、見つけ、育てなければ、難攻不落の創価城は築けません。
 熊本城もそうだが、堅牢な城の石垣は、表の大きな石の裏側に、『裏込』といって、砕い
た小石が、たくさん組み込まれているんです。この『裏込』が、石垣内部の排水を円滑に
し、大雨から石垣を守る。表から見えないが、その役割は重要なんです」
posted by ハジャケン at 10:36| 山梨 ☁| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月06日

人材城 49

人材城 49

 乃木辰志の母親は、辰志と共に、熊本大学の学生部員らが集っているという下宿を訪ね
た。そこで、辰志を学生部のメンバーに紹介し、「くれぐれも息子をよろしくお願いします」
と頼み込んだのである。
 やがて乃木は、母親が語っていた仏法の「生命の哲学」に興味をもつようになり、山本
伸一の著作なども読み始めた。
 伸一の著作を読んでいくうちに、仏法で説く生命論の深さに感嘆するとともに、医師と
しての、人間革命、境涯革命の重要性を痛感していった。また、学会には、確固たる人生
哲学があり、人間性豊かな触れ合いがあり、学会の組織は、人格形成の鍛錬の場であるこ
とを感じた。
 夏休みが明けたころには、乃木は、創価学会のなかで、積極的に自らを磨いていこうと
の決意を固めていた。学会の先輩に勤行を教えてもらい、会合にも参加するようになった。
弘教にも挑戦した。人の幸せを願って、真剣に対話している自分を感じた。
 ある時、東京で、高校時代のクラス会が開かれた。その時、旧友の一人が言った。
 「おまえ、変わったな。今まで、自分のテストの点数しか考えない、エゴイストだと思
っていたんだよ。そのおまえが医者になったら、どうなってしまうのか、実のところ、心
配だった。でも、今日、話してみて、今のおまえなら心配いらないと思ったよ」
 日蓮仏法は、自他共の幸福を願う、自行化他の仏法である。広宣流布という菩薩道に生
きる信仰である。乃木は、学会活動を通して、それを実践していくなかで、気づかぬうち
に自らの人格を磨き、人間革命の大道を歩み始めていたのだ。友人の話で、それを知った
彼の驚きは大きかった。
 後年、ヨーロッパ科学芸術アカデミー会長となるフェリックス・ウンガー博士は、医師
について伸一に、「私のいう『医師』とは、人間性豊かな医者です。全体観に立った人格の
光る医師です」(注)と語っている。人格の光彩こそ、医師の必須条件であろう。
posted by ハジャケン at 10:10| 山梨 ☁| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人材城 49

人材城 49

 乃木辰志の母親は、辰志と共に、熊本大学の学生部員らが集っているという下宿を訪ね
た。そこで、辰志を学生部のメンバーに紹介し、「くれぐれも息子をよろしくお願いします」
と頼み込んだのである。
 やがて乃木は、母親が語っていた仏法の「生命の哲学」に興味をもつようになり、山本
伸一の著作なども読み始めた。
 伸一の著作を読んでいくうちに、仏法で説く生命論の深さに感嘆するとともに、医師と
しての、人間革命、境涯革命の重要性を痛感していった。また、学会には、確固たる人生
哲学があり、人間性豊かな触れ合いがあり、学会の組織は、人格形成の鍛錬の場であるこ
とを感じた。
 夏休みが明けたころには、乃木は、創価学会のなかで、積極的に自らを磨いていこうと
の決意を固めていた。学会の先輩に勤行を教えてもらい、会合にも参加するようになった。
弘教にも挑戦した。人の幸せを願って、真剣に対話している自分を感じた。
 ある時、東京で、高校時代のクラス会が開かれた。その時、旧友の一人が言った。
 「おまえ、変わったな。今まで、自分のテストの点数しか考えない、エゴイストだと思
っていたんだよ。そのおまえが医者になったら、どうなってしまうのか、実のところ、心
配だった。でも、今日、話してみて、今のおまえなら心配いらないと思ったよ」
 日蓮仏法は、自他共の幸福を願う、自行化他の仏法である。広宣流布という菩薩道に生
きる信仰である。乃木は、学会活動を通して、それを実践していくなかで、気づかぬうち
に自らの人格を磨き、人間革命の大道を歩み始めていたのだ。友人の話で、それを知った
彼の驚きは大きかった。
 後年、ヨーロッパ科学芸術アカデミー会長となるフェリックス・ウンガー博士は、医師
について伸一に、「私のいう『医師』とは、人間性豊かな医者です。全体観に立った人格の
光る医師です」(注)と語っている。人格の光彩こそ、医師の必須条件であろう。
posted by ハジャケン at 10:09| 山梨 ☁| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月05日

人材城 48

人材城 48

 乃木辰志は、二浪の末に、熊本大学の医学部に合格した。
 母親は、息子の辰志が信心し、慈悲の哲学をもった妙法の医師になってほしいと、懸命
に祈り続けてきた。辰志が、受験勉強に明け暮れるなかで、自己中心的な考えに陥ってし
まっている気がしてならなかったからだ。
 文豪ゲーテの家庭医も務めた名医フーフェラントは、「自分のためでなく、他の人のため
に生きること、これが医師という職業の使命であります」(注=2面)と語っている。
 母親は、”辰志には、本当に患者を思いやる、立派な医師になってほしい”と思った。
そして、真剣に入会を勧めた。
 「医学の知識を身につければ、立派な医師になれるわけではないわ。お金儲けや、自分
の名誉のことしか考えないとしたら、医師としても、人間的にも尊敬できないでしょ。本
当に立派な医師になるには、人間としての思想や信念、生命の哲学が必要なのよ」
 母親は、息子の大成を願い、日蓮仏法の必要性を懇々と訴えた。その言葉は、辰志の胸
に深く刺さった。
 彼は、積極的に信心に励む気にはなれなかったが、一応、入会して、熊本に向かった。
 大学の入学式から数日後、母親が様子を見に熊本へ来た。彼女は?辰志を、しっかりと
学会の組織につけなければ!?と思い、必死に祈って、熊本に来たのである。
 辰志は、まず大学を案内し、それから、大学近くのスーパーに行った。すると母親は、
鮮魚を売っていた壮年に声をかけた。
 「この辺りに、創価学会の人はいませんでしょうか。ご存じありませんか」
 学会員であることを知られたくないと思っていた辰志は、恥ずかしくて汗が噴き出た。
 壮年は、こともなげに答えた。
 「おう、いるよ。すぐそこに、学会の学生部の拠点があるよ」
 壮年はブロック長をしているという。
 子を思う母の祈りは、事態を次々に開いていく。祈りは、宇宙をも動かす。

posted by ハジャケン at 10:46| 山梨 ☁| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月04日

人材城 47

人材城 47

 山本伸一と熊本県の代表メンバーとの懇談会は、既に二時間近くが経過し、午後七時を
回っていた。
 伸一は、もっと皆と語り合いたかったが、懇談会を終了することにした。参加者は、県
内各地から集って来ているため、遠い人は、帰宅するのに三時間ほどかかってしまう。し
かも、女子部や婦人部もいたからである。
 懇談会のあとも伸一は、二十一世紀のリーダーとなる、乃木辰志ら学生部のメンバーと、
さらに語らいを重ねた。彼らは、比較的、住まいも近かった。
 伸一は、乃木に言った。
 「お父さんについては、あなたが題目を送ってあげればいいんです。そして、立派な医
師になることです。それが折伏なんです。
 ところで、君とお母さんは、どちらが先に信心をしたの?」
 「母です。母の熱意に負けて、四年前、大学に入る時に、実家のある東京で入会しまし
た。今では、母に感謝しています」
 乃木の母は、一九五九年(昭和三十四年)に入会した。また、父は台湾出身で、飲食店
等を経営していた。両親は夫婦喧嘩が絶えなかった。それを見かねた隣人の学会員から、
仏法の話を聞かされたのである。
 しかし、母が信心を始めると、父は、「日本の宗教に凝るなど、とんでもない!」と、憎
悪を露にした。一家和楽を願い、入会したにもかかわらず、夫婦喧嘩は、かえって激しく
なってしまった。
 辰志は、思春期を迎えたころには、”両親の仲が悪いのは、母さんが創価学会に入った
せいだ”と思うようになっていた。だから母親から、一緒に信心するように言われても、
耳を貸さなかった。
 しかし、”母は、あれほど反対されながら、なぜ、信心をやめないのか”という疑問が、
次第に膨らんでいった。
 辰志は、”この信心には、何かある!”と感じ始めた。仏法の正義を最も雄弁に語るの
は、屈することなき信念の輝きである。
posted by ハジャケン at 10:17| 山梨 ☁| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月02日

人材城 46

人材城 46

 山本伸一は、懇談会に参加していた、学生部の代表に視線を移した。
 グレーのスーツを着て、メガネを掛けた、痩身の青年が立った。
 「熊本大学の医学部五年の乃木辰志です。学生部の部長をしております。これまでに医
学部の学友などと仏法対話を重ね、四人が入会いたしました」
 「そうか、すごいな。みんなの将来が楽しみです。北九州でも歯科医の青年たちとお会
いしたし、九州の創価学会は、お医者さんが多いのかね。
 ところで、君のご両親は?」
 「健在です。母は信心していますが、父は反対しています。それが悩みです」
 「青年には、両親が信心していないことで悩んでいる人が多いが、急いで入会させよう
と、焦る必要はありません。
 特に、君の場合は、お父さんがおられるからこそ、医学部で学ぶことができるんだから、
人一倍、感謝の心がなければいけません。それが、仏法者です。
 お父さんとお会いしたら、『お父さんのおかげで、大学に行かせていただいております。
ありがとうございます』と、心から御礼を言うことだよ。できるかい」
 「はい!」
 「それなら、今、ここに、お父さんがいると思って、言ってみてごらん。ここで言えな
かったら、面と向かった時には、もっと言えなくなるよ」
 乃木は、「はい」と言って、深呼吸を一つすると、緊張した声で言い始めた。
 「お父さんのおかげで、大学に行かせていただいております。ありがとうございます。
さらに、医学と仏法を極めていきます」
 すかさず、伸一の言葉が返ってきた。
 「そこで、『仏法』を出すからいけないんだ。そんな必要はないんです。君自身が『仏法』
であり、君自身が『御本尊』なんです。御書にも、そう書かれているじゃないか。大事な
のは、親を思う子としての振る舞いです」
posted by ハジャケン at 11:03| 山梨 ☁| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月01日

人材城 45

人材城 45

山本伸一との懇談会に出席した、代表メンバーの報告は続いた。
熊本県北部の山鹿や、西部の天草、中南部の八代、南端の水俣など、一人ひとりの話に、伸一は、じっくりと耳を傾けていった。
前年、妻を癌で亡くしたという男子部の本部長の報告もあった。「妻の分まで、一生涯、信心に励み抜いてまいります」との決意を聞くと、伸一は言った。
「その決意が大事だよ。亡くなった奥さんもそれを一番、喜ばれます。私も追善します。
順風満帆の人生は、それはそれでいいかもしれないが、そんな人生は、ほとんどありません。皆、多かれ少なかれ、なんらかの試練に直面しながら、生きているものなんです。
何もない人生であれば、ささいな障害にも不幸を感じ、打ちひしがれてしまう。人間が弱くなります。鍛えられません。
しかし、君のように、若くして最愛の奥さんを亡くしたという人は、強くなります。また、人の苦しみがわかる人になれます。したがって、誰よりも慈愛にあふれたリーダーに育つことができるんです」
フランスの女性作家ジョルジュ・サンドも、「他人に最も働きかける力があるのは、最も試練にあった人である」(注=2面)と記している。
伸一は、力を込めて言葉をついだ。
「試練は、自分を磨き、強くしていくための財産だ。心から、そうとらえていくことができれば、大成長できる。しかし、悲しみに負けて、感傷的になれば、足を踏み外し、自堕落になってしまうこともあり得る。今が、人生の正念場だよ。
君は、一人じゃないんだ。学会があるじゃないか! 同志がいるじゃないか! みんなとスクラムを組んで、強く生きるんだよ。
奥さんは、君の胸の中にいる。奥さんの分まで信心に励み、奥さんの分まで幸せになっていくんだ。成長を待っているよ」
強い響きの、温かい声であった。
青年の目は、生き生きと輝いていった。

■引用文献
注 ジョルジュ・サンド著『我が生涯の記』加藤節子訳、水声社
posted by ハジャケン at 10:17| 山梨 ☁| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月31日

人材城 44

人材城 44
 熊本県の代表メンバーとの懇談会で、県長の柳節夫から、五木の同志の報告を聞いた山
本伸一は語った。
 「五木に伝わる子守唄の守子のような境遇の子どもたちを、なんとしても幸せにしたい
というのが、牧口先生の思いであり、創価教育の原点です。また、それが学会の心です。
 断じて不幸をなくそうという、牧口先生の、この心を知ってほしいんです。
 五木の皆さんには、こうお伝えください。
 『やがて、村の多くの集落が湖底に沈んでしまう日が来るにせよ、一日一日、力の限り、
広宣流布に走り続けてください。地域の人びとの胸に、妙法の種子を植え続けてください。
集落は湖底に消えても、妙法の種子は、幸せの花を咲かせ続けていきます』と」
 「はい!」
 答えたのは、五木を擁する人吉本部の、婦人部の幹部であった。彼女は、伸一に、五木
の現況を語った。
 「五年前に、先生の激励の手拭いを届けていただいた六月八日を、『五木の日』とし、毎
年、この日にはセミナーを開き、地域広布の活動を推進しています」
 「ありがとう。すごいことです。一つ一つの思い出を大切にし、それを未来の前進の糧
にしていく。そこから、勝利の力が生まれていきます。
 五木に行きたいな。ここから五木までは、どのぐらいかかりますか」
 「車で三時間ほどです」
 「三時間ですか。それなら、今回は行けないな。本当は、皆さんのお宅を、一軒一軒回
って、激励したいんです。
 五木の皆さんとは、私は、直接、お会いして語り合ったことはないが、一念はつながっ
ています。まだ見ぬ皆さんの顔が、私の胸にありありと浮かんできます。これが真の同志
なんです。これが師弟なんです」
 そして、伸一は、「五木の同志に、句を贈ります」と言って、色紙にペンを走らせた。
 「忘れまじ 六月八日の 花の顔」

posted by ハジャケン at 10:07| 山梨 ☁| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月30日

人材城 43

人材城 43

 昭和に入ると、時代は、軍国主義化の度を深め、「滅私奉公」が声高に叫ばれていった。
そのなかで、個人主義にも、全体主義にも偏ることのない牧口常三郎の教育思想は、軍部
政府の政策とは、相反する原理であった。
 また、日蓮仏法と出合った牧口は、その教えを価値論の画竜点睛とした。
 彼は、社会的価値である「善」には、人びとに金品を施すことなど、さまざまあるが、
現世限りの相対的な「善」ではなく、「大善」に生きることを訴えた。
 牧口のいう「大善」とは、三世永遠にわたる生命の因果の法則に基づく生き方である。
つまり、法華経の精髄たる日蓮仏法を奉持し、その教えを実践し、弘めゆくなかに「大善」
があり、そこに自他ともの真実の幸福があるというのが、牧口の結論であった。
 彼は述べている。
 「吾等各個の生活力は悉く大宇宙に具備している大生活力の示顕であり、従ってその生
活力発動の機関として出現している宇宙の森羅万象──これによって生活する吾吾人類も
──に具わる生活力の大本たる大法が即ち妙法として一切の生活法を摂する根源であり本
体であらせられる」(注1=2面、以下同じ)
 そして、その妙法を根本とした生活法を、「大善生活法」と名づけた。この大善生活法を
人びとに伝え、幸福の実験証明を行うことに、彼は、生涯を捧げたのである。
 いわば、広宣流布という菩薩の行に生き抜くなかに、自己の幸福が、そして、社会の平
和と繁栄があると、牧口は訴えたのである。
 子どもの幸福を願う彼の一途な求道は、広宣流布という極善の峰へ到達したのだ。
 牧口が、獄死の約一カ月前に家族に送った葉書には、こう記されている。
 「百年前、及ビ其後ノ学者共ガ、望ンデ、手ヲ着ケナイ『価値論』ヲ私ガ著ハシ、而カ
モ上ハ法華経ノ信仰ニ結ビツケ、下、数千人ニ実証シタノヲ見テ、自分ナガラ驚イテ居ル。
コレ故、三障四魔ガ紛起スルノハ当然デ、経文通リデス」(注2)

注1 「価値創造」(『牧口常三郎全集10』所収)
第三文明社=現代表記に改めた。
注2 「書簡集」(『牧口常三郎全集10』所収)
第三文明社
posted by ハジャケン at 10:18| 山梨 ☁| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月29日

人材城 42

人材城 42

 牧口常三郎の教育目的は、明快である。
 「幸福が人生の目的であり、従って教育の目的でなければならぬ」(注)──教育思想家
としての彼の眼差しは、早くから、子どもの幸福の実現という一点を見すえていた。
 それは、苦学の少年期、そして、北海道の教員経験、さらに、東京・三笠尋常小学校な
どで、貧しい最下層の児童の現実を直視してきたことと深く関係していよう。
 社会の歪みの影響をもろに受け、満足に学ぶこともできずに労働を強いられて、ぼろ切
れのような人生を歩むことを余儀なくされた子どもたち。その子らに、幸福になっていく
ための力をつけさせたい──そこに、牧口の思いが、理想が、戦いがあったのである。
 彼は、教育現場にあって、児童の就学率の上昇、教育環境の整備、学力の向上など、多
くの実績を残した。また、半日学校制度や小学校長登用試験制度などを提唱し、教育制度
の改革にも力を尽くしていった。
 子どもの幸福を実現するための教育をめざした牧口にとって、「幸福とは何か」というこ
とは、最大のテーマであった。彼は、それは「価値の獲得」にあるとした。では、価値と
は何か──思索は、掘り下げられていく。
 牧口は、新カント派の哲学者が確立した「真・善・美」という価値の分類に対して、「美・
利・善」という尺度を示した。
 「真」すなわち「真理」の探究は、よりよい生活を送るために知識を得るという手段的
なものであり、それ自体は目的とはなり得ないとして、価値から外したのだ。
 そして、「真」に代わって、「利」すなわち「利益」を加えた。生活苦に喘ぐ庶民の子ら
に接してきた牧口は、自身の経験のうえから、「利」の価値の大切さを痛感していたのであ
ろう。彼は、「美醜・利害・善悪」を、価値判定の尺度としたのだ。画期的な、新たな価値
論の提唱である。
 牧口は「美」と「利」を個人的価値とし、社会的価値(公益)を「善」とし、個人と全
体の調和、自他共の共栄を説いたのである。
posted by ハジャケン at 10:39| 山梨 ☔| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月28日

人材城 41

人材城 41

 腹をすかせ、弁当も持たずに登校してくる子どものために、牧口常三郎は豆餅などを用
意し、自由に食べられるようにした。当初、その費用は、すべて牧口が出していた。
 やがて、給食の協力をしてくれる篤志家も現れた。「読売新聞」の一九二一年(大正十年)
十二月八日付(注1)に、こんな見出しが躍っている。
 「小学校で貧しい児童に
   無料で昼食給与
     本所の三笠小学校の試み
      夜学児童にも給与の計画
          =パンと汁を二椀」
 記事には、「本所三笠小学校では最近同校生徒中の気の毒な境遇にあるもの約百名ばかり
を選んで昼食を給与することに決定し、経費と設備の都合上当分三十五匁(約一三〇グラム=
編集部注)の麵麭(パン)一個と豆腐や野菜を材料にした汁二杯とを無料で給与し」とある。
 さらに、工場から自宅に帰らないで、直接、学校に来る夜学の生徒にも、食事の給与を
検討中であることが報じられている。
 校長である牧口の談話もある。「顔の色が蒼白でいかにも繊弱らしく見える」生徒は、「い
ずれも絶食の結果で、しかもたまたま昼食を食べても碌な物を食わぬから全く栄養不良に
陥っているのさえある」と述べている。
 また、牧口は、工場から自宅に帰れずに学校へ来る夜学生への、食事の給与も考えてい
ると語ったうえで、「満腹する程与えてないのに『お前は学校で食べて来たろう』と言って
宅で食を与えぬようなことが起りはせぬかとそれを心配してる」とも語っている。
 彼は、どこまでも子どもの置かれた現実に立って物事を考え、悩み、そして不屈の闘魂
をたぎらせて改善を進めていった。
 哲人エマソンは、貧しい一女性の言葉に強く感銘し、その言葉を書き残している。
 ──「困難が増せば増すほど獅子のような勇猛心をふるいおこす──これが私の主義で
す」(注2)
 それは、まさに牧口の信念でもあった。

posted by ハジャケン at 09:45| 山梨 ☀| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月26日

人材城 40

人材城 40

 一九二〇年(大正九年)六月、三笠尋常小学校、同夜学校の校長に就任した牧口常三郎
は、同時に住居も、家族と共に学校内にある官舎に移した。
 彼には、名門校の校長になりたいなどという願望は、全くなかった。最も不幸な、大変
な生活環境のなかに生きる児童に、教育の光を送ることこそ、教育者の使命であると考え
ていたからである。
 三笠小は、壊れた窓ガラスを厚紙で塞ぎ、風の侵入を防いでいるような、施設の補修も
十分にできない恵まれぬ小学校であった。
 しかし、牧口は、満身に情熱をたぎらせ、児童のために心血を注いだ。当時の三笠小は、
「十五学級約八百人の児童が三部に分かれて教授を受けている。即ち四年以下が午前と午
後とに、五、六年は全部夜間にということになっていて、授業時間は二十一時乃至二十四
時である」(注1=2面、以下同じ)とある。
 授業は、なんと午前零時まで行われていたのだ。校長の牧口が、校内にある官舎で暮ら
したのは、まさに二十四時間、児童のために尽くそうと覚悟していたからだ。
 また、保護者についても、次のように記述されている。
 「父兄は悉く労働者階級というのだから、教育よりも食うことという念慮が強い。した
がって児童の大部分はそれ相応の労働に従事せねばならない。そして多少の賃銭を得て活
計を助けているのである。こういう状態だから出席歩合なども、平均七五・三五という低
率である。彼等のうち、六ケ年も学校に出すというのはいい部類だ。中には全然之を避け
ようとする、若しくは避けなければならぬ余儀ない事情の者もある」(注2)
 牧口は、ここでも児童の家を訪ね、子どもを学校に通わせるように、親を説得して回っ
た。児童の将来のために、学ぶことの大切さを力説した。聞く耳をもたない親たちも、牧
口の慈愛に満ちた真剣な訴えに、遂には登校させることを約束するのだ。真心を込めた情
熱の対話こそ、事態を打開する直道である。
posted by ハジャケン at 10:49| 山梨 ☔| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月25日

人材城 39

人材城 39

 大正尋常小学校の教員、保護者は、権力者の不当な圧力で牧口常三郎が、同じ下谷区の
西町尋常小学校に転勤させられるという話を耳にする。誰もが強い憤りを覚えた。
 牧口の転任の撤回を求めて、教員は辞表を提出し、保護者は子どもを学校にやらないと、
”同盟休校”に踏み切った。
 だが、辞令を撤回することはできず、牧口は西町小の校長に異動となる。この西町小奉
職中に、北海道から東京に出てきた、若き日の戸田城聖と出会うのである。牧口は、この
赴任に際しても、「どの校長も一番に伺候する家」と言われていた、あの大物政治家のとこ
ろへ、あいさつに行くことはなかった。
 大物政治家の怒りはますます燃え上がり、東京市の教育課長や区長を動かし、再び牧口
の排斥に乗り出す。そして、赴任わずか三カ月で、東京市東部の本所区三笠町にある三笠
尋常小学校への転任の話がもちあがるのだ。
 同校は、貧困家庭の子どもたちのために設けられた東京市の「特殊小学校」のうちの一
校であった。授業料は徴収せず、学用品を提供し、児童のための、入浴、理髪の施設もあ
り、校医が疾病の治療にもあたるようになっていた。
 三笠小への人事異動は、教師の間では「辞めさせることが狙いだ」と囁かれ、同校は”
首切り場所”などと言われていたのだ。
 この転任に対して、西町小でも、教員らによる牧口の留任運動が起こった。牧口の尽力
で同校の臨時代用教員になっていた戸田も、運動の先頭に立った。だが、留任はかなわず、
牧口は三笠小へ転任となったのである。
 戸田は、既に牧口を、人生の師と定めていた。その牧口と行動を共にしようと、後を追
うようにして三笠小に移る。そして、同校の訓導となり、師弟共に、最も貧しい子どもた
ちの教育に、全精魂を傾けるのである。
 師匠が最大の窮地に立った時に、弟子が何をするのか──それこそが、本当の弟子か、
口先だけの、あわよくば師を利用しようとする弟子かを見極める、試金石といえよう。

posted by ハジャケン at 10:25| 山梨 | 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月24日

人材城 38

人材城 38

 牧口常三郎は、一九一三年(大正二年)に赴任した東盛尋常小学校をはじめ、大正尋常
小学校、西町尋常小学校、三笠尋常小学校、白金尋常小学校、麻布新堀尋常小学校で、校
長を歴任することになる。
 牧口が最初に校長として赴任した、東盛尋常小学校は、東京市北部に位置する下谷区の
龍泉寺町にあり、貧しい家庭が多く、文房具を持っていない児童も多かった。彼は、文房
具を一括購入し、市価より安価で配布するなど、心を配らねばならなかった。
 牧口は、東盛、大正、三笠、麻布新堀の各校では夜学校の校長も兼任していくことにな
る。夜学校は、昼間、労働しなければならない貧困家庭の児童が通えるように、尋常小学
校に併設された学校である。
 彼は、すべての子どもに愛情を注いだが、貧しい子ども、悩める子どもには、特に心を
砕いた。また、権力に迎合し、身の安泰を得るような生き方を嫌った。
 東盛尋常小学校で大きな教育実績を残した牧口は、隣町に新設された大正尋常小学校の
校長となり、その夜学校の校長も兼務する。ここも、貧困家庭が多く、読み書きができな
い親もいた。就学率は低かった。牧口は、自ら児童の家を家庭訪問し、「学校なんか、行か
ないで働け!」という親を、説得して歩かねばならなかった。
 この大正小で、ある時、地元の有力者が、自分の子どもを特別扱いするように、校長の
牧口に頼みに来た。断ると、その有力者は、東京市政を牛耳る大物政治家に、牧口の排斥
を要請する。
 牧口には、”教育にかかわりのない者が権力にものをいわせて教育に口を出すべきでは
ない”という、一貫した強い信念があった。大物政治家は、前々から、それが面白くなか
ったようだ。そこで、地元有力者の意向を聞き入れ、牧口を左遷する。
 権力におもねらず、信念を貫こうとすれば、迫害という嵐が競い起こる。それに負けぬ
強さをもつことこそ、改革者の条件である。
posted by ハジャケン at 10:02| 山梨 ☀| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月23日

人材城 37

人材城 37

 牧口常三郎は、一八九九年(明治三十二年)七月、北海道師範学校の附属小学校で主事
事務取扱(校長代理)となり、さらに、翌年一月、師範学校の舎監となる。二十八歳の時
である。
 しかも牧口は、地理学の研究を重ね、原稿も書きためてきた。この原稿を携え、東京に
渡った。一九〇三年(同三十六年)十月、彼は『人生地理学』を出版する。それは、「地理
学は地と人生との関係を説明する科学なり」(注1=2面、以下同じ)との観点から、風土、
地形、気候などの地理的現象が、人間生活にどのような関わり合いをもつかを探究した書
であった。
 学者としては無名の牧口の著作であったが、後に京都帝国大学教授となる地理学者の小
川琢治は、高く評価した。
 社会学者・田辺寿利も、「この書の出現によってわが国の地理学がその外貌を一変した」
(注2)と感嘆している。
 牧口は『人生地理学』出版の直後から、中国人留学生のために設けられた弘文学院(後
に宏文学院)の教壇に立ち、地理学を教えた。同時期に、魯迅もこの学校で学んでいる。
 日本は日清戦争に勝利していたことから、蔑視の眼で中国人を見る日本人もいた。
 牧口は、彼らをこよなく敬愛し、大切に接した。中国の青年たちは、牧口の『人生地理
学』を翻訳して、発刊している。
 また、牧口は、高等女学校に進みたくとも、経済的な事情などから進学することができ
ない子女の教育の場として、通信教育を行う大日本高等女学会を創立している。
 人間が円満な社会生活を送っていくためには、教育は不可欠である。ゆえに、“学びたく
とも学べない人に、修学の場を与え、学の光を送りたい”というのが、教育者・牧口の、
一貫した姿勢であった。
 彼の胸中に燃え盛っていたのは、眼前の一人の児童、生徒、学生に、”なんとしても幸
福な人生を生き抜いてもらいたい”と願う、慈愛の情熱の炎であった。
posted by ハジャケン at 10:22| 山梨 ☁| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月22日

人材城 36

人材城 36

 牧口長七が北海道に渡ったのは、十三歳ごろであったようだ。”音信不通になったまま
の実父を捜したい”という思いもあったのかもしれない。
 彼は、小樽警察署で給仕をしながら、寸暇を見つけては読書と勉強に励んだ。その熱心
な勉強ぶりから、つけられたニックネームが”勉強給仕”であった。
 やがて、牧口は、北海道尋常師範学校(現在の北海道教育大学)に、第一種生として入
学する。公教育に尽力する有能な人材として、郡区長から推薦されての入学である。
 師範学校は、全寮制で、授業料も、生活費も官費で賄われ、卒業後は、一定期間、教職
に就くことが義務づけられていた。牧口にとっては、それが学校で学ぶための、唯一の道
であったのであろう。
 「学問は米を搗きながらも出来るものなり」(注=2面)とは、福沢諭吉の箴言である。
 福沢や牧口の青年期と比べ、今や時代は、大きく変わった。学ぼうという強い志さえあ
れば、学びの道は随所にある。
 牧口は、一八九三年(明治二十六年)に北海道尋常師範学校を卒業すると、同校の附属
小学校の訓導(教員)として、教員生活のスタートを切った。さらに、母校の師範学校で
も、地理科の担当として教壇に立つ。
 彼は、附属小学校では単級教室を担当した。単級とは、全学年の児童で編成された一つ
の学級である。
 牧口は、雪の降る日などは、登校してくる児童を出迎えた。下校時には、小さな子ども
を背負い、大きな子どもの手を引いて、送っていった。また、学校では、湯を沸かして、
アカギレだらけの子どもの手を洗ってやった。
 このこまやかな気遣いの行動は、児童の幸せを願う牧口の思いの、現れといえよう。気
遣いは、真心の結晶である。
 教員としての新生活が始まった、九三年の一月、牧口は「長七」の名を「常三郎」に改
めた。二十一歳のことである。
posted by ハジャケン at 10:19| 山梨 ☀| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月21日

人材城 35

人材城 35

山本伸一は、五木地方に伝わる子守唄の意味や背景を考えると、社会の不条理のしわ寄せは、最終的には、最も弱い者、つまり、庶民に、しかも、小さな子どもたちにくることを、あらためて痛感せざるを得なかった。
大人社会の歪みの犠牲となる子どもたちの実態を、教育者としてつぶさに見て、改革に立ち上がったのが、初代会長の牧口常三郎であった。
五木の守子に限らず、明治、大正、昭和という激動の時代の底辺で、悲惨な境遇のなかで生きることを余儀なくされた子どもたちは少なくない。
牧口自身も、その幼少期は、不遇であったといってよい。
牧口は、一八七一年(明治四年)の六月六日(旧暦)、柏崎県刈羽郡荒浜村(現在の新潟県柏崎市荒浜)に生まれた。渡辺長松・イネの長男であり、長七と名づけられた。
父親の長松は、長七の幼年期に、北海道へ出稼ぎに行ったまま、音信が途絶えてしまう。
一八七六年(明治九年)に母・イネは再婚。長七は、父・長松の妹のトリが嫁いでいた牧口善太夫の家に養子として引き取られる。
日本は、七二年(同五年)に、国民皆学をめざして学制を実施しており、牧口姓となった長七も、七八年(同十一年)に尋常小学に入学した。当時の修学期間は、下等小学四年、上等小学四年であった。
八二年(同十五年)、牧口長七は下等四年を修了すると、養父のもとで働くことになった。成績優秀であった彼は、周囲から才能を惜しまれ、進学を勧められたが、家庭の事情が、それを許さなかった。
荒浜村の七四年(同七年)度の就学率は、約一七パーセントにすぎない。牧口の入学は、その四年後である。尋常小学に入学できた彼は、教育の面では、恵まれていたといえるのかもしれない。
子どもがいかに扱われているか――そこに、その国の文化、本当の豊かさを見極める重要な尺度があるといってよい。
posted by ハジャケン at 10:16| 山梨 ☁| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月19日

人材城 34

人材城 34

 五木地方の子守唄には、”口うるさい老婆は、ガンと殴りつけろ”という、守子たちの
激しい憎悪を露にした歌詞さえもある。
 哀切の調べに満ちた子守唄のなかに流れているのは、卑下や疎外感、あきらめだけでは
ない。批判や居直り、怒りがあり、そして、強かな抵抗心や自立の誇りも脈打っている。
 その抵抗の対象は、直接的には口うるさい老婆や雇い主などである。しかし、それにと
どまらず、自分を不幸な境遇へと追い込む見えざる何か、いわば”運命”への抵抗ともい
うべきものを感じさせる。
 この守子たちは、路上などに集まって子守をした。集まれば、仲間ができる。仲たがい
もあれば、告げ口もある。守子は歌う。
 「山でこわいのは イゲばら 木ばら 里でこわいのは 守りの口」(注1=2面、以下
同じ)。里では、同じ守子の口こそが怖いというのだ。
 守子同士の関係は、うっかりしていると出し抜かれかねない、緊張感をはらんだ面もあ
ったのであろう。
 だからこそ、気の許せる守子同士の結合は強くなる。
 「おれと お前さんな 姉妹なろや お前ゃ姉さま わしゃ 妹」(注2)ともある。い
わば、“姉妹”の思いをいだくほど、強い絆に結ばれていったのだ。
 また、”自分が死んでも泣いてくれるのは蟬ばかりだろう”という歌とともに、「蟬じゃ
ござらぬ いもつで ござる いもつ泣くなよ 気にかかる」(注3)とある。
 ”いもつ”は妹のことである。その妹というのは、どこにいるのであろうか。もしも、
ここでいう妹が、姉妹の契りを交わした守子をさしているならば、その絆の強さは、いか
ばかりであったことか。
 ともあれ、彼女たちの強かさを支えたものの一つは、守子同士の?姉妹的結合?であっ
たことは間違いない。
 孤独感は、心を弱くするが、人との強い絆を自覚するならば、心は鉄の強さをもつ。
posted by ハジャケン at 10:25| 山梨 ☁| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月18日

人材城 33

人材城 33

 「五木の子守唄」は、母親が子どもを寝かしつけるための、愛に満ちた歌ではない。子
守をするために年季奉公などに出された「守子」たちの歌である。その娘たちが、言うに
言われぬ、子守の辛さ、悲しさ、やるせなさを込めて歌った、慰めの歌といえる。
 山本伸一が、「五木の子守唄」を初めて聴いたのは、一九五三年(昭和二十八年)に、長
男の正弘が生まれたころであった。
 ラジオから流れる「おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと 盆が早よくりゃ早よ
もどる」との歌を聴いた時、その哀切な調べが、胸を突いた。
 守子の年季奉公が明ける日を指折り数えて待つ、いたいけな娘の姿が、目に浮かぶよう
な気がしたのである。
 歌には、富裕な人たちの衣服を羨むような言葉もあれば、”自分が死んだら誰が泣いて
くれるのか”と嘆く詞もあった。
 守子は、数え年七、八歳から十五歳ぐらいまでの少女であろう。多くは、他郷から守子
に出された貧しい家の子であり、学校にも通わせてもらえなかったにちがいない。
 歌には、自分の境遇へのあきらめが漂っているように感じられた。
 しかし、後年、伸一は、五木地方で採集された、七十ほどの子守唄を収めた一冊の本を
読んで、守子たちの強かな感情の表出を見た思いがした。こんな歌詞もあった。
 「子どん可愛いけりゃ 守りに餅くわせ 守りがこくれば 子もこくる」(注=2面)
 ──子どもが可愛いのなら、守子に餅を食わせろ。空腹で守子が倒れてしまえば、背負
われている子どもも倒れてしまうのだから。
 そこには、自分の置かれた境遇を、ただ嘆きつつ、耐え忍ぶだけの、か弱い乙女の姿と
は、別の顔が浮かび上がる。不条理への抗議の心が、あふれ出ていよう。
 それは、虐げられても、なお負けずに生きる、民草(民衆)の根強さにも通底している。
人間は誰もが力を秘め、そして、誰にでも、幸せになる権利があるのだ。
posted by ハジャケン at 10:56| 山梨 ☁| 新・人間革命 人材城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする