2012年01月27日

共戦 62

共戦 62

 追善法要に続いて、山本伸一は、「山口未来会」の三十人ほどのメンバーと懇談会をもっ
た。三年前に結成され、年長の人は、既に大学生になっていた。
 伸一は、最初に皆と記念撮影したあと、一人ひとりに言葉をかけながら、信心は、持続
が大切であることを訴えた。
 「高校生ぐらいまで純粋に信心に励んでいても、大学生になって、さまざまな誘惑に負
け、自分を磨くことをやめて、遊びほうけてしまう人もいる。
 また、大学時代まで一生懸命に頑張って、一流企業に就職する。すると、自分が偉くな
ったような気になって、貧しいなかで懸命に学会活動に励む同志の偉大さがわからなくな
ってしまう。そして、庶民を蔑むようになり、学会から離れていった人もいます。
 君たちには、そんな生き方をしてほしくないんです。諸君が守るべきは、民衆です。最
も苦労し抜いてきた学会員です。その使命を果たすための未来会です。
 どうか、年々歳々、広宣流布への情熱を燃え上がらせていってください」
 メンバーの瞳が、凛々しく輝いていた。
 山口文化会館の庭には、北九州へ出発する伸一を見送ろうと、多くの同志が詰めかけて
いた。それを聞くと、伸一は、皆を大広間に案内するように指示した。時刻は午後三時半
を回っている。四時には、出発しなければならない。しかし、彼は大広間に向かった。
 「これから一緒に題目を唱えましょう。特別唱題会です。皆さんの願いが、すべて叶う
ように、私も、しっかりとご祈念します」
 法のため、同志のために、自身の生命を削らずしては、広宣流布の開拓はできない。わ
が身を燃やして、皆の魂に不退の火をともしていくのだ。伸一は自らの行動を通して、そ
れを伝えたかったのである。また、そこに、「第二の山口開拓指導」の眼目があった。
 唱題が終わると、彼は言った。
 「さあ、今度はピアノを弾きます!」
            
(この章終わり)
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2012年01月26日

共戦 61

共戦 61

 千日尼は、日蓮大聖人が佐渡流罪中に、夫の阿仏房と共に帰依したとされている。
 その千日尼に対して、大聖人は、「亡くなった阿仏房の聖霊は、法華経の明鏡に照らして
見るならば、霊鷲山にある多宝仏の宝塔の中で、東向きに座っておられると、日蓮は見て
いる」と述べられている。
 山本伸一は、この御文を通して、確信をもって訴えていった。
 「霊鷲山とは、インドにある山の名前で、釈尊が法華経を説いた場所です。その霊鷲山
の多宝仏の宝塔とは、生命論のうえから結論して言うならば、御本尊のことであります。
 妙法広布に活躍するわれら地涌の勇者は、死後は御本尊にいだかれ、未来世は、ずっと、
東天に朝日が昇るように、生き生きと生命力豊かに、御本尊と共に生まれてくるのであり
ます。
 つまり、広宣流布という未曾有の聖業に、尊い生涯を捧げた人の生命は、この地球上に、
または、この地球と同じような国土に生まれ、大歓喜のなか、広宣流布のために活躍して
いけることは間違いありません。
 また、戸田先生は、『亡くなった人には、題目を唱えて祈念する以外に何も通じないのだ』
と、よく言われていた。妙法とは、この大宇宙において生命と生命をつなげていく、いわ
ば電波のような働きといえます。
 この意味からも、力強い題目を唱えることが肝要です。生命力を満々とたたえた皆さん
の題目によって、諸精霊が威光勢力を増し、それによって、追善した自身の威光勢力も、
増していくのであります。この生命の交流を先祖無数の方々につなげていくのが、われわ
れの追善法要の意味といえます。
 本日の厳粛な儀式を、先覚の同志も、心から喜んでいるものと確信いたします。
 私どもは、単に哀悼の感情にひたり、故人を回向するのではなく、強盛なる信心で、妙
法の不可思議なる生命の力を確信し、故人と共に、三世にわたって、勇んで広宣流布の道
を歩んでまいろうではありませんか」
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2012年01月25日

共戦 60

共戦 60

 五月二十二日──山本伸一の山口訪問の最終日である。彼は、この日の午後四時に、北
九州へ向かうことになっていた。
 この日の午後、山口文化会館で、「山口広布功労者追善法要」が行われた。
 伸一は、導師を務め、広宣流布の開拓者の方々に、懇ろに追善回向の題目を送った。
 席上、故人の代表に「名誉副理事長」などの名誉称号が贈られ、伸一のあいさつとなっ
た。
 「本日、追善申し上げた功労者の方々は、日蓮大聖人の仰せ通りに、仏法にすべてを捧
げ、広宣流布の礎となられた、立派な地涌の菩薩であり、まことに尊い仏であります。
 ご遺族の方々は、この名誉ある道を歩んだ先覚者の遺志を、必ず継承していってくださ
い。その意味から、ご自分を、単なる『遺族』と考えるのではなく、南無妙法蓮華経とい
う宇宙根源の法を持った、広宣流布の『後継者』であると、強く自覚していっていただき
たいのであります。
 また、ただ今、故人に対して名誉称号を贈らせていただきましたが、これは、世間によ
く見られるような権威の象徴ではありません。御本仏・日蓮大聖人の御聖訓のままに信・
行・学を貫いた、仏法上の厳然たる証拠としての称号であります。
 したがって、これを軽視することは、妙法広布に生きた、故人の尊い足跡をないがしろ
にすることに通じます。ご遺族は、この称号を、最高の誉れとし、後継者として信仰の大
道を歩み、故人の遺徳を証明していってください。それがまた、一家、一族に大きな功徳
の花を咲かせることは間違いありません」
 ここで伸一は、「広宣流布に戦い、殉じた人は、いったい、どうなっていくか。それを大
聖人は端的に記されています」と言って、「千日尼御返事」の一節を拝した。
 「されば故阿仏房の聖霊は今いづくにか・をはすらんと人は疑うとも法華経の明鏡をも
って其の影をう(浮)かべて候へば霊鷲山の山の中に多宝仏の宝塔の内に東む(向)きに
をはすと日蓮は見まいらせて候」(御書一三一九p)
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2012年01月24日

共戦 59

共戦 59

 山本伸一は、集った人たちに、視線を巡らしながら語った。
 「このたび、山口市と徳山市に文化会館ができましたが、防府は、あくまでも山口創価
学会の原点の地です。山口広布の原動力となる地であります」
 伸一が第三代会長に就任した一九六〇年(昭和三十五年)五月三日、山口支部が結成さ
れ、その支部事務所が置かれたのは防府であった。さらに、六五年(同四十年)、防府会館
が誕生すると、同会館は、県の事務機能の中心となってきたのである。
 また、歴史的にも防府は、山口県南部、東部を占める周防国の国府として栄えてきた。
 伸一は、言葉をついだ。
 「どうか防府の皆さんは、”自分たちこそ、山口創価学会の中心である””ここは山口
の人びとを幸福にしていく原点の場所である”との誇りをもって進んでください」
 アルメニアの詩人イサアキャンは、「何があろうとも、人間よ、誇り高くあれ」(注)と
詠っている。
 誇りは、人間の魂を貫く背骨である。誇りある人は強い。誇りある限り、いかなる困難
にも、挫けることはない。
 伸一は、ひときわ、力強い声で言った。
 「本日は、万感の思いを込めて、防府の皆さんに、句をお贈りしたいと思います。
  
  広宣の
    原点ここなり
        防府城
  
 皆さんは、その意義深き防府に出現した、如来の使いです。地涌の菩薩です。そして、
信頼する不二の師弟です。その誇りを胸に、勇んで広布の道を走り抜いてください。
 では、また、お会いしましょう!」
 短時間であったが、防府の友にとっては、忘れ得ぬ、ひと時となった。
 伸一が山口文化会館に着いたのは、午後十時近かった。
posted by ハジャケン at 09:38| 山梨 ☁| 新・人間革命 共戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月23日

共戦 58

共戦 58

 山本伸一の乗った車は、徳山から山口文化会館へ向かった。三、四十分したころ、同乗
していた妻の峯子が言った。
 「防府の人たちが、会館に集まっていらっしゃるそうですよ」
 峯子は、中国婦人部長の柴野満枝から、そう聞いていたのである。
 車を運転してくれている人の話では、防府会館は、ここから数分であるという。
 「行こう! 短時間でも、全力で励まそう。みんな待ってくれているんだもの……」
 防府会館にいた人たちは、?山本先生に、防府にも来ていただきたい?との思いで、集
って来た人たちであった。しかし、午後八時半を回ったことから、帰途に就こうとしてい
たのである。その時、乗用車が止まった。
 「こんばんは!」
 玄関に、伸一の笑顔があった。その後ろには、峯子の姿もある。歓声があがった。
 小さな木造の会館である。会館に入ると、伸一は尋ねた。
 「勤行しても、周囲に声は漏れませんか」
 「雨戸を閉めれば大丈夫です」
 「雨戸を閉めて、短時間、小声でいいから、勤行をしましょう。皆さんのご健康とご長
寿、ご一家の繁栄を祈念したいんです」
 勤行を終えると、伸一は、部屋に置かれていた電子オルガンに向かった。
 彼は、「私の、せめてもの皆さんへのプレゼントです」と言うと、音量を絞って、「厚田
村」や「熱原の三烈士」など、次々と演奏していった。
 「皆さんは、ずっと待っていてくださったんでしょ。その”真心”に応えたいんです。
世間は”打算”ですが、信心の世界、学会の世界は”真心”なんです。
 広宣流布をめざして、師匠と弟子の、同志と同志の、心と心がつながってできているの
が、創価学会です。だから、学会は、組織主義ではなく、人間主義の団体なんです。そこ
に学会の強さがある。その清らかな精神の世界を守るために、私は戦っているんです」
posted by ハジャケン at 10:29| 山梨 ☁| 新・人間革命 共戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月21日

共戦 57(必読)

共戦 57

 山本伸一は、中国方面の男子部幹部には、こう語った。
 「どこまでも師匠に、また、学会本部に呼吸を合わせ、その指導通りに進んでいくこと
が大事です。学会の正道を歩み、自分を鍛え抜いて、大きく成長していくんです。
 それを、自分勝手に、やりやすいように、組織を動かしていこうとすれば、自分も組織
も、広宣流布の軌道から離れ、必ず空転してしまうことになる。
 我見で組織を動かそうとすると、まず、人事が公正さを欠くようになる。そして、なに
かと自分に便宜を図ってくれるような人ばかり取り立てて、周りに集める。
 その結果、信心で結ばれているはずの学会の組織が、”親分・子分”のような、歪んだ
関係になっていく。それは、組織利用です。仏意仏勅の団体である創価学会を内側から蝕
む、師子身中の虫に等しい行為です。学会の世界には、世間の派閥のようなものがあって
は、絶対になりません。
 ところが、伸び悩んでいる組織や、信心がすっきりしていない感じの組織というのは、
つぶさに見ていくと、そういう問題をかかえていることが多いんです。
 したがって、人事を検討する人たちは、皆が強い責任感をもって、徹して厳正に行うこ
とです。人事がいい加減であったり、失敗すれば、学会の破壊につながっていくことを忘
れないでください」
 伸一は、未来のために、力の限り語り続けた。青年の一言の発言、一つの振る舞いを契
機に、激励、指導が、堰を切ったように、彼の口からあふれた。
 「青年は、苦労して、力をつけていくんだよ。青年の最大の敵は、”学歴がない”とか、
”貧しいから”とか言って、自己を卑下する心をもつことだ。広宣流布という最高最大の
大志に生きる創価の青年は、常に前向きに、無限の挑戦を続けていくんだ!」
 激励に次ぐ激励を重ね、伸一が車で徳山を出発したのは、午後八時過ぎであった。
posted by ハジャケン at 11:07| 山梨 🌁| 新・人間革命 共戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月20日

共戦 56

共戦 56

 山本伸一が、心の強さを強調したのは、日蓮仏法は、いわゆる”おすがり信仰”ではな
く、”人間革命の宗教”であることを、訴えておきたかったからである。
 最後に、彼は、「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(御書一三三八p)と
の御文を拝した。そして、日蓮大聖人の仰せのままに、広宣流布に邁進する創価学会にこ
そ、信心の血脈があることを力説し、結びとしたのである。
 勤行会終了後、伸一は、中国方面の青年部の代表と、徳山駅前のレストランで食事をし
ながら懇談した。
 彼は、二日前に、広島などから山口文化会館に応援に来ていた青年部の職員を、地元に
帰すように指示した。他県のメンバーを交えずに、山口県の職員や青年たちを、直接、訓
練したかったからである。
 しかし、帰って行った青年たちが、どんなに寂しい思いをしていたか、彼は痛いほどわ
かっていた。だから、そのメンバーも、徳山での懇談会に招いていたのである。
 伸一は、食事のマナーなどを、青年たちに教えながら、共に食卓を囲んだ。
 食事のあとも、レストランの和室で、さらに、青年部の代表と語り合った。
 彼は、女子部の幹部に言った。
 「みんなも、やがて結婚し、婦人部に行くでしょう。子育てに追われ、生活に疲れ果て
ることもあるでしょう。また、第一線の組織活動で、苦労することもあるでしょう。しか
し、自分は、女子部員のリーダーであったという、誇りと気概を忘れないことです。
 ”私は、大事な学会の組織を託された!””自分を慕ってくれた人たちがいる!”とい
うことを忘れず、自身の原点として、頑張り抜いていくんです。女子部時代に、中核とし
て信心に励んだ功徳、福運は大きい。だから、途中、いかに辛いこと、大変なことがあっ
ても、信心を貫いていけば、必ず幸せになれます。人生の大勝利者になれます」
 魂を注ぐ思いで、伸一は訴えていった。
posted by ハジャケン at 10:25| 山梨 ☁| 新・人間革命 共戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月19日

共戦 55

共戦 55

 山本伸一の指導は、信心の基本姿勢に及んでいった。
 「日蓮大聖人は、人間の不幸の最大の原因は、煎じ詰めるならば、正法誹謗、すなわち
宇宙の根本法である南無妙法蓮華経への誹謗であると、明快に結論されている。同時に、
幸福への直道は、南無妙法蓮華経への信仰にあることを明らかにされています。
 そして、過去の罪障を消滅し、絶対的幸福境涯を確立していくための、究極の当体とし
て、御本尊を顕されました。その御本尊に直結し、広宣流布に生き抜いていくならば、一
生成仏は間違いない。その道を教え、正しく実践しているのは、世界中で創価学会しかな
いことを、私は断言しておきます。
 しかし、御本尊がいかに偉大であっても、持つ人の信心が弱ければ、功徳は出ません」
 ここで、伸一は、「『必ず心の固きに仮って神の守り則ち強し』云云、神の護ると申すも
人の心つよきによるとみえて候、法華経はよきつるぎ(剣)なれども・つかう人によりて
物をきり候か」(御書一一八六p)との御文を拝した。
 「妙楽大師は『必ず心が堅固であってこそ神の守護も厚い』と述べている。これは、諸
天善神の守護といっても、人の心の強さによるということである。法華経は、よい剣であ
るが、その切れ味は、使う人によるのである──との意味であります。
 この御文は、自身の信心の強さが、守護する諸天善神の働きを引き出すことを説かれた
重要な御指導です。いくら御本尊を受持していても、何かあったら、すぐに揺らぐような
信心では、諸天の加護はありません。
 たとえば、病気になったりすると、”信心しているのになぜ?”と、現象に惑わされ、
御本尊を疑う人がいます。しかし、生身の人間である限り、病気にもなります。
 もし病気になったとしても、不退の信心を貫き、強靱な生命力を涌現し、自らを蘇生さ
せていくための信心なんです。目的は、何があっても負けない自分をつくることにある」
posted by ハジャケン at 10:25| 山梨 | 新・人間革命 共戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月17日

共戦 53

共戦 53

 信心の現証を痛感した山村年子は、一途に学会活動に励むようになった。ある時、大阪
に住む学会員の知人から、山本伸一が関西を訪問することを聞いた。
 山村は、”ぜひ、室長にお会いして、徳山の座談会での失礼をお詫びしたい。また、入
会後、病も乗り越えたことを報告したい”と思い、関西本部に伸一を訪ねた。
 「山村さんでしたね。あなたのことは、よく覚えていますよ。信心し、健康になられて
本当によかった。立派になりましたね」
 彼女は、自分のことを覚えていてくれたことが嬉しかった。
 「あの時の座談会では、反発ばかりして、申し訳ございません。もともと、人に負けた
くないという心が強い性格なんです」
 伸一は、笑いながら語った。
 「それを仏法では、修羅の生命と説いているんです。外見は立派そうでも、内心では、
”常に人よりも勝っていたい”と思い、他人を自分より下に見て軽んずる。その『勝他の
念』が修羅の本質です。
 そして、虚勢を張ったり、地位や権力を誇示して、自分を偉く見せようとする。また、
自分より優れ、名声や尊敬を集めている人がいると、憎み、嫉妬する。
 日蓮大聖人は、『諂曲なるは修羅』(御書二四一p)と言われている。『諂曲』というのは、
自分の心を曲げて、人に媚びへつらうことです。修羅は、驕り高ぶってはいても、本当の
力も、自信もないから、強大な力の前では、不本意でも、ひれ伏し、媚びへつらう。本質
は臆病なんです。ずるいんです。
 実は、そこに、自分を不幸にしていく要因がある。その生命と戦っていく力が、仏法な
んです。
 広宣流布の大願に生きるならば、自分に打ち勝つ力が湧きます。その時、修羅の生命は、
仏界所具の修羅界、菩薩界所具の修羅界となって、悪を打ち破る大力となり、常勝への執
念となります。
 ともかく、信心は素直に頑張るんですよ」

posted by ハジャケン at 09:59| 山梨 ☁| 新・人間革命 共戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月16日

共戦 52

共戦 52

 山村年子は、山本伸一を一瞥し、鼻先で笑うようにして尋ねた。
 「では、お聞きしますけど、御本尊というのは紙ですよね。紙に字が書いてあるだけの
ものに、なぜ、そんなに力があるんですか」
 伸一は、真心を込めて語っていった。
 「紙でも、大きな力をもっているではありませんか。五万円、十万円の小切手を、『これ
は紙だ』と言って、捨てますか。届いた電報に『ハハキトク』とあったら、紙の文字でも、
平気ではいられなくなるでしょう。
 地図も紙です。正しい地図を信じて歩みを運べば、目的地に行けるではありませんか。
幸福を確立する生命の力を開くための、信仰の根本となる対象が御本尊なんです」
 彼は、多くの例を挙げて訴えていった。
 「山本室長。時間です。これ以上、遅れると、次の座談会に間に合わなくなります」
 同行している幹部に促され、伸一は、やむなく腰をあげた。部屋を出る時にも、もう一
度、山村に呼びかけた。
 「信心して、幸せになってください」
 彼女は、返事をしなかった。心のなかでは、伸一に、なんとも言えぬ温かさを感じ、信
心しようという思いは、ほぼ固まっていた。でも、信心すると言えば、”負け”を認める
ような気がしたのだ。
 しばらくして彼女は入会した。伸一をはじめ、学会員の鼻を明かしてやりたいと思い、
御本尊の力を試してみることにしたのだ。
 一週間は、真剣に唱題し、次の一週間は、やめてみた。結果は、あまりにも明白であっ
た。題目を唱え始めた日から、喘息の発作はピタリと治まった。唱題をやめると、死ぬの
ではないかと思うほど激しい発作が起こり、顔が別人のようにむくんでしまった。
 ”御本尊様の力は、よくわかりました! 信じますから、病気を治してください”
 山村は御本尊に、ひたすら詫びた。
 御書に「道理証文よりも現証にはすぎず」(一四六八p)と仰せのように、厳たる現証に、
山村は、信心に目覚めたのである。
posted by ハジャケン at 10:48| 山梨 ☁| 新・人間革命 共戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月14日

共戦 51

共戦 51

 山本伸一が記念勤行会の会場に入ると、皆が大きな拍手で彼を迎えた。
 最前列に、メガネの奥の目を潤ませ、盛んに拍手を送る、着物姿の年配の婦人がいた。
山口開拓指導で山本伸一から仏法の話を聞き、ほどなくして入会し、草創期の徳山で支部
婦人部長として活躍してきた、山村年子であった。
 ──一九五六年(昭和三十一年)十一月、彼女は、伸一が出席して行われた徳山の座談
会に参加した。もともと病弱で、長年、喘息にも苦しみ、さまざまな薬の副作用からか、
顔のむくみが引かなかった。こんにゃくの製造・販売業を営む夫の事業も不振で、彼女も
金策に駆けずり回る毎日であった。
 座談会で伸一は、山村に声をかけた。
 「どうぞ、前にいらしてください」
 山村は、宗教自体、信じる気にはなれなかった。”どうせ、うさんくさい話をするんだ
ろう。徹底して反論してやろう”と思いながら、前に進み出ていった。
 「奥さん、何か、悩みをかかえていらっしゃるんじゃありませんか」
 日々、悩みだらけである。それを見透かされたような気がして、しゃくに障った。
 「べつに、悩みなんかありませんよ!」
 伸一は、笑顔を向けると、「なぜ、正しい信仰が必要か」「仏法とは何か」などを、諄々
と語っていった。
 山村は、内心、その話に納得した。しかし、同時に、”負けてなるものか!”という気
持ちが、むくむくと頭をもたげてきた。
 理性ではよいとわかっていても、感情的な反発が生じ、行動に移せないことがある。し
かし、その感情をコントロールし、勇気をもって、進歩、向上のための第一歩を踏みだす
ことから、幸福への歩みが始まるのだ。
 伸一は、話し終えると、山村に言った。
 「ご病気ではありませんか? 病を乗り越えていくには、御本尊に題目を唱え、生命力
をつけていくことが最も大事です。信心をなさってみてはいかがですか!」

posted by ハジャケン at 10:52| 山梨 ☀| 新・人間革命 共戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月13日

共戦 50

共戦 50

 入会を決意した大山ツネは、息子の寿郎にも入会を勧め、母子で共に信心を始めた。
 寿郎は、それから一週間ほどして、鉄鋼会社に、就職が内定した。これが、大山親子に
とって、初信の功徳となったのである。
 山本伸一が二度目に「ちとせ旅館」を訪れた時、寿郎は、母親と一緒に伸一の部屋にあ
いさつに行った。
 その時、伸一は、「常に、しっかり勉強していくんだよ」と語り、社会で勝利していくこ
との大切さを訴えた。
 大山ツネは、一九七二年(昭和四十七年)に他界するまで、地域に深く根を張り、徳山
広布の推進力となってきた。
 伸一と初めて会って以来二十年、息子の寿郎は、既に結婚し、職場の第一人者となって
いた。彼は、東京本社に勤務していたが、会長の伸一が故郷の徳山を訪問すると聞いて、
感謝の思いから、伸一を迎えようと、妻子と共に駆けつけてきたのである。
 伸一は、徳山文化会館で出迎えてくれた人たちに言った。
 「山口開拓指導で信心した人たちが、頑張っているのが嬉しいね。これからも、地域広
布の先駆けになってください。広宣流布の道は、身近なところから開いていくんです。
 地域広布は、いつか誰かが、してくれるものではない。自分が立つ以外にありません。
 私は、アパートに住んでいた時には、隣の方から仏法対話をしたし、山口開拓指導の時
も、知り合った身近な人たちに、どんどん仏法を語っていきました。常に、一人でも多く
の人に仏縁を結ばせたいとの思いで、粘り強く、妙法を語り抜いてきました」
 側にいた、県長の梅岡芳実が言った。
 「先生の出られた座談会では、参加していた何人もの友人が、一同に入会を希望したと
の話を、よく伺います」
 「そういうこともあったが、折伏は、そんなに簡単なものじゃないよ。反発して怒鳴り
だしたりする人もいた。でも、誠実を尽くして語れば、その言葉は心に残ります」
posted by ハジャケン at 11:20| 山梨 ☀| 新・人間革命 共戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月12日

共戦 49

共戦 49

 山本伸一は、女将の大山ツネに尋ねた。
 「子どもさんは、お一人ですか」
 「はい。一人息子です。夫がおりませんもので、私が一人で育ててきました」
 「ご苦労されたんですね。そのご苦労が報われ、努力した人が、必ず、幸せになれる道
を教えているのが仏法なんです。
 仏法は、幸福への航路を示す人生の羅針盤といえます。運命に翻弄されて、道に迷って
いては損です。女将さんも、一緒に信心に励んで、幸せになりましょうよ」
 女将は、「はい!」と言って頷いた。女性従業員も一緒に信心することになった。
 大山ツネは、かつて、満州(現在の中国東北部)で、建築技師の夫と、幸せな家庭生活
を送っていた。一九三四年(昭和九年)には息子の寿郎も生まれ、未来は希望にあふれて
いた。
 しかし、その翌年、突然、夫が「馬賊」と呼ばれていた略奪を繰り返す集団に拉致され、
戻って来ることはなかった。
 やむなく、三六年(同十一年)に息子と二人で彼女の故郷の山口県に引き揚げ、母子で
暮らした。身を粉にして働きに働いて、小料理屋を開き、苦労してためた金で旅館を買い
取った。その喜びも束の間、旅館は、空襲で灰燼に帰してしまった。
 戦後、苦闘の末に、旅館を再興し、女手一つで子どもを育てた。大学にも進ませ、いよ
いよ卒業という時になって、その息子の就職が決まらないのである。
 彼女は、息子の就職もさることながら、苦労を重ねて、幸福をつかみかけると、決まっ
て、砂が崩れるように消えてしまう、自身の運命に強い不安を感じていた。人には、動じ
ぬ素振りを見せてきたが、内心は、人生の変転に怯えていたのだ。それだけに、「幸せにな
りましょうよ」という伸一の言葉が、心に突き刺さったのである。
 人は皆、幸せになる権利をもっている。幸せになるために生まれてきたのだ。そして、
それを実現するための信心なのだ。
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2012年01月11日

共戦 48

共戦 48

 山本伸一が、山口開拓指導で徳山入りし、「ちとせ旅館」を訪れたのは、一九五六年(昭
和三十一年)十一月のことであった。
 その夜、この旅館で座談会が行われることになっていた。
 夕刻、女将の大山ツネが厨房にいると、背広姿の、きちんとした身なりの青年があいさ
つに来た。伸一である。
 「このたびは、大勢で押しかけ、大変にお世話になります。ご迷惑にならぬよう、細心
の注意を払ってまいりますが、何かございましたら、遠慮なく、おっしゃってください。
よろしくお願いいたします」
 実は、女将は、最初、たくさんの客が入ったことを喜んでいたが、出入りが激しいこと
から、いささか閉口していたのだ。しかし、伸一の礼儀正しさに驚き、?この人たちなら、
何も問題はないだろう?と、安堵に胸を撫で下ろしたのである。
 誠実さは、礼儀正しい振る舞いとなり、そこから信頼が生まれるのである。
 この夜の座談会には、女将も派遣メンバーに誘われて、参加する約束をしていた。とい
っても、冷やかし半分で、女性の従業員と一緒にのぞいてみることにしたのだ。
 夜、仕事が一段落すると、彼女は、座談会に顔を出した。
 なんと、中心で話をしているのは、あいさつに来た、あの青年であった。
 実に堂々としており、その声には、強い確信があふれていた。
 伸一は、宿命転換の直道は、真実の仏法にあることを訴えたあと、女将に声をかけた。
 「女将さんも、何か、悩みがおありなのではありませんか」
 「息子が、来春、大学を卒業するんですが、まだ、就職が決まっていないんです。今は、
それが最大の悩みです」
 もともと勝ち気な性格であり、悩みなど、人に語ったことはなかったが、つい相談した
くなって、口に出してしまったのである。言ったあとで、?しまった!?と思った。
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2012年01月10日

共戦 47

共戦 47

 五月二十一日、山本伸一は、朝から、揮毫の筆を執り続けていた。あの人も、この人も
励ましておきたいと思うと、作業は、際限なく続いた。妻の峯子は、伸一が揮毫した書籍
や色紙を受け取っては、手際よく並べて、墨を乾かしていった。
 この日の午後、彼は、四月に落成した徳山文化会館を訪問し、山口広布開拓二十周年を
祝う記念勤行会に出席する予定であった。
 作業が一段落し、急いで昼食を取り始めた時、地元の幹部が告げた。
 「山口開拓指導の折、先生の話を聞いて入会した桃田ミツさんと、ご主人の吉太郎さん
という高齢のご夫妻が、訪ねて来ております」
 「お会いします。よく存じ上げています」
 彼は箸を置くと、夫妻と会い、肩を抱きかかえるようにして会館の庭を歩いた。
 「生命を結び合った共戦の同志を、私は、生涯、忘れません。私たちは、広宣流布の三
世の旅路を、こうして、いつまでも一緒に歩いていくんです」
 創価の師弟、創価の同志とは、広宣流布の久遠の契りに結ばれた仏子の結合である。ゆ
えに、その絆は、何よりも固く、強い。
 伸一は、夫妻と記念のカメラにも納まり、固い握手を交わして見送った。彼らの目には、
三世の広布旅を誓う、涙が光っていた。
 「さあ、時間だね。出発しよう!」
 夫妻を激励した伸一は、そのまま車で小郡駅に行き、新幹線で徳山駅に向かった。二十
年ぶりの徳山訪問である。
 午後一時半前、徳山文化会館に到着すると、十人ほどのメンバーが出迎えてくれた。皆、
見覚えのある人たちであった。
 「しばらくぶりだね!」
 伸一が言うと、同行していた中国方面の責任者である副会長が、一人の壮年を紹介した。
 「こちらが、大山寿郎さんです。山口開拓指導で、先生が徳山で泊まられ、拠点になっ
た『ちとせ旅館』の息子さんです。その時に、お母さんと一緒に入会しております」
 「よく覚えています。学生さんだったね」
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2012年01月09日

共戦 46

共戦 46

 山本伸一は、山口文化会館の開館記念勤行会のあと、山口大学の大学会メンバーとの懇
談会に参加し、夕刻、車で外出した。
 山口県の幹部から、地元の誇りでもある菜香亭を、一度、訪問してほしいと言われてい
たのである。
 菜香亭は、明治の創業以来、百年以上の伝統をもつ料理屋である。名づけ親の井上馨を
はじめ、木戸孝允や伊藤博文、山県有朋といった明治の元勲も足跡をとどめている。
 そして、ここの調理師の一人が、学会員であるというのだ。伸一は、その調理師の壮年
を励ましたかった。また、文化会館の管理者など、陰の力となって会館を支えてくれてい
る人たちを慰労するため、菜香亭で一緒に食事をすることにしたのである。
 菜香亭の建物は、明治初期の建築で、太い柱と高い天井が威風を放ち、磨き込まれた長
い廊下が伝統の輝きを感じさせた。部屋には、元勲らの書を収めた扁額があった。
 伸一は、庭の青葉を眺めながら、この五月が、木戸孝允の没後百年であることを思い起
こした。木戸は、吉田松陰に師事し、師の志を継いで明治維新を成し遂げた一人である。
 伸一の脳裏には、戸田城聖と、松陰について語り合ったことが、懐かしく蘇った。
 戸田は、よく、「一人の松陰、死して、多くの松陰をつくったのだ」と語っていた。
 松陰は、刑死の数日前、弟子たちへの手紙で、自分の死を悲しむなと訴え、「我れを知る
は吾が志を張りて之れを大にするに如かざるなり」(注=2面)と記している。
 私の心を知るということは、私と同じ志を掲げて、さらに、それを大きく実現していく
ことであると述べているのだ。彼の弟子たちは、この師の期待を、裏切らなかった。
 学会も、伸一をはじめとする弟子たちが、広宣流布という戸田城聖の志を受け継ぎ、実
現してきたからこそ、大いなる発展があった。
 伸一は今、自分の志を受け継ぐ真の弟子たちが、この山口の天地から陸続と育ってほし
いと、心の底から思い、願うのであった。
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2012年01月07日

共戦 45

共戦 45

 人間は、三世にわたる生命の因果の理法に立脚して生きるならば、心の内に、おのずか
らモラルが確立され、善の王道を歩むことができよう。当然、そこからは、人の不幸のう
えに、自分の幸福を築こうという発想は出てこない。
 今日、モラルの低下が指摘されて久しく、いじめや迷惑行為、不正行為も、後を絶たな
い。その防止のためには、法律などによる外からの規制の強化が必要な面もあろうが、よ
り根本的な解決のためには、モラルの規範となる確たる法理を、人間の心に打ち立てるこ
とである。つまり、人の目は、ごまかすことができたとしても、生命の因果律からは、誰
人も、決して逃れることはできないという思想の確立こそが不可欠であり、喫緊の課題と
いってよい。
 人間は、この法理のもとに、よき人生を築こうと努力するなかで、人格も磨かれていく
のである。ゆえに、仏法者とは、輝ける人格の人でなければならない。
 文豪トルストイは、「真の、真面目な生活とは、ただ、自覚された最高の法によって進む
ものだけである」(注=2面)と記している。
 山本伸一は、仏法の因果の理法を確認したあと、信仰の意味について言及した。
 「人それぞれの宿命があり、人生には、事業の失敗や病気など、さまざまな試練があり
ます。その烈風にさらされた時、ともすれば”もう駄目だ”とあきらめ、無気力になった
り、自暴自棄になったりしてしまう。そこに”不幸の習性”をつくりあげる罠がある。こ
れが怖いんです。
 信心というのは、その”不幸の習性”という鎖を断ち切る、不屈の挑戦の力なんです。
 試練に直面した時に、”こんなことでは負けないぞ! 今こそ宿命を転換するんだ!”
と、敢然と挑み立つ勇気を湧かせていくための信仰であることを知ってください」
 最後に伸一は、皆が、健康・長寿で、信仰の喜びを満喫した人生を送ってほしいと念願
し、話を結んだのである。
posted by ハジャケン at 10:05| 山梨 ☀| 新・人間革命 共戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月05日

共戦 43

共戦 43

 五月二十日午後、晴天のもと、山口文化会館では開館記念勤行会が行われた。
 勤行会で山本伸一は、二十年前の山口開拓指導に触れながら、懇談的に話を進めた。
 「山口開拓指導は、戸田先生から、直接、指示を受け、私が指揮を執った戦いでした。
 当時、山口県の広宣流布は、他地域と比べて、著しく遅れていた。戸田先生は、昭和三十一年(一九五六年)の九月初め、私を呼ばれ、広宣流布の飛躍の転機をつくるために、『山口県で指導・折伏の旋風を起こしてみないか』と言われました。
 私は、即座に、お答えしました。
 『はい! やらせていただきます』
 その師弟の呼吸から、あの大闘争は始まったんです」
 伸一は、山口県に縁故者がいる全国の各支部員に、開拓指導への参加を呼びかけた。
 当時の会員には、生活の苦しい人も少なくなかったが、陸続と、勇んで名乗りをあげてくれた。
 派遣隊は、まさに、民衆によって組織された広布の奇兵隊≠ナあった。
 「室長と一緒に戦いまっせ! どこへでも飛んで行きまっせ!」と、意気軒昂の関西の友もいた。
 皆が、広宣流布に生きることを、最高の誉れとしていた。そこに、人生の至高の価値があることを、熟知していたのである。
 戸田城聖と伸一の師弟の魂の結合、さらに、伸一を中心とした同志の結合――それが、あの山口開拓指導の大勝利を打ち立てたのだ。
 伸一は、懐かしそうに、当時を回顧しながら、語っていった。
 「山口は私にとって、大切な広布開拓の故郷です。二十年前、拠点となる会館は一つもなく、各地に点在する会員も、皆、貧しかった。しかし、今や、こうして、立派な文化会館も誕生し、山口創価学会は、盤石な布陣が整いました。二十年前に、皆さんと共に蒔いた種子は、山口の各地で花開き、そして今、見事に実を結んだんです」
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2012年01月04日

共戦 42

共戦 42

 山本伸一たちが、山口文化会館に戻ったのは、午後八時過ぎであった。 
 会館に入ると、中国各県の青年職員らが、荷物整理などの作業にあたっていた。伸一は、中国女子部長の本間三津代に尋ねた。
 「山口県以外の人たちが大勢来ているが、どうしてなんだい」
 「役員として応援に来てもらっています。女性が十二人、男性は二十五人です」
 それを聞くと、伸一は、中国方面の責任者である副会長に言った。
 「役員の人数が多すぎるね。ここは、いわば、山口創価学会の本陣だ。本陣というのは、ざわざわしていてはならない。少数精鋭で、てきぱきと仕事を片付けていくことが大事なんだよ。明日から役員は、今日の十分の一でいい。一人が十倍の力を出せばいいんだから。それが人材革命≠セよ。
 みんな地元に帰って、同志の激励、指導に回るんだ。その方が価値的じゃないか。
 私は、せっかく山口に来たんだから、山口の青年たちを、直接、訓練したいんだよ。
 それなのに、ほかの地域から何十人もの人が来て、動き回っていたのでは、山口の人の顔が見えなくなってしまう。
 数少ない山口の職員や青年が、一切の責任をもって運営にあたるのは大変にちがいない。緊張もするだろうし、失敗もあるかもしれない。でも、失敗してもいいんだ。それが学習になり、教育になる。何かあったら、私が守ります」
 伸一は、一人ひとりの青年たちが、いとおしくて仕方なかった。共に行動し、語り合い、励まし、自分の知っていることは、すべて教えておきたかった。しかし、普段は、その機会はない。だからこそ、その地の青年たちとの出会いを、何よりも大切にしたかった。
 彼は上着を脱ぎ、青年たちに呼びかけた。
 「さあ、一緒に荷物の山を片付けよう。二十分で終わらせよう。私が陣頭指揮を執るよ。みんなには休んでもらい、青年が黙々と働くんだ。青年の時代だよ。戦闘開始だ!」
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2012年01月01日

共戦 41

共戦 41

  初日の出
    己が心も
      初日の出

 一九五三年(昭和二十八年)の元朝、山本伸一が詠んだ旬である。彼は、燃えていた。
 “さあ、戦い抜くぞ! いよいよ広布後継の大闘争の時代を迎えた。戸田先生のお心を体して、慈折広宣流布大願成就への大きな流れを開き、先生にご安心していただくのだ”
 翌一月二日、彼は、二十五歳の誕生日を迎える。そして、この日、男子部の第一部隊長の任命を受けたのである。さらに、四月には、文京支部長代理に就任している。
 伸一は、前年、蒲田支部幹事として二月闘争の指揮を執り、学会創立以来、一支部としては未聞の弘教を成し遂げ、戸田が掲げた会員七十五万世帯達成の突破口を開いた。
 その彼が、さらに重責を担い、広宣流布の最前線に躍り出だのが、この五三年であった。
 伸一は今、山口文化会館に戻る車中にあって、二十四年前に詠んだ句を、頭のなかで反復しながら、思いをめぐらしていた。
 “私は、日々、「初日の出」とともにあろうと、深く心に誓ってきた。
 初日の出──それは、波浪猛る大海原に勇んで飛び出し、暗黒を一変させる、新しき挑戦の情熱である。勇気と歓喜の炎である。
 その光が、自他共の苦悩の闇を破り、人生を黄金の希望に染めゆくのだ。青年とは、常に、心に太陽をいだいている人だ”
 彼は、車に同乗していた山口県長の梅岡芳実に語った。
 「『初日の出』を迎えた思いで、広宣流布の新しい歴史を創っていこう! みんなが、勇んで戦いを起こし、一日一日、誇らかな『自分物語』を、心に綴っていくんだ。
 大ドラマには、苦闘と涙がある。でも、ヒーロー、ヒロインは負けない。悲しみや苦しみが深ければ深いほど、勝利の感動は大きい。一人ひとりが主人公であり、偉大な使命の勇者だ。みんなが綴る物語が楽しみだな」
posted by ハジャケン at 10:16| 山梨 ☀| 新・人間革命 共戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月29日

共戦 40

共戦 40

 山本伸一は、亀山公園で車を降りた。
 彼は、園内を散策しながら、末法広宣流布のために、門下が死身弘法の信心を確立するよう念願された、日蓮大聖人の御胸中を思った。
 法華経の目的は、一切衆生を仏にすることにある。大聖人は、末法において、それを果たすために、建長五年(一二五三年)四月二十八日、南無妙法蓮華経という題目の大師子吼を放ち、宇宙の根源の法を示されたのである。以来、大難と戦いながら、この妙法をもって、衆生を教化されてきた。
 高僧や武士だけではなく、すべての民衆が、仏法の法理を確信し、死身弘法の信心に立たなければ、万人の成仏はない。
 弘安二年(一二七九年)九月二十一日、迫害の嵐が吹き荒れていた駿河国(現在の静岡県中央部)熱原で、農民信徒二十人が、稲盗人という無実の罪を着せられ、捕らえられるという事件が起こる。熱原の法難である。
 しかし、彼らは、微動だにせず、拷問にも屈することはなかった。強盛に信心の炎を燃え上がらせ、信徒の中心であった神四郎、弥五郎、弥六郎は、やがて、堂々たる殉教の生涯を閉じる。
 皆、僧ではなく、農民である。しかも、日蓮門下となって一年ほどにすぎない。その彼らが、一生成仏へと至る不惜身命の信心を確立したのだ。大聖人が題目を唱え始めて二十七年、一切衆生の成仏という誓願成就の証が打ち立てられたのである。大聖人は、「一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」(御書二六五n)との御確信を、ますます強められたにちがいない。
 「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」(同八五六n)である。
 伸一は、世界広布の新時代を思い描きながら、死身弘法の信念に立つ真の信仰者を、さらに、育て上げなければならないと思った。
 彼は、同行していた幹部に言った。
 「さあ、山口文化会館に戻ろう。少しでも多く、学会の宝である青年と会って、全力で励ましたいんだ。創価の心を伝えたいんだ」
posted by ハジャケン at 09:56| 山梨 ☀| 新・人間革命 共戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月28日

共戦 39

共戦 39

 山本伸一は、フランシスコ・ザビエルの書簡集を読んで、世界広布の道が、いかに険路
であるかを痛感した。
 権勢を誇るローマ教皇庁とポルトガル国家の後ろ盾がある、宣教師のザビエルでも、海
外布教の苦闘は、すさまじいものがある。
 当時、創価学会は、会員も数千人の時代であり、なんの後ろ盾もない。しかも、布教の
担い手は、無名の庶民である会員だ。
 しかし、世界広宣流布は、日蓮大聖人の絶対の御確信であり、御遺命である。ゆえに、
伸一は、人を育て、時をつくりながら、世界広布の幕開けを待
ったのである。
 彼は、戸田城聖のもとで共に戦い、日本国内にあって、幾千、幾万、幾十万の仏子の陣
列を築き上げていくなかで、次第に、世界広布を現実のものとする、強い確信がもてるよ
うになっていった。殉難を恐れずに弘教に生き抜く同志の、不撓不屈の実践と決意を目の
当たりにしてきたからである。
 折伏に励むと、殴られたり、鎌を持って追いかけられたり、村八分にされたりすること
もあった。それでも同志は、忍耐強く対話を重ね、地域に信頼の根を張り、喜々として広
宣流布を推進していったのだ。
 その姿に伸一は、地涌の菩薩の出現を、深く、強く、実感してきた。そして、”世界広
布の時代を開こう”との決意は、”絶対にできる”という大確信に変わっていった。
 また、彼は、一九五四年(昭和二十九年)夏、戸田の故郷・厚田村で、戸田に、こう託
された。
 「世界は広い。そこには苦悩にあえぐ民衆がいる。いまだ戦火に怯える子どもたちもい
る。東洋に、そして、世界に、妙法の灯をともしていくんだ。この私に代わって」
 世界広布は、彼の生涯の使命となったのだ。
 伸一が、?戸田大学?の卒業生として、ザビエル(スペイン語ではハビエル)の名前を
冠した南米ボリビア最古の名門サン・フランシスコ・ハビエル・デ・チュキサカ大学から、
名誉博士号を贈られたのは、この厚田の語らいから五十年後であった。
posted by ハジャケン at 10:30| 山梨 ☀| 新・人間革命 共戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月27日

共戦 38

共戦 38

 日本での布教でザビエルは、創造主という神の概念を、いかにして伝えるかに悩んだ。
 日本人信徒が、キリスト教で説く神の「デウス」を、真言宗の「大日」(大日如来)と訳
したことから、ザビエルも、そう語っていった。しかし、デウスと大日如来とでは、全く
意味が異なることがわかり、「大日」と訳すことをやめている。試行錯誤の連続であったの
であろう。
 ザビエルは、単に教義だけでなく、地球が丸いことや、太陽の軌道、流星、稲妻などに
ついても教えた。日本人は、その豊富な科学的知識に、強い関心を示していった。
 ところで、彼の書簡には、「説教にも、討論にも、最も激しい反対者であった者が、一番
先に信者になった」(注1=2面)とある。
 激しく反対をする人は、それだけ強い信念と関心をもっているということである。した
がって、心から納得すれば、決断も潔いのであろう。また、それは、ザビエルが、どんな
に激しい反対に遭おうが、微動だにすることなく、愛と確信とをもって、理路整然と、粘
り強く語り抜いたことを示している。
 ザビエルは、他の宣教師たちに訴えている。
 「あなたがたは全力を挙げてこの地の人びとから愛されるように努力しなさい」(注2=
2面)
 人間的な信頼を勝ち取ってこそ、布教も結実するのである。
 ザビエルが山口に滞在して、二カ月が過ぎた時には、約五百人の人びとが洗礼を受けた
という。これに、驚き慌てたのが、諸宗の僧たちであった。檀徒が改宗することで、自分
たちの生活基盤が危うくなることを恐れたのである。ザビエルは、改宗した檀徒に、僧た
ちが悪口雑言を浴びせたと記している。
 彼は、日本での布教のあと、日本文化に多大な影響を与えた中国での布教の必要性を痛
感し、中国をめざした。しかし、中国は鎖国下にあり、広東の上川(シャンチョワン)島
で本土上陸を待ちながら、一五五二年、病に倒れ、四十六歳の生涯を閉じたのである。

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2011年12月26日

共戦 37

共戦 37

 フランシスコ・ザビエルは、山口での滞在は一カ月余りで、京の都に出発する。
 時は、まさに戦国の世である。彼らの旅は、盗賊の襲撃や、冬の寒苦に苛まれながらの、
過酷な道のりであった。
 しかも、たどり着いた京の町は、戦乱で激しく破壊されていた。彼らは、献上品を平戸
に置いてきたこともあり、天皇との謁見はかなわず、早々に引き返さねばならなかった。
 ザビエルは、山口で宣教していくことを考え、一度、平戸に戻る。日本では、地位の高
い人と会って話し合いをするには、外見や威儀を整えることが重要であると痛感した彼は、
衣服や献上品を取りに帰ったのである。
 彼は、再び守護大名の大内義隆に会う。今度は、用意していた、インド総督とインドの
ゴアの司教から託された親書を携え、総督の使節として謁見した。時計や銃、メガネなど
の献上品も用意していた。
 大内義隆は、ことのほか感激し、返礼に、金や銀を与えようとする。しかし、ザビエル
は、丁重に断り、宣教の許可のみを求めた。
 快諾が得られた。また、彼らの活動の拠点となる寺も与えられた。
 町のあちこちに、文書が貼り出された。そこには、神の教えを説くことを認め、信者に
なることも自由であると記されていた。
 僧や武士をはじめ、多くの人びとがザビエルのいる寺を訪れ、説教を聴き、さらに、長
時間に及ぶ討論が繰り返された。
 言語も、考え方も、全く異なる日本での宣教に、ザビエルは苦慮し、奮闘した。日本人
に神の教えをわかりやすく伝えるために、日本人信徒の協力を得て、自ら日本語の説明書
も作った。
 かつて彼は、インドネシアのテルナテ島での宣教で、ポルトガル語で書いた説明書を現
地語に訳し、区切って歌えるようにしたこともあった。子どもも、大人も、これを口ずさ
み、異教徒までもが歌うようになっていった。
 わかりやすく教えを説き、深く民衆に根差すなかに、宗教の流布はある。

posted by ハジャケン at 10:15| 山梨 ☁| 新・人間革命 共戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする